6-7 来てはいけない場所
アウレリウスたちは、今日も王都にいた。
ハートウェル区や王立自然公園をひとしきり散歩した夕刻。街は夕陽を浴び、霧を柔らかな橙に染めている。細い雲がいくつも、静かに空を渡っていった。
アウレリウスは、東の空を見上げた。
あちらはまだ、薄い青を残している。
「エリーは……元気かな」
その横顔を、セティがそっと見つめる。
「行ってみますか?」
「……でも」
「僕も、少し気になっています」
ゆっくりと色を変えていく空。
アウレリウスは小さく息をついた。
「……日を改める?」
「少しだけ、東の方をのぞいてみましょう。会えるかは分かりませんけど」
「……うん。行ったら、すぐ戻ろう」
「はい」
二人は大通りを越え、東へ。
少し急ぎ足で、喧騒の街並みを抜けていく。
庶民街の市場は、ほとんどが店じまいを始めていた。
だが東へ行くほど、人の声はむしろ大きくなる。
「煙草だよ! 一包、銅貨二枚!」
少年の売り声が耳をかすめる。すれ違いざま、甘いような独特の香りが漂った。
女たちの笑い声。
どこかから流れるオルガンの音。
言い争う声。
グレイブ川の鉄臭い匂い。
雑多な街。
アウレリウスたちのブーツの音は、あっという間にその中へ飲み込まれてしまう。
「ねぇ、やだ、すごい綺麗な顔。成人前?」
不意に、アウレリウスの肘が強く引かれた。
足を止めると、胸元を大きく開けたくすんだドレスの女性が立っている。強い香水の匂いが、ふわりと絡みついた。
女性は慣れた手つきでアウレリウスの腰に触れ、もう片方の手で顎を持ち上げる。
「ちょっと遊ばない? お兄さんだったら、ただでいいよ」
「やめなよ。上級すぎるって、その男」
別の女が近づき、タバコをくゆらせながらニヤニヤと笑う。
「でも、こんないい男めったに見ないじゃない」
「……やめてください」
セティが、アウレリウスに触れているその手を払いのけた。
女はようやくセティに気づき、顔をのぞき込む。
「うわ……この子も、よく見るとめちゃくちゃかわいい顔してる」
アウレリウスは咄嗟にセティを背に隠す。
「この子には触らないで」
「兄弟? ……その子、従者って感じでもないけど」
アウレリウスは眉をひそめ、女をまっすぐ見据えた。
「兄弟みたいなものだよ」
女たちは声を立てて笑った。
どこか人を試すような、嫌な笑い方だった。
「さすが貴族の子。複雑」
「迷い込んじゃったの? お姉さんがいいところ連れてってあげる」
二人が言葉を失った、その間に——。
「お姉さんたち、向こうに上客がいるよ!
それにね、この人たちミストラッツのお客さんなの。ごめんね!」
するりと割り込む小さな影。エリーだった。
彼女はアウレリウスたちを背にかばい、にっと笑う。
「ちっ、調査局絡みかよ。面倒はごめんだね」
女たちは舌打ちし、あっさりと踵を返した。
アウレリウスたちは、ようやく小さく息を吐く。
「エリー……ありがとう」
エリーは振り向くと、にこっと笑い、アウレリウスの前に立った。
「ここにはね、あなたたちみたいな人は来ちゃだめなんだよ」
アウレリウスは屈み、エリーと目線を合わせる。
濃い茶色の瞳。
子どもなのに、大人びていて、諦めと憂いがゆらめいている。
それでも、瞳の輪郭だけは、まだ子どもらしく丸かった。
「君はよくて、僕たちはだめなの?」
「……そうだよ」
エリーは微笑んだ。
無邪気さを、どこかに置いてきてしまったような笑顔で。
「……そうなんだ」
――どうして。
――どうして、エリーはこんなに寂しそうで、
――僕たちは、どこにも馴染めないんだろう。
アウレリウスは小さく息を吐き、わずかに視線を落とした。
「じゃあ……教えてくれたお礼に」
ポケットから、白いシルクのハンカチを取り出し、差し出す。
以前、渡せなかったもの。
ほんの少しの、気持ち。
エリーは目を見開いた。
「……絹?」
アウレリウスが頷くと、彼女は自分のポケットを探り、包みに包まれたトフィーを一つ取り出した。
小さな手のひらに乗せ、しばらくそれを見つめる。
そして、そっとアウレリウスに差し出した。
「……いいの?」
エリーは、黙って頷いた。
「あなたには、もう会わないと思うから」
それから、少し間を置いて。
「ねえ……ちょっとだけ、ぎゅってしてもらえない?」
アウレリウスは、柔らかく微笑む。
「いいよ」
腕を伸ばし、エリーを抱き寄せる。
華奢な身体を、壊さないように、少しだけ強く。
エリーは胸に顔を埋め、アウレリウスの背をぽん、ぽんと叩いた。
「ありがとう。お兄さん」
アウレリウスは、静かに彼女を離す。
離れ際に、エリーは彼の手を取り、自分の頬にそっと当てた。
切なそうに。
それでも、どこか嬉しそうに。
そして、手を離して、にっこり笑う。
「さよなら。きれいなお兄さん」
「……エリー」
彼女は振り返らず、そのまま人波の中へ溶けていった。
「さようなら、エリー……」
アウレリウスは、手の中のトフィーを見つめる。
「……このトフィー、普通のトフィーだよね」
小さく笑って、続けた。
「なんだか……温かい気もするし、悲しい気もするんだ」
「……そうですね」
トフィーをポケットにしまい、その上から、そっと触れる。
「帰ろうか、セティ」
「はい」
二人も踵を返す。
空はすっかり群青に沈み、ガス灯が橙の光を落としている。
欠けた月と、いくつかの星。
アウレリウスはそれを見上げ、小さく息を吐いた。




