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グレイブハル城の観測者  作者: かも ねぎ
正編 第十章『越えてはならない境界』
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10-3 泣くことだけが許された日


 雨が降っていた。

 土と植物に染み込み、恵みとなるような、温かな雨だった。


 アウレリウスは目を覚ました。

 草地に身を伏せ、全身が雨に濡れている。


 投げ出された指先を見る。

 いつもの、整った指。

 袖口には、乾いた血と、古い身体の組織がこびりついていた。


 動けなかった。

 全身の骨折も、傷も、まだ治りきっていない。

 失った血の量も、これまでとは比べものにならないほど多い。


 だが、それ以上に――彼は疲れ切っていた。

 動こうという気力さえ、もう湧かなかった。


 雨ざらしのまま、向こうに広がる湖面の揺れを、ただ静かに見つめる。


 いくつかの夜をまたぎ、ようやくアウレリウスは起き上がった。

 その場に座り込み、空を仰ぐ。

 星々の瞬きが、静かに彼を見下ろしていた。


 頬を、涙が伝う。


「僕には……死の資格がないんだ……」


 ――彼は、この日、死ぬことを諦めた。




 死ねないのならと、身を清め、部屋に戻り、白いシャツを着た。

 気力を失ってから、洗濯らしい洗濯もできていない。

 水につけて干しただけの、皺だらけのシャツだ。


 大きなベッドに身を投げる。


 見上げると、天蓋は破れていた。


 破ったのは、自分だ。


 どうしようもない破壊衝動に駆られ、壊してしまった。

 意味もなく、自分以外のものを壊そうと思ったのは、あれが初めてだったかもしれない。


 あの天蓋も、かつてエドマンドが選んだものだった。


 破れた布を目にした瞬間の、耐え難い喪失感と嫌悪感。

 今思い出しても、吐き気がする。


 アウレリウスはベッドの上で、無為に時を過ごした。

 少し眠っては目を覚まし、目覚めていても、ただ窓や天井をぼんやりと見つめるだけ。


 そうして、いくつもの夜と朝を迎えた。

 数日だったのか、数年だったのか、もはや彼自身にもわからない。


 ある時、ふと、思い出した。


 シャツの前を留め、ブーツを履く。

 アウレリウスは、ふらりと部屋を出た。




 気力を失ってから、馬をつなぐのをやめていた。

 世話をするだけの気力も体力も、残っていなかったからだ。


 城の周囲には草原があり、湖もある。

 だが、飼いならされた馬だ。

 ――死んでしまったかもしれない。


 内門を抜け、外へ出る。


「草原にいるかな……。厩には、さすがにいないよね」


 視線を巡らせると、茶色の馬が二頭、寄り添うように歩いてきた。


 ――ひどく、痩せている。


 両手を差し出すと、馬はその手に頬を寄せた。

 瞳から、涙が溢れる。


「ごめん……。ごめんね……。

 ひどいことをした」


 撫でると、もっと撫でろとでも言うように、体を寄せてくる。

 絡まったたてがみ。

 浮き出た肋骨。


 胸が、締めつけられた。


「少しだけ、歩こう。

 丘の上まで行ってみようか」


 二頭に挟まれながら、ゆっくりと歩く。

 内門と外門の間にある丘を登る。

 手入れをしていないはずの石畳は、欠けることもなく、静かに彼らを導いた。


 丘の上。

 夕陽が、遠くの山に触れている。


 峰を、森を、草原を。

 すべてを赤く染めていた。


 細い雲が赤と灰に濡れ、

 冷えた風が頬を撫で、金の髪を揺らす。


 ――あの日、エドマンドと遠乗りした時に見た夕陽も、

 こんなふうに、美しかった。


 ――彼はもう、この世界のどこにもいない。 


 ――あの日は、二度と戻らない。


 アウレリウスは膝をつき、草原に手をついた。


 そして、泣き崩れた。


 彼に許されたのは、

 ただ、泣くことだけだった。



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