第4話 黒川望、動く
保留音が切れた。
「お電話ありがとうございます。コンプライアンス対策室、黒川です」
年配の女性の声だった。
低く、穏やかで、余計な感情が削ぎ落とされている。
俺は背筋を伸ばした。
「お世話になっております。本日、御社○○ビルにて納品作業に伺っている、△△運送の三上と申します」
「はい」
それだけ。続きを促す言葉も、遮る言葉もない。
俺は、佐伯さんに言われた通り、事実だけを順序立てて話した。
・設置業務は契約外であること。
・女性社員から執拗に業務外作業を求められていること。
・それを拒否した結果、サインを拒まれていること。
・課長が状況を黙認し、取引停止を示唆したこと。
話し終えるまで、黒川は一度も口を挟まなかった。
数秒の沈黙。
「確認させてください。業務外作業を断ったことで、業務完了に必要な手続きを妨害されている、という理解でよろしいですね」
「……はい」
「また、その要求は、性別や立場を理由とした発言を伴っている」
俺は一瞬迷ったが、正直に答えた。
「はい」
再び沈黙。その沈黙は重かった。
怒っているわけではない。だが、何かが“確定”したような間だった。
「分かりました。では、こちらから伺います」
「……え?」
「たまたま近くの支社を巡回中でしたので。十分ほどで到着します。そのまま現場にいてください」
通話は、それで終わった。
俺はスマートフォンを下ろし、しばらく動けなかった。
「……来る、って」
「ええ。来ますね」
「電話だけで終わると思ってました」
「本気のコンプライアンスは、現場を見ないと判断しません」
佐伯さんは廊下の向こうを見た。
村瀬の声が、少しずつ大きくなっている。
「たぶん、あちらはまだ“勝った気”でいます」
きっかり十分後。
エレベーターが開いた瞬間、フロアの空気が冷えた気がした。
黒のスーツに、控えめなグレーのストール。派手さはない。だが、背筋が異様にまっすぐだった。
黒川望は、俺たちを見つけるとまず深く頭を下げた。
「本日は、お時間を取らせてしまい申し訳ありません」
その一言で直感した。
この人は“謝る立場”と“責任の所在”を、完全に分けている。
黒川は顔を上げ、静かに言った。
「お話は伺っています。少し、部署の方にお邪魔しますね」
村瀬は、黒川を見るなり表情を変えた。
「え、あの……?」
「コンプライアンス……? どういうご用件で……」
大野課長も立ち上がる。
黒川は二人を見回し、声を荒げることなく言った。
「詳細は、これから確認します」
それだけだった。
だが、その瞬間、部署の空気が目に見えて変わった。
誰もが口を閉ざし、誰もが“正しい姿勢”を取り始める。
黒川はコピー機の箱を一瞥し、俺にだけ小さく視線を送った。
「三上さん、少しだけお待ちください」
その言葉は命令でも依頼でもなかった。だが、逆らう理由もなかった。
黒川は、部署の奥へと歩いていく。
その背中を見ながら俺は思った。
声を荒げない人ほど、組織ではいちばん怖い。
「始まりましたね」
佐伯さんが、ぽつりと呟いた。




