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グレイブハル城の観測者  作者: かも ねぎ
拾遺 第一章『境界がまだ壊れていない日々』
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拾遺1-2 静かな距離


 閉城日。

 澄み切った青が、どこまでも続いているような、とてもいい天気の日だった。


 朝の支度や掃除を済ませると、セティはふらっと外へ出かけていった。

 おそらく、王都だろう。

 書斎にいたアウレリウスの耳に、かすかな馬車の音が届き、それはほどなく、遠ざかっていった。


 完全に音が聞こえなくなるのを待って、アウレリウスは立ち上がった。読んでいた本を片付け、静かに着替え始めた。


 深い灰色のブリーチズに、生成りのハイネックシャツ。

 その上から、限りなく黒に近い深緑の狩猟用ショートジャケットを羽織る。

 

 これは、エドマンドから譲り受けたものだ。 


 腰丈ほどの長さで、背中と肩には革の当て布が施されている。留め具は、“侯爵家当主”であった彼に見合う、美しい装飾がなされていた。

 足元も、先のとがった貴族的な乗馬兼用ハイブーツ。

 ツールベルトに道具を差し、手袋を嵌め、革のショルダーバッグを背負う。


 彼は一度髪を払うと、部屋を出ていった。


 向かう先は厩。

 手際よく馬に鞍などを取り付け、一気にまたがると、彼は城を出て、森を目指す。


 アウレリウスは乗馬が好きだ。


 だが、セティには乗馬は教えていない。たいてい彼が王都へ出かけているときに、短時間だけアウレリウスも出かけるのだ。セティが戻るより先に、城へ帰る。この城に鞍があることさえ、セティは知らないかもしれない。


 なぜセティに、自分が馬に乗れることも、

 馬に乗る方法も、教えたくないのか。


 アウレリウス自身にも、よく分からなかった。


 森に入ると、自然に速度が落ちる。

 蹄が踏むのは、落ち葉と湿った土だ。乾いた音は立たず、重みだけが、低く伝わってくる。枝葉が道を覆い、陽射しは細かく砕かれて落ちている。

 馬は首を少し下げ、耳を前後に動かしながら進む。人の足より高い位置から、森を“跨いで”進んでいる感覚。

 風は地表よりも柔らかく、葉擦れの音が、馬の歩調と重なって、一定のリズムを作っていた。


 そうしていると、木々の間隔が、少しずつ広がっていく。

 空が、上からではなく、前方に現れる。

 葉越しだった光が、はっきりとした輪郭を持ち始めた。


 風が変わる。


 湿り気を含んだ森の匂いに、冷たい岩の気配が混じる。

 馬は自然に歩みを緩める。蹄が踏む地面が、柔らかい土から、ざらついた砂利へと変わった。


 崖だ。


 眼下には、深く切れ落ちた影。その向こうに、湖の色が、わずかに覗いている。


 アウレリウスは一度、馬を止める。

 崖の縁に立つと、世界は急に縦に広がる。


「……いつ見ても、綺麗だね」


 独り言は、風にさらわれて、すぐに消えた。

 

 アウレリウスは森の奥へ回り込み、岩肌に沿って、緩やかに高度を下げる獣道へ。

 木の根が張り出し、ところどころ、蹄を置く位置を選ばせる場所がある。アウレリウスは、身体をわずかに前へ倒し、馬の動きに合わせて重心を移した。


 森の影に溶けるように口を開けている、洞窟の入口。

 ここでは、外の音が、ふっと薄くなる。

 馬を下り、手綱を軽く持つ。

 洞窟の奥から、冷えた空気が流れ出してくる。石と土と、わずかな金属の匂い。アウレリウスは、道具を背負い直し、静かに中へ入っていった。


 この場所も、よく知っている。

 目的の場所まで迷わずにたどり着くと、ランプを足元に置き、ピッケルで叩いていく。

 色を持つ、鉱石。

 手のひらで転がすように持つと、それを試料袋に丁寧に入れていく。

 

 それを何度か繰り返した後、アウレリウスはツールベルトから一本の削り出した黒鉛の棒を取り出して、岩壁に陣を描いた。

 手袋を外して、軽く陣に触れる。それが一瞬だけ淡く光るのを一瞥すると、彼はまた手袋を嵌めなおし、出口へ向かった。

 

 外へ出ると、光が、少し眩しい。

 目が慣れるまでの、短い時間。

 森の緑が、ゆっくりと輪郭を取り戻す。

 

 馬は、少し離れた木陰で待っている。草を噛んでいたのか、顔を上げ、鼻を鳴らした。


 少しだけ移動して、次は植物採集に取り掛かる。

 葉の裏を確かめ、茎の硬さを指で量り、必要な分だけを、丁寧に切り取る。


 すべて終えて、再び馬に乗る。

 

 湖畔へ向かう。

 グレイブハル城の湖の反対側。


 風が、甘い水の匂いを運んでくる。

 視界が開け、森の縁が後ろへ下がる。

 

 湖は、いつも静かだ。

 空を映し、雲を溶かし、何も問わない。


 アウレリウスは手綱を緩め、馬の首を軽く撫でる。

 

 霧に包まれた王都、それから、グレイブハル城が見える。

 

 水の音に身を委ねるようにして、瞳を伏せた。

 甘やかな匂いを含んだ風が気持ちいい。


 セティが戻る前に、帰らなくては。


 彼に乗馬を教えないのは、

 この瞬間を、独り占めしたいのか。


 それとも、

 自分はセティを、

 あの城に閉じ込めておきたいのかもしれない。


 ――自分でも、分からなかった。

 


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