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グレイブハル城の観測者  作者: かも ねぎ
正編 第十章『越えてはならない境界』
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10-2 壊れきれないもの


 初めは、食事を摂らなかった。


 かつてグレイブハル城に勤めていた使用人たちが、大量に残していった保存食は、とうの昔に尽きていた。

 それでもアウレリウスは、王都に通って食材を買い足し、新しい料理に挑戦したことがある。料理本まで買った。

 純粋に、食べることは楽しかったのだ。


 だが、孤独が心を蝕むようになると、そのすべてが億劫になった。


 食べることをやめた。

 飲むことも、やめた。


 人は水を摂らなければ、三日ほどしか生きられない。


 空腹は、はじめのうちは確かにあった。

 惨めなほどのひもじさと、耐えがたい無力感。喉の渇きも、はっきりと感じていた。


 しかし、三日も過ぎれば――何も感じなくなった。


 ――そう。

 彼は、人とは違うのだ。




 エドマンドの書斎には、錬金術に関するあらゆる書物が収められていた。

 哲学、自然学、解剖学、古代文献。

 化学と植物学の書には、毒の精製方法も記されている。


 アウレリウスは、毒を創った。


 その日も、月の綺麗な夜だった。

 自らの書斎の椅子に腰掛け、躊躇いもなく、それを飲み干す。


 喉が焼け、胸を掻きむしる。


 椅子から転げ落ち、絨毯に身を預けた。

 爪には血が滲み、血を吐き、苦しさにのたうち回る。


 ――そして。


 何日か後の朝が来る頃、彼は再び目を覚ました。


 喉は、まだ焼けただれている。

 息を吸うたび、空気が漏れる音がした。

 暴れた際に剥がれたはずの爪は、すでに元に戻っている。


 起き上がり、その場に座り込む。


 絨毯には、血のついた手で引っ掻いた跡。

 吐血の痕だけでなく、吐瀉物も残っていた。気づかぬ間に、吐き出していたのだろう。


 虚ろな青い瞳が、それらをただ見つめる。


「……毒は、効かないんだ。

 胃を介するものは、駄目なのかもしれないな……」


 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、層をなして、ゆっくりと部屋を揺蕩う。


 おぞましいほどの死への欲求だけが、

 ――今の彼を、かろうじて支えていた。




 その日は、水面に弾かれた光の粒が、楽しげに舞っていた。


 アウレリウスは服の内側に重りを仕込み、ゆっくりと湖へ入っていく。

 金の髪が水面に浮かび、道標のように揺れた。


 身を自然に委ね、深瀬へ。


 水面の光の輪が、美しく歪む。

 吐き出された泡が、彼から離れ、空へ帰っていく。

 水を大量に飲み込み、生への本能が呼吸を欲した。

 喉を掻きむしる。

 それでも、身体は、深い湖の底へ沈んでいった。


 ――そして。


 次に目を覚ましたとき、視界いっぱいに青い空が広がっていた。

 雲は薄く、緩やかな風が鼻先を撫でる。


 湖に浮いたまま、視線を落とす。


 着込んでいたコートは破れていた。水底で、何かに引っ掛けたのだろう。記憶はない。


「……また、だめだったんだ。

 根本的に、組織を破壊しなくては、駄目かもしれない……」


 小鳥が歌いながら、空を横切っていく。

 耳元で、水の音が揺れていた。


 残酷なほどに、

 世界はその日も――美しかった。




 その日は、雪の降る、静かな朝だった。


 窓一面に広がる銀世界。

 祝福も、懺悔も、すべてを飲み込んでしまうような、音のない日。


 淡い雪光に照らされながら、アウレリウスはエドマンドの書斎に残されていた小型の溶鉱炉で鉄を溶かした。


 液状化し、橙に光を帯びるそれを、錆びた容器に移し、両手で掲げる。


 それを、喉へ流し込む。


 音を立てて、肌が焼かれ、溶けていく。

 跳ねた鉄が、目をも焼いた。


 視界が奪われ、床に倒れ込む。


 激痛に全身が痙攣する。

 肌は焼け爛れ、それは骨にまで達していた。


 ――やがて。


 よく晴れた日だった。

 床に転がった容器に、淡い光が一筋差し込んでいる。


 窓の向こうでは、雪はとうにやんでいた。

 鳥のさえずりが聞こえる。春が来たのかもしれない。


 倒れたまま、白い指先を見る。

 唐突な吐き気。


 口を塞ぐ硬い感触を吐き出し、身をわずかに起こして、何度も嘔吐した。

 粉々になった鉄が、吐き出される。


 浅い呼吸。


 口元を拭うと、手は赤く染まった。

 それが血なのか、吐き出された鉄なのか、もはや分からない。


 顔も、喉も、胃の腑も、火傷だらけだった。

 ――だが、これも、じきに治ってしまう。


「……まだ、足りないのかな。

 もっと、壊しきらなければ……」


 自分の声とは思えないほど、しゃがれていた。


 求めずとも、

 美しい春は、そこまで来ていた。


 彼が何をしようと、

 世界は、何事もなかったかのように回り続ける。




 柔らかな風が、頬を撫でる。

 雲が、空を優雅に泳いでいく。

 金の髪が、ゆるやかに舞った。


 彼は、塔の上にいた。

 グレイブハル城でもっとも高い場所。


「……これで、終われるかな」


 どれほど苦しみ、寝食を拒んでも、

 彼は相変わらず美しかった。


 傷一つない白磁の肌。

 傷みを知らぬ金の髪。

 澄んだ青い瞳。

 少年と青年のあわいにある、細い体躯。


 彼が何をしようと、

 無情なほどに――彼は、ただ美しかった。


 アウレリウスは、塔から飛び降りた。


 骨の砕ける音。

 美しい顔も、頭蓋も、内臓も、すべてが損壊される。


 ――これで、本当に終わりにできる。

 ――美しかったすべてが、壊れたはずの瞬間だった。



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