8-8 世界は美しかった
侯爵エドマンド・ヴァレインは、この時代の人間としては、長く生きた。
だが、それでも彼が置いていかねばならない者の存在は、彼にとってあまりにも大きかった。
彼は最期の床で、涙を流した。
真っ白になった髪。顔はしわだらけで、首や手も細くなった。
震える手を、愛しい者に伸ばす。
アウレリウスはベッドの脇で、その手を取った。両手で包み、宝物のように抱きしめる。
「アウレリウス」
「うん。エドマンド……」
互いの声は、震えていた。
エドマンドの声はしゃがれて、とても聞き取りやすいものではなかった。
「私を、許してくれるか」
灰の瞳から、一粒、一粒、涙が溢れる。
エドマンドは、誇り高い男だった。決して人前で泣くような人間では、なかった。
アウレリウスの青い瞳からも、透明な雫が落ちていく。
「……僕はエドマンドといた毎日が、幸せだった。
許すことなんてない。許されないことなんて、初めから何もなかったんだ」
「……アウレリウス」
「エドマンド、愛してるよ」
アウレリウスは立ち上がると、エドマンドの額にキスを落とした。震える手で、白い髪をそっと撫でる。
アウレリウスの涙が、エドマンドの頬に落ちた。
「私も、愛している」
これまで何度もエドマンドがアウレリウスに伝えた言葉。
「アウレリウス、お前は世界中の誰よりも美しい。
誰にも尊厳を踏みにじらせてはいけない。
お前を、私は、愛している。
心の底から」
「エドマンド……」
「お前を本当に――愛しているよ」
エドマンドは言い切ると、眠たげに目を細めた。
「ま……待って……。エドマンド……」
瞳が閉じられる。
「エドマンド……、ねぇ、エドマンド!」
アウレリウスが顔を上げると、エドマンドの傍らに立っていた医師が首を振った。
アウレリウスは顔を歪める。
「う……、
――うわぁぁああああ!!」
エドマンドにすがるようにして、アウレリウスは声を上げて泣いた。
こうして、アウレリウスの創造主である、エドマンド・ヴァレインはその生涯に幕を閉じたのだった。
エドマンドには、跡継ぎはいなかった。
そのため、彼の葬儀は国が主導で行われた。
侯爵家が一つ、歴史から消えたのである。
葬儀が終わると、使用人達は皆、去っていった。
エドマンドが生前そうするようにと命じていたからだ。
ある使用人は料理ノートを、またある使用人は掃除の仕方ノートを、アウレリウスに渡した。
城も、調度品も、掃除用具の一点まで、磨き抜かれていた。
日持ちする食用品が、食料庫に収まりきらないほどに残された。
肌着やリネンも、何年かけても使い切れないほどの量を、アウレリウスのために使用人達は用意し、置いていった。
こうしてアウレリウスは、グレイブハル城に一人になったのだ。
―――
アウレリウスは私室の窓枠に肘をつき、世界を見渡した。
初めて見た日からこの世界は変わらない。
風が柔らかく頬を撫でた。
青い空は果てを知らず。
深く波打つ森。
雪を纏う峰々。
甘い湖の香り。
人の住まう、王都の街並み。
花が咲き乱れる庭園。
彼を、世界が一斉に包み込む。
どれほど悲しくても、
どれほど寂しくても、
世界はその日も、
――美しかった。




