第3話 年寄りの知恵袋
コピー機の段ボール箱は、依然として床の中央に鎮座したままだ。
誰も触らず、誰も動かさない。それがこの部署の「結論」であるかのように。
村瀬は腕を組み、苛立ちを隠そうともせず立っている。
大野課長はパソコン画面から目を離さない。
「……じゃあ、どうするんですか?」
村瀬が言った。
「このまま持って帰るんですか? 仕事にならないんですけど」
「設置作業ができない以上、納品完了にはなりませんので……」
「だから“箱から出すだけ”って言ってるじゃないですか」
声が強くなる。
「それくらい融通きかせてもいいでしょう?」
そのやり取りを、佐伯さんは黙って聞いていた。
壁際に立ち、状況全体を俯瞰するように。
俺は内心焦っていた。
上司に電話すべきか。しかし電話をすれば「現場で何とかならないのか」と言われる未来が見える。かといって、ここで折れれば“悪しき前例”ができる。
その時、佐伯さんが静かに口を開いた。
「三上さん」
声は小さいが、不思議とよく通る。
俺が振り向くと、佐伯さんは少しだけ顎を上げた。
「ちょっと、こっち来ませんか」
二人は廊下に出た。
ガラス越しに見えるオフィスでは、村瀬が誰かに小声で不満を漏らしているのが見える。
「さっき、上に電話しようとしてましたね」
「はい……でも、たぶん、余計ややこしくなるだけで」
佐伯さんは頷いた。
「でしょうね。現場の話を“縦”に上げると、だいたいそうなります」
「……経験ですか?」
「四十年分ほど」
佐伯さんは少し笑った。
そして、ぽつりぽつりと語り始めた。
「私、昔は普通の会社員でした。営業も管理もやりましたが……コンプライアンス部門って、ご存じですか?」
「名前くらいは……」
「出世コースじゃない。普段は暇そう。社内でもちょっと浮いた存在です」
佐伯さんはそこで一拍置いた。
「でもね、“錦の御旗”を持ってるんです」
俺は眉をひそめる。
「会社が一番怖い言葉を、正式に使える部署です」
俺の頭に、ふとその言葉が浮かんだ。――パワハラ。
「現場で声の大きい人が勝つのは、よくある話です。でも、コンプライアンスは“声の大きさ”じゃ動かない。事実と手順だけを見る」
「……でも、取引先ですよ? こっちが波風立てたって思われたら……」
佐伯さんは即座に首を振った。
「正規ルートで、正規の部署に、事実を伝える。それを“波風”と言う会社なら、遅かれ早かれ問題を起こします」
沈黙。
廊下の向こうで、コピー機の箱が軋む音がした。
誰かが苛立って蹴ったのだろう。
俺は、深く息を吸った。
「……代表番号から、指名してもいいんですよね」
「ええ。むしろ、その方がいい」
佐伯さんは即答した。
俺はスマートフォンを取り出す。
指先が少しだけ震えている。
コール音が鳴る。
「お電話ありがとうございます――」
俺は、はっきりと言った。
「御社の、コンプライアンス対策室をお願いします」
佐伯さんはその様子を横目で見ながら、深く満足そうに頷いた。
その瞳は、「それでいいんだ」と語りかけているようだった。




