10-8 名残惜しさの正体
僕が初めて見たものは、とても綺麗な涙だった。
その涙の人は、いくつかの懺悔の言葉を残して、床にうずくまるようにして泣き崩れてしまった。
――抱きしめてあげなくちゃ。
自分が乗っていた台を降りる。
けれど、まだうまく歩けず、転んでしまった。
それを見たその人は、まだ自分だって涙をこぼしているのに、慌てて僕に駆け寄り、手を貸してくれた。
そばに来てくれたその人を、抱きしめる。
語彙は、まだ少ない。
どんな言葉なら、伝わるだろう。
「あなたを……愛しています」
その人は、とても驚いた顔をしていた。
でも、多分、この言葉で間違っていない。
――僕は……孤独に耐えきれず、罪を犯してしまった……
――君を、造ってしまった……
その人が、懺悔のつもりで口にした言葉。
つまり、あなたは――
罪を犯すほど強く、僕を望んだんだよね。
僕がここにいる。
それだけで、あなたが僕を欲し、愛した証だ。
悲しまないで。
泣かないで。
僕は、嬉しくて、嬉しくて、仕方ないんだ。
アウルは、いつも悲しそうだった。
話しかければ、すぐ応えてくれる。
優しく笑ってくれる。
でも、その青い瞳には、いつも薄い影が差していた。
僕が初めて一人で王都に行き、ささやかな贈り物を買って帰った日。
アウルは僕を抱きしめて、「愛している」と言った。
その言葉も、行為も、もちろん嬉しかった。
けれど何より、彼の瞳の影が、ほんの少し薄れていたことが、たまらなく嬉しかった。
翌朝。
いつも通り先に起きて身支度を整えていると、アウルが起きてきた。
「おはよう、セティ」
「おはようございます、アウル」
窓辺に立つ僕のそばへ来て、彼は僕を抱きしめた。
強くはない。そっと触れるだけの抱擁。
そして、額に短く、ほんの一瞬のキス。
「大好きだよ、セティ」
「……」
――何か、吹っ切れるきっかけがあったのかな。
アウルは、柔らかく笑った。
初めて見たときから綺麗な人だと思っていた。
でも、“目が奪われる”というのは、きっとこういうことなんだ。
僕が何も言えないでいるうちに、アウルはすっと離れ、身支度を始めた。
笑ってくれた。
今までの、どこか悲しそうな笑顔じゃない。
彼が、ちゃんと笑ってくれた。
良かった。
それだけで、嬉しい。
それから、アウルの瞳は、日に日に澄んでいくようだった。
楽しそうに笑うことが、少しずつ増えていった。
あの瞳が、もう二度と翳らないように。
僕は彼を守ろう。
そう、決めた。
ある開城日。
僕は、ひとりのご婦人の案内をしていた。
「あなた、おいくつ?」
「……十五です」
年齢はよく聞かれるので、アウルと相談して、そう答えることにしている。
「あら、やっぱりそのくらいよね。
うちの息子の若い頃を思い出してしまって。あなたほど賢そうではなかったけれどね。うふふ」
謙遜しているけれど、きっと自慢の息子なのだろう。
「本は読むかしら?」
「読書は好きです」
「恋愛小説は?」
「……」
ご婦人は、にこやかに一冊の単行本を差し出した。
「これ、差し上げるわ。今、流行っているの。
過激な描写はないから、安心して」
「え……、でも……」
本は高価だ。
新聞や雑誌とは違う。
アウルは値段を気にせず買ってしまうこともあるけれど、単行本は決して安くない。
「いいのよ。夫がね、これ以上恋愛小説が増えるのを嫌がっているの。
もらってくださるなら助かるわ。それに……」
しぶしぶ、本を受け取る。
「女性向けの恋愛小説を読むのは、勉強になるわよ。
女性の理想の男性像を知ることができるんですもの。
これであなたも、女の子にモテモテね」
ウィンクされた。
女の子にモテたいと思ったことはないけれど、これはもう、断れない。
「……ありがとうございます」
せっかくだ。
読んでみよう。
翌日。
その本を読んで、正直、衝撃を受けた。
キスというものは、額だけのものではない。
抱擁は、胸が締めつけられるほど、強くするものなのだ。
「セティ、案内に行ってくるね」
受付室の小窓の前から、アウルがこちらへ歩み寄ってくる。
見学者の視線が外れているとき、彼は必ず、僕に触れてから行く。
この日も、僕の前に立ち、額に短いキスを落とした。
僕が手を伸ばすと、ほんの一瞬、その指先に触れる。
柔らかな笑みを残して、彼はすっと離れていった。
触れられた指先を、自分の唇に当てる。
――キスか……。
アウルの抱擁は、触れるだけだ。
そして、すぐに離れてしまう。
僕は、それを、名残惜しく思っている。
――この気持ちは、本に書かれていた“恋”に近いのではないだろうか。
けれど、アウルは僕にそういう感情を抱いていない。
そんな役割も、僕に求めていない。
――アウルに、触れていたい。
これは、邪な気持ちなのかもしれない。
この国の宗教でも、禁忌とされるものだ。
アウルが求める僕であるために、
この気持ちは、永遠に隠し通そう。
彼の瞳が、二度と翳ってしまわないように。
僕は彼を守ると、
そう、決めているのだから。




