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グレイブハル城の観測者  作者: かも ねぎ
正編 第五章『静かな憧憬』
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5-6 静かな威厳


 ――あれは、数年前のことだった。


 アウレリウスは、いつものようにセティと王都を歩いていた。

 ブーツが石畳を打ち、馬車が忙しなくすれ違っていく。


 整然と並ぶ、まだ灯りの入っていないガス灯。

 そのガラスは霧に濡れ、淡く光を弾いていた。


 人が行き交う喧騒の街中を、看板を一つひとつ眺めながら、アウレリウスたちだけが、どこかゆったりと進んでいく。


 後方から、上質なコートを着た男が従者を伴って早足で近づいてきた。

 アウレリウスたちは少し端に寄り、道を譲る。


「だからお前は間抜けなんだ!」


 貴族らしい装いの男が、従者に向かって怒声をあげていた。

 文句を吐き続けながら、足早に通り過ぎていく。


 アウレリウスとセティは顔を見合わせ、首を傾げる。

 だが、特に気にすることもなく、再び歩き出した。


 少し前を、靴磨き道具を抱えた少年が歩いていた。

 後ろから近づく気配に気づき、慌てて道の端に寄る。


 ――だが、男は少年にぶつかった。


 それは不注意というより、苛立ちの行き場を身体ごと押し付け、八つ当たりしたように見えた。


 少年は荷物を取り落とし、自分も転倒する。

 乾いた音が石畳に響いた。


「すみません!」


 少年は地面に手をついたまま、そう叫び、慌てて立ち上がる。

 散らばった道具をかき集める。


 男は一瞥しただけで、立ち去ろうとした。


 通りには多くの人がいた。

 だが、誰もが視線を逸らした。


 アウレリウスとセティは、驚いて、その場に立ち尽くした。


 ――その時だった。


 靴音が響く。


 ダークブルーのフロックコートの裾を揺らし、黒髪の青年が男たちに駆け寄る。


 彼は、コートの男の手首を掴んだ。


「謝るのは彼じゃない。貴方でしょう?」


 低く、落ち着いた声。

 声を荒げるわけでもない。

 だが、退路を塞ぐ確かさがあった。


「それとも、ぶつかったことにさえ――

 お気づきでない?」


 わずかに口角を上げる。


 コートの男は、群青の瞳に射抜かれたように息を詰め、乱暴に手を振りほどいた。


 まだ屈んでいる少年をちらりと見て、


「……ちっ。悪かったな」


 それだけ言い、足早に去っていく。


 少年は立ち上がり、青年に深く頭を下げた。


「あの……ありがとうございました」


 青年は少し身を屈め、少年のズボンについた埃を軽く払う。


「いいんだ。それより、怪我はない?」


 少年が首を振ると、青年は柔らかく笑った。


「良かった」


 それだけ言って、歩き去る。


「レイブンズ法務官だわ」

「相変わらずいい男ね」

「裁定院にお世話になることはないに越したことはないけど」

「でも、彼なら……ね」

「全く、何を言っているの」


 近くにいた夫人たちが、楽しげに囁き合っていた。


 ――裁定院の、レイブンズ法務官。


 それが、アウレリウスが彼を初めて認識した日のことだった。




 また、別の日。


 街を歩いていると、あの靴磨きの少年が道具を広げて座っていた。


 少年は何かに気づき、ぱっと顔を上げる。


「こんにちは! 法務官様!」


 視線の先に、黒髪に群青の瞳の青年。

 エドガー・レイブンズ。


 彼は足を止め、穏やかに笑い、帽子を少しだけ持ち上げて挨拶を返した。


 本当に些細なこと。

 ただ、それだけ。


 ――けれど、アウレリウスには、とても印象的だった。


 あの日以来、

 アウレリウスは時折、王都でエドガーの姿を探すようになった。

 新聞に彼の記事を見つけると、理由もなく嬉しくなって、それを買った。


 ――ただの憧れ。


 手の届かない世界に立ちながら、

 力を誇らず、距離を壊さずに在る人。


 その姿が、アウレリウスには、

 ひどく眩しく映ったのだ。



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