第1話 ここまでは俺たちの領分
「三上さん、左オーライ。あと五十センチ」
「はい、ゆっくり行きます」
バックモニター越しの誘導棒に合わせて、俺、三上恒一は慎重に四トントラックを後退させた。
タイヤが車止めに当たる鈍い衝撃と共に、サイドブレーキを引く。
「ふう……。ここも狭いな」
「都心のビルなんてどこも似たようなもんですよ。屋根があるだけマシです」
助手席から降りてきたのは、佐伯さんだ。
今年で六十三歳。
定年退職後のアルバイトとして、俺のような若造の助手を務めてくれている。
白髪交じりの短髪に、深く刻まれた皺。
作業着姿でなければ、大企業の役員と見紛うごとき品がある。
「三上さんは運転が丁寧だから、乗っている方も安心ですよ」
「佐伯さんの誘導のおかげです。……さて、行きますか」
俺たちは荷台を開け、本日のメインディッシュに取り掛かった。
業務用の大型複合機だ。重量は百キロを超える。
パワーゲートで地面に下ろし、専用台車に固定する。
ここからは人力の勝負だ。
「せーのっ」
気合を入れて台車を押す。
俺たちの仕事は、メーカーから預かった商品を指定されたオフィスや店舗に届けること。
今日の届け先は、中堅の広告代理店だった。
エレベーターで五階へ上がり、エントランスへ向かう。
自動ドアが開くと、冷房の冷気が汗ばんだ肌に心地よく当たった。
「配送です! 複合機のお届けに参りました!」
声を張り上げると、奥のデスクから一人の女性社員が億劫そうに歩いてきた。
村瀬由香。三十代後半だろうか。
派手なネイルに、強めの香水。首から下げた社員証を揺らしながら、彼女は露骨に顔をしかめた。
「あー、やっと来た。遅いんだけど」
「申し訳ありません。道路が少し混雑しておりまして」
「ふーん。まあいいわ。とりあえず、奥の総務部の空いてるスペースにお願い」
村瀬は顎でオフィスの奥をしゃくった。
俺は佐伯さんと顔を見合わせ、丁寧な口調で切り出した。
「恐れ入りますが、伝票の契約条件では『軒先渡し』となっております。こちらのエントランスでの受け渡しとなりますので、受領印をお願いできますか」
物流業界には「線引き」がある。
契約内容によって、運ぶ場所も作業範囲も厳密に決まっているのだ。
今回の契約は、あくまで「届ける」まで。設置や屋内移動は含まれていない。
だが、村瀬の眉がピクリと跳ね上がった。
「はあ? 何言ってんの? こんな重いもの、ここで降ろされてどうすんのよ」
「ですが、契約ですので……。台車はお貸ししますから、ここからはお客様の方で移動をお願いします」
「あのねえ!」
村瀬の声が一段大きくなり、オフィス内の視線が一斉に突き刺さった。
「見てわかんない? うちの部署、今、男手がいないのよ。私みたいな女だけで、こんな鉄の塊を運べって言うの? あんたたち、それでも男?」
「性別の問題ではなく、これは業務契約の問題でして」
「融通が利かないわねえ! ちょっと運ぶくらい、サービスでやってくれたっていいじゃない。減るもんじゃあるまいし」
減るもんじゃない、か。
俺たちは時間と体力を削って仕事をしている。
万が一、契約外の場所へ運んで床を傷つけたり、商品を破損させたりすれば、保険も下りず責任問題になる。
俺はぐっと堪えて頭を下げた。
「お気持ちは分かりますが、社内規定で禁止されているんです。申し訳ありませんが、ここに置かせていただきます」
「……あっそ」
村瀬は鼻で笑うと、腕組みをして俺を見下ろした。
「じゃあ、サインしないから」
「え?」
「受領印。押さないって言ってるの。だって、まだ『指定の場所』に届いてないもんね?」
心臓が早鐘を打った。
受領印がなければ配送完了にならない。
持ち帰れば「未配送」扱いになり、再配達コストがかかる上、俺の評価にも傷がつく。
かといって置いて帰れば「荷物放置」のクレームだ。
「村瀬様、それは困ります。商品は無事にお届けしました」
「私の希望する場所に置いてないわよ。箱からも出してないし、コンセントも差してない。そんな中途半端な仕事に、サインなんてできるわけないでしょ」
悪意のある屁理屈だった。
だが、今の俺たちにとって、客のサインは絶対だ。
オフィスの奥から数人の男性社員がこちらを窺っているが、誰も助け舟を出そうとはしない。
村瀬という女性が、この職場でどういう立ち位置なのかが透けて見えた。
「……上司の方を呼んでいただけますか」
「課長? 今、会議中。終わるの夕方かもね」
村瀬は勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「さあ、どうするの? さっさと奥まで運んで、箱から出して設置してくれれば、今すぐハンコ押してあげるけど?」
俺は拳を握りしめた。
現場の判断ではどうすることもできない。
ルールを守れば仕事が終わらず、破ればリスクを負う。
額から流れる汗が、目に入って沁みた。
その時、ずっと黙って後ろに控えていた佐伯さんが、静かに一歩前に出た。
「三上さん」
「……佐伯さん、すみません。手間取ってしまって」
佐伯さんは、穏やかに言った。
「三上さん、一度、落ち着きましょう」
俺は深く息を吸った。
現場では、善意が正解とは限らない。
この時、俺はまだ知らなかった。
この「サイン一つ」が、自分の仕事観を大きく揺さぶることになるのを。
コピー機の箱は、部屋の中央に置かれたまま。
誰も触らず、誰も動かさない。
それが、この現場の冷徹な「線引き」だった。




