拾遺1-5 与えない優しさ
受付室で執筆していたアウレリウスは、ふと顔を上げた。
城内の案内を終えたセティが戻ってきたらしい。
明け放たれた玄関扉の向こうから、見学者の声が届いてくる。
「お兄ちゃん、楽しかったね」
「うん。噂通り、どこか“不思議”な城だった」
十二歳前後の妹と、年の離れた兄の二人組だ。
「本当に来られて良かったよ。商会の仕事が忙しくて、なかなか妹に構ってやれなくてね。
案内してくれて、ありがとう」
「いえ。楽しんでいただけたなら、何よりです」
「夕陽もとても綺麗だったわ。とても幻想的で――」
その瞬間、悲鳴が上がった。
石床に、何かが強く打ちつけられる音。
足を滑らせた少女を、セティが咄嗟に庇った。
彼女を抱きかかえるようにして、彼自身が石床に倒れ込む。
「君! 大丈夫か!」
兄が叫ぶ。
だがセティは淡々と少女を立たせ、スカートの汚れを軽く払ってやった。
そして、顔を覗き込む。
「お怪我は?」
「……ありません」
兄の方を向く。
「お嬢様をお守りできて、良かったです。石の階段は滑りやすいですから」
「君は?」
「問題ないです」
「……本当に申し訳ない。うちの妹がそそっかしいばかりに……」
セティは首を振り、わずかに口角を上げた。
「グレイブハル城が、お嬢様にとって嫌な場所にならなければいいんですけど」
「……王子様……」
「こら! ちゃんとお礼を言いなさい」
叱られて、少女ははっとして深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「……いいんです」
兄はセティにも、受付室にいたアウレリウスにも、何度も頭を下げて妹を連れ、馬車に乗り込んで去っていった。
夕焼けの中へ溶けていく馬車を、二人は並んで見送る。
「見せて」
セティが、きょとんとアウレリウスを見る。
「……え?」
「……怪我したでしょ」
腕を組み、じっと見つめる。
「すぐ治ります」
「でも、痛いでしょ」
その声に含まれた圧を感じて、セティは観念したようにジャケットを脱ぎ、シャツをまくった。
肘に擦り傷があり、血が滲んでいる。
「薬を持ってくる。受付室で待ってて」
「でも」
「セティ」
「……はい」
アウレリウスは書斎へ上がり、作り置きの軟膏を手にして戻った。
ソファに座るセティの前に屈み、丁寧に薬を塗る。
「本当に、すぐ治ってしまうのに……」
「セティが痛いのは、僕が耐えられない」
柔らかく笑い、袖を元に戻してやる。
「それにしても……セティも罪深いね。“王子様”だってさ」
声を立てて笑うと、セティは眉をひそめた。
アウレリウスは気にした様子もなく立ち上がり、軟膏の瓶をポケットにしまう。
「門を閉めてくるね」
「……はい」
――薬は、錬金術ではない。
薬草学の知識で作ったものだ。
内門の鉄扉を閉め、鍵をかける。
ひんやりとした感触。
空を仰ぐ。
赤く染まった空に、星が点々と浮かび始めている。
錬金術で作るのは、もう少し手間のかかるものだ。
執筆用のインク、洗浄液、金属を傷めない磨き液、石材の保存液、絨毯の染み抜き。
城の水回りを改築する前は、浄化液も頻繁に作っていた。
グレイブハル城を、セティと二人だけで維持できているのは、結局、錬金術のおかげだ。
水質管理にも気を配っているから、病に伏すことも少ない。
この身体を、人の医師に見せるわけにはいかない。
自分たちで守るしかないのだ。
踵を返すと、玄関前で燭台を持ったセティが待っていた。
セティは、いい子だ。
僕が守るべき存在。
錬金術は、使いこなせれば便利だ。
だが、僕はそれで罪を犯した。
この力は、大きすぎる。
だから――
セティには、この知識を与えないと決めている。
僕が使いこなし、僕が守ればいい。
近づくと、セティが少しだけ口角を上げた。
抱き寄せると、彼は慌てて燭台が当たらないよう腕を伸ばす。
本当に、いい子。
かわいくて、愛しくて、大切な子。
――「許してほしい」とは、言えない。
胸の奥が、わずかに軋んだ。
夕焼けは山の向こうへ沈み、
グレイブハル城に、夜が訪れる。




