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グレイブハル城の観測者  作者: かも ねぎ
正編 第七章『水のような日々』
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7-2 あとから来る痛み


 大ホール。


 かつては多くの貴族を招き、音楽が奏でられ、シャンデリアが星のごとく瞬いていた。

 幾度も華やかな宴が催された、その名残を留める部屋。


 今は、青みを帯びた白大理石の床に、昼の光が淡く落ちる沈黙の空間だ。

 壁に飾られた巨大な油絵も、誰の意識にも上らないまま、ただ静かに佇んでいる。


 アウレリウスは、重たい木製の脚立を運び込み、その上に立っていた。

 目が眩むほどに高い天井から吊り下げられた、巨大なシャンデリアの掃除。


「けほっ」


 はたきを振るたび、乾いた埃が宙に舞う。


 アウレリウスは手のひらを広げ、ふわりと漂ってきた綿埃を受け止めた。


「あはは。雪みたい」


 手を払って埃を落とし、今度は布巾で一つひとつ、淡々と汚れを拭っていく。


 頻繁に手を入れる場所ではない。日頃の細かな掃除はセティが担ってくれているからこそ、こうした高所や力のいる作業は、自然とアウレリウスの役目になっていた。


 見上げたまま、両手を使う。

 巨大なシャンデリア。額に、うっすらと汗が滲む。


 くすんでいたクリスタルが、次第に光を返し始めた。


 アウレリウスは手を離し、満足そうに笑った。


「うん。きれいになっ――

 うわっ!」


 高い脚立。

 両手を上げた、不安定な体勢。


 足が、踏み外れる。


 世界が、滑った。


 ――ゴキッ。


「っ……!」


 片足で着地してしまった身体は、そのまま支えを失い、床に投げ出された。


 一瞬、息が止まる。

 次の瞬間、鋭く突き刺すような痛みが走った。


 アウレリウスは顔を歪め、足を抱えて床にうずくまった。


「っ……! 痛い…………!」


 廊下から、駆けてくる足音。

 大きな物音に気づき、セティが飛び込んでくる。


「アウル?」


 大ホールを覗いたセティは、はっと息を呑み、すぐに駆け寄った。


「ア……アウル? どうし――」


 アウレリウスは顔を上げる。


「あはは。落ちちゃった」

「……え?」

「……脚、折っちゃった」

「えっ」




 アウレリウスは、セティの肩を借りて私室のベッドへ戻った。

 いつもの細身のパンツを脱ぎ、楽な夜着に着替える。その動作一つ一つが、ぎこちない。


「うわぁ……腫れてる。すごく痛い。あはは」


 ベッドに脚を投げ出して見ると、左足の膝下は赤く腫れ上がっていた。

 セティは、顔を真っ青にしたまま、気楽そうに振る舞うアウレリウスを見つめている。


「……倉庫に松葉杖があったはずです。取ってきます」

「うん。ごめんね、お願い」

「はい」


 セティが部屋を出ていく。


 アウレリウスは長く生きてきた。

 怪我の経験も、決して少なくはない。

 ――だが、忘れていた。


 本当の痛みは、後から来る。


 セティが離れてしばらく経った頃、アウレリウスは眉をきつく寄せた。


 ズキズキと、脈打つような痛み。

 逃げ場のない感覚が、脚全体を支配する。

 ベッドに倒れ込み、息を殺す。

 シーツを強く掴み、歯を食いしばって耐えた。


 足音。

 セティが戻ってくる。


 彼はベッド脇に松葉杖を立てかけ、アウレリウスの顔を覗き込んだ。


 アウレリウスは、笑った。

 できるだけ、いつも通りに。


「……痛いですね」

「……うん」


 平静を装えるはずがなかった。




 夕刻。

 セティは盆に食事を乗せ、上階の私室へと運んだ。


 ベッドに脚を投げ出したまま身を起こしているアウレリウスは、少しだけ眉を下げる。


「セティ。大変でしょう。しばらく食事はいいよ」

「でも」


 セティはサイドテーブルに盆を置いた。

 アウレリウスは、静かに首を振る。


「大丈夫。

 人とは……少しだけ、違うんだから……。城の開放も、しばらく休もう?」

「……はい」


 赤い夕陽が部屋に差し込み、アウレリウスの青白い顔を、やわらかく照らしていた。


 セティは、それをただ、見つめることしかできない。


 彼らは、怪我をすれば治りは早い。

 だが、痛みは、人と同じように感じる。


 ――そして彼らは、食事を必要としない。


 人として在るために、

 “儀式”として、それを口にしているだけなのだ。



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