拾遺1-3 静かな夜の本
窓枠の形をした光が、壁をゆっくり登っていた。夜のグレイブハル城は、昼間より少し、ざわついている気がする。
アウレリウスは、燭台を手に持ち、城の中を見回りしていた。見る場所は特に決めていない。その時々で、見たい場所を見る。“見回り”とは名ばかりで、彼の場合、ほぼ“散歩”だった。
石床は、相変わらず音を飲み込んでしまう。
回廊の並んだ窓から、一つ、二つと落ちている月光を数えるように踏んで歩いた。
ふと立ち止まる。
夜着の上に羽織ったガウンの紐が、少しだけ揺れた。
窓から、ふわりと外の空気が漂ってきた。
――もうすぐ、夏が来る。
匂いが、変わってきた。
――また、もう少し経ったら、
採集に行こうかな。
返事をするかのように、蝋燭の火が微かに揺れる。
「夏か……」
――いつも霧に包まれている王都も、夏は少し晴れるかな。
回廊を渡りきり、一階を歩いていると、いつもの気配を向こうから感じる。
「セティ」
少年は、少し早足に廊下を歩いてアウレリウスに寄ってきた。
「アウル」
濡れた髪を布で包んでいる。
彼の夜着の肩に、雫が垂れていた。
手を伸ばして、いつものように、少しだけ髪から水滴を拭ってやる。
「今日は王都に行ったから、お湯を沸かしたんです。温かいうちにアウルもどうですか」
「……そうだね。髪、あとで乾かしてあげるね」
そっと頬に触れ、セティの額にキスを落とす。
石鹸の匂いがした。
◇
髪を洗い、短く湯に浸かり、体を拭いた。
体が温まって、少しホッとする。
今日も、セティは本を買ってきていたな。
本当に彼は読書が好きだよね。
長い髪を布で包む。
白い夜着を羽織った。
――それにしても、なぜ、僕は乗馬は教えたくないんだろう。
セティが王都に行くのは気にならないんだよね……。
だから、馬車の扱いは教えたんだ。
――どうしてだろう。
危険だから?
……いや、そういう理由ではない気がする。
夜着の前を留めると、その上からガウンを羽織る。
――考えても分からないや。
早く部屋に戻って、セティの髪を乾かしてあげよう。
セティの夜着が濡れてしまうのは可哀想だ。
◇
アウレリウスが書斎に寄ってから私室に戻ると、セティはソファに姿勢正しく座って本を読んでいた。
書斎から持ち出した本をテーブルに置き、セティの後ろに回って、布で彼の髪の水気を拭う。
セティはアウレリウスをちらっと見ただけで、大人しく髪を乾かされていた。
「……初めて見る本な気がします」
テーブルの上に置かれた大型本。
「あぁ、あの本?」
「はい」
「うん。買ってたんだけど、しまい込んで、そのままだったんだ。植物の本だよ」
「そうですか」
「見てみる?」
「……いいんですか?」
アウレリウスは一度手をとめて、テーブルに回ると、本を取ってセティに渡した。両手で受け取ったセティは、丁寧に本を開く。
「絵がきれいですね」
「うん。図が詳細で、分かりやすいんだ。
その分ちょっと高かったけどね」
セティはページをいくつか見ただけで、本をテーブルに戻して立ち上った。
「……見ないの?」
「アウルの髪を乾かします。座ってください」
「……そっか。
じゃあ、お願いするよ」
かわりにアウレリウスがソファに座り、本を手に取る。セティはアウレリウスの背に回ると、丁寧に布で髪を包むようにした。
「アウルは、専門書が好きですね」
「……そうかな」
アウレリウスはソファの上にあぐらをかくようにして座り、その膝の上で本を開く。
「この間は、自然科学の本で、その前は化学でした」
「よく見てるね」
「アウルのことなので」
「あはは。なんだそれ」
「裁定集だったり、新聞だったりもしますけど、小説の類はあまり読まないですね」
アウレリウスが振り返る。
「……恋愛小説を貸してって言ったら、セティが断ったんじゃないか」
セティは、アウレリウスの顔を覗き込んだ。
「貸しませんよ、絶対」
アウレリウスは声を立てて笑った。
暖かい日の夜は、穏やかだ。
燭台の橙の光に照らされて、二人の影は寄り添うように、壁に長く映っていた。




