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グレイブハル城の観測者  作者: かも ねぎ
拾遺 第二章『知られなかったものたち』
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拾遺2-4 気づかなかった痕跡


 ヘンリーは終始、鞄を胸に抱えるようにして歩いていた。

 視線は楽しげに、グレイブハル城のあちらこちらを巡っている。


 だが、アウレリウスが彼から目を離すと、背後から視線を感じる。

 振り返っても、目が合うことはない。


 二人の足は回廊へ向かった。


 ここでも、音は響かない。

 並んだ窓から淡い光がいくつも落ち、足元を木漏れ日のように揺らしている。


「エドマンド・ヴァレイン侯爵ですが……奥様は異国の女性だったそうですね」

「うん、そうだよ」

「政略結婚だったと聞いていますが、夫婦仲は良好だったとか。

 侯爵ご自身も人格者と名高く、王からの信頼も厚かった」


 アウレリウスは、柔らかく笑った。


 ――エドマンドは、僕から見ても人格者だった。

 威厳があって、賢くて、優しくて、器の大きな人だった。


 エドマンドが褒められるのは、嬉しい。

 けれど、ほんの少しだけ――

 胸の奥が締め付けられる。


 窓の外に視線をやる。


 小さな音がして振り返ると、ヘンリーは鞄を抱えたまま、肩を震わせていた。


「……どうしたの?」

「あぁ、いえいえ。本当にお美しいなと思っただけですよ」

「……そう。

 その“夫人の部屋”は、当時のまま残っているんだ。見に行こうか」

「ええ、ぜひ。楽しみです」


 回廊を抜け、生活棟へ向かう。

 上階にある、夫人の部屋。


 拡散した光が流れ込み、その部屋の華やかさを際立たせていた。

 バルコニーからは夕陽が見え、見学者にも人気の場所だ。


 臙脂に落ち着いた植物文様の壁紙。

 小さな書き物机、化粧台。

 裁縫箱、聖書、香水瓶。


 すべてが、そのままだ。


 髪飾りさえ、箱に収められたまま。

 上品で、それでいて華やか。


 ――きっと、夫人もこの部屋が似合う、美しい人だったのだろう。


「お子にはあまり恵まれなかったそうですね。嫡男となる長男一人きり。

 その妻と息子も、馬車の事故で亡くなり……侯爵は静かに政治の舞台から身を引いた、と」


 ――知ってはいた。

 ――けれど、理解していなかったのかもしれない。


 ヘンリーは鞄を前に抱えたまま、夫人の品々に触れないよう注意深く目を走らせている。


「バルコニーからは、夕陽がきれいに見えるよ。行く?」

「ええ、ぜひ。グレイブハル城の湖と夕陽は有名ですからね」


 アウレリウスは頷き、先にバルコニーへ出た。


 冷たい風が頬を撫でる。

 金の髪が、一瞬ふわりと舞った。


 欄干に手を置いて振り返ると、ヘンリーは目を見開き、息を呑んでいた。


「……おいでよ。きれいだよ」

「……は、はい」


 彼は首を振り、思考を振り払うようにしてアウレリウスの隣に立つ。


「いやぁ……本当にきれいですね。写真に撮りたい!」

「夕陽だけなら、撮ってもいいよ」

「……やめておきます。撮るなら、お城も一緒がいいですから」


 湖面が、かすかに揺れる音。


「グレイブハル城は、エドマンド・ヴァレイン侯爵の全盛期に建てられた。

 それがよく分かります。王都の近くで、こんな景色を手に入れられる男は、そういない」


 霧に包まれた王都が、湖の向こうに静かに佇んでいる。

 王のいる街。

 エドマンドのいた城。


 アウレリウスは、改めて夫人の部屋を振り返った。


 重いカーテンのついた天蓋付きのベッド。

 ベルベットのカーテンに施された刺繍が、赤い光を柔らかく弾く。

 香水瓶のガラスが、夕陽を返している。


 ――夫人も、この景色を見て、香りをまとい、あのベッドで眠っていたのだ。


 なぜ、今まで気に留めなかったのだろう。

 こんなにも、生活の痕跡が残っているのに。


 エドマンドは、彼女を愛していたのだ。

 だから、死後もこの部屋に手を付けなかったのかもしれない。


 ――なぜ、今まで気づかなかったのだろう。

 ――エドマンドに、愛する人がいたことを。


 カチャリ、と鞄が鳴る。


 視線を向けると、ヘンリーはへらりと笑った。

 真鍮の眼鏡が夕陽を鈍く弾き、レンズがその瞳を隠している。


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