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グレイブハル城の観測者  作者: かも ねぎ
正編 第十章『越えてはならない境界』
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10-5 死にたいと言わなかった夜


 アウレリウスはまず、セティを自分の部屋のソファに座らせた。


 それから、はっとしたように踵を返し、服を探し始める。


 クローゼットは開けなかった。どうせ空だ。

 下着も、シャツも、ズボンも、ローテーブルの上に積まれたまま。どれもこれも、しわだらけだ。


「……これを着せるのか……。背に腹は代えられないけど……。ちゃんと洗濯しなきゃ……」


 服を抱え、少年の前に立つ。


 ――あ。


「……名前……。どうしよう」


 見上げてくる、モスグレーの瞳。

 賢そうで、けれど柔らかく、どこか神秘的な色をしている。


「セ……セティ……かな。

 君の名前は、セティ……だよ」


「セティ?」


 確かめるように、少年が小さく繰り返す。

 アウレリウスはセティを立たせ、服を着せていく。

 セティは何も言わず、されるがままだ。


 ――生まれてすぐの記憶は曖昧なんだよな。

 僕のときは、どうだったんだろう……。


「あなたは……?」


 ふと、問いかけられる。


「僕? ……あぁ、名前?

 僕はアウレリウス。長いから、“アウル”でいいよ」

「アウル……」


 服を着終えたセティを、改めて眺める。


 ――僕の服じゃ、少し大きいな。

 王都に行って、ちゃんと仕立てたい。

 でも、いきなりこんな服で行ったら目立つかな。

 まずは庶民街で一通り買って、それから仕立屋に……。


 ――それに、僕自身も、久しく王都に行ってない。

 流行、変わってるだろうな……。


 セティの裾と袖を折り、動きやすく整えてやる。

 セティは、その様子をじっと観察していた。


「人はね、服を着て生活するんだよ」


 アウレリウスは、そっとセティの髪に触れた。

 さらりとして、柔らかい。


「このまま下ろしておくと、少し邪魔かな。縛ろうか」


 再びセティを座らせ、紐を探しに行く。


 ――また、城の解放もちゃんとやろう。

 見学は受け入れていたけど、案内はずっとしていなかった。

 エドマンドの遺産は莫大だけど、永遠じゃない。

 ……お金は、ちゃんと稼がないと。


 革紐を見つけて戻ると、セティは顔を上げ、わずかに微笑んだ。


 ――表情があまり動かないのは、生まれたばかりだからか。

 それとも……こういう子なのか。


 背後に立ち、髪を一つに縛る。

 結び終えて、肩を軽く叩いた。


「終わったよ」

「僕も……。僕もやりたいです。アウルの髪」

「僕の髪を縛りたいってこと?」

「はい」

「縛り方、わかる?」

「……」


 首を傾げる。


 ――健気だな。

 ……かわいい。


 アウレリウスはもう二本紐を取ってくると、セティの前にかがみ、一本を彼の手首にゆっくりと結んだ。


「分かった」

「……分かった? 一回で?」


 セティはソファの肘に手をつき、慎重に立ち上がる。

 まだ足取りは覚束ない。

 背に立ち、じっとこちらを見つめてくる。


「あっ……座れ、ってことだね」


 アウレリウスがソファに座ると、セティは指で丁寧に髪を梳き、まとめていく。

 首筋に触れる手が、ほんのり温かい。


 ――エドマンドも、こうして毎日髪を縛ってくれた。


 結び終えたセティが、両肩をぽん、と叩いた。


 ――終わると、必ずこうだった。


「アウル……。痛かったですか?」


 背後から覗き込むセティの眉が、心配そうに寄っている。


「え?」

「泣いてます」


 指先が頬に触れる。

 確かに、少し湿っていた。


 アウレリウスは、思わず笑った。


「なんでもないよ。

 ちょっと……嬉しかっただけ」

「髪を縛ったら、アウルは嬉しいですか?」

「……うん。セティにやってもらえて、嬉しかった」


 ほとんど無表情のままなのに、

 彼がとても喜んでいることが、なぜかはっきりと分かった。




 夜。

 アウレリウスは、とりあえずセティを自分のベッドで寝かせた。


 眠るということ自体が、セティにとっては初めての経験だ。

 最初は戸惑っていたようだが、しばらくすると、規則正しい呼吸に変わった。


 アウレリウスはベッドの脇に屈み、そっとセティの前髪を掻き分ける。


 ――幼い子ども、というほどでもないし……。

 部屋は、やっぱりあったほうがいいかな。


 ――でも、夫人の部屋とエドマンドの部屋は見学経路として残したい。

 客室はあるけど、整理していないし、この部屋から遠い。

 できれば、何かあったとき、すぐ駆けつけられる場所がいい。


 ――この部屋は私室にするには一番広いし……。

 しばらくは、一緒でいいか。

 セティが個室を欲しがったら、そのときに考えよう。


「あ……今日、洗濯しなかったな。

 明日は絶対やらなきゃ……」


 小さく呟く。


「王都にも行って、セティの服を買いたい。

 新聞も、ちゃんと読まないと……」


 ――水道設備も、かなり発達したって聞いた。

 今までは一人だったし、錬金術で何とかしていたけど……。

 ちゃんと人を入れて、改修工事をしよう。


 ――セティには、不便な思いをさせたくない。

 僕の責任だもの。

 ちゃんとしてやらなきゃ。


 シーツから少しはみ出したセティの手を、そっと取る。


 ――もう、一人じゃないんだ……。


 アウレリウスは、かすかに首を振った。


 ――だめだ。甘えてはいけない。

 彼の人生を、ちゃんと考えなきゃ。

 こんな重たい運命を背負わせてしまったのは、僕なんだから。


 手を離し、窓辺へ向かう。


 少し欠けた月。

 雲はなく、星々が無数に瞬いている。


 白い光が、世界を柔らかく包んでいた。

 風が草原を渡り、

 遠くの王都は、霧に包まれながら、眠らずに淡く光っている。


「あ……」


 ふと、気づく。


 ――今日は、一度も

 “死にたい”って、思わなかったな。


「セティも……

 この世界を、綺麗だって思ってくれるかな」


 窓ガラスに額を預ける。

 ひんやりとして、心地いい。


 ほんの少し。

 本当に、ほんの少しだけ。


 強張っていた心が、ほどけていくのを、

 アウレリウスは確かに感じていた。



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