第2話 サインを拒む権利は誰のものか
佐伯さんは穏やかに微笑んでいるが、状況は一刻を争う。
村瀬はデスクに戻りかけており、完全に俺たちを無視する構えだ。
「会社に連絡するなら、俺がやります。俺が現場の責任者ですから」
「まあ、そう焦らずに。……おや、どなたか来られたようだ」
佐伯さんの視線の先、パーテーションの向こうから、疲れた顔の中年男性が現れた。
大野。
胸元のIDカードには「課長」とある。村瀬が言っていた「会議中」の上司だろうか。
「なんだなんだ、騒がしいな。どうした村瀬さん」
「あ、課長お疲れ様ですぅ。なんかこの配送業者の人たち、融通が利かなくって」
村瀬の声色が、さっきまでのドスの効いたものから猫なで声へと一変した。
彼女は被害者ぶった顔で大野課長にすり寄る。
「重い複合機を玄関に放置して帰るって言うんですよ? 私たちが困るの分かってて。信じられなくないですか?」
「あー……なるほどね」
大野課長は面倒くさそうに頭を掻きながら、俺たちに向き直った。
俺は慌てて姿勢を正す。
話が通じる相手なら、事情を説明すれば分かってくれるはずだ。
「大野課長、配送担当の三上です。先ほどもご説明しましたが、今回の契約は軒先渡しとなっておりまして、設置作業は別途契約が必要な案件なんです。我々の一存では……」
「うんうん、分かった、分かったから」
大野課長は、俺の言葉を手で遮った。
「君ねえ、『契約』とか『規定』とか、正しいこと言うのはいいけどさ。もうちょっと柔軟に対応できないの?」
「……はい?」
「見てよ、うちの村瀬さん困ってるじゃない。ここから奥まで運ぶのなんて、君たちなら五分もかからないだろ? それをゴチャゴチャ理屈こねて断る時間があったら、さっさと運んで終わらせた方が、お互いのためだと思わない?」
耳を疑った。
この人は今、管理職として「契約を無視しろ」と言ったのか?
「ですが、万が一破損などの事故があった場合、保険が適用されません。責任の所在が……」
「あーもう、細かいなぁ! 壊さなきゃいいんでしょ、壊さなきゃ!」
大野課長の声が大きくなり、フロアの空気がさらに彼ら側に傾く。
周りの社員たちも、「早くやれよ」「空気読めよ」と言わんばかりの冷ややかな視線を向けてくる。
「うちは君たちの会社を長く使ってあげてるお得意様だよ? たかだか五分のサービスもできないなら、来季の契約、考え直さないといけないかなあ」
出た。伝家の宝刀、「取引停止」のチラつかせだ。
これはもう、現場レベルの交渉ではない。パワハラであり、優越的地位の濫用だ。
だが、悔しいことに、一介のドライバーである俺には対抗する術がない。
村瀬が後ろで「言わんこっちゃない」という顔でニヤニヤしている。
(……詰んだ)
俺は唇を噛み締めた。
ここで意地を張って帰れば会社に迷惑がかかる。
自分のプライドさえ飲み込んで、タダ働きをすれば丸く収まるのだ。
いつものように。現場の人間が、泥を被ればいい。
コピー機の箱は、変わらず部屋の中央にある。
それは、この現場の歪んだ力関係をそのまま映しているようだった。




