4-10 忘れられた噂
翌朝、侯爵家の門前は、驚くほど静かだった。
雨粒を含んだ庭園の植物が朝陽を弾き、宝石を散らしたように瞬いている。
ジュリアンは窓辺に立ち、その光景をぼんやりと眺めていた。
朝の支度のために訪れた使用人たちは、彼がすでに起きていることに一瞬だけ目を留めたが、特別な反応を示すこともなく、淡々と仕事を続けていく。
しばらくして、執事が書簡を携えてやってきた。
夜会の招待状。
「父上は……俺に、これへ出ろと?」
執事は一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せ、それから穏やかに答えた。
「ええ。
ジュリアン様のお役目は、人脈を広げることでございます。旦那様も、ぜひそうしてほしいと」
ジュリアンは、わずかに眉を寄せた。
――昨日はあれほど怒っていたのに。
「……新聞の件は、どうなった?」
執事は小さく首を傾げる。
「新聞……でございますか?」
ジュリアンは執事を見つめる。
「え?」
「わたくしが把握していない案件がございましたでしょうか」
「……いや、いい」
――あれほどの騒ぎを、把握していないはずがない。
――では、あれは何だった?
寝不足の頭が、じくりと痛む。
身支度を終え、使用人たちが部屋を辞していく。
ジュリアンは、毛足の長い絨毯の上を歩いた。
ふと、足を止める。
――ベッドサイドが、わずかに濡れている。
しゃがみ込み、指先で触れる。
水滴。
ほんのわずか。
だが、そこにははっきりとした香りがあった。
澄んだ甘さ。
湖と、存在しないはずの花の匂い。
手が震える。
息が、詰まる。
窓の外では、小鳥がさえずっていた。
ジュリアンは、しばらくその場から動けなかった。
その夜、ジュリアンは久々に夜会へ足を運んだ。
きらびやかな会場。
高い天井。
音楽と笑い声が、柔らかく溶け合っている。
彼は指先を見た。
青い宝石の指輪は、してこなかった。
金細工の、簡素なものだけ。
ゆっくりと会場に入り、壁際を歩く。
「ジュリアン!」
振り返ると、いつも彼の隣にいた女がいた。
彼女は当然のように腕を絡め、胸を押し当ててくる。
「ねぇ、一曲踊りましょう?」
さらに別の女が笑顔で割り込む。
「今日は私と最初に踊りましょうよ」
ジュリアンは、息を呑んだ。
「……俺のこと、避けてなかった?」
女たちは顔を見合わせる。
「何の話?」
「新聞で……」
「新聞? 何の記事?」
彼女たちは、何も知らない顔で笑っていた。
ジュリアンも、曖昧に笑みを返す。
――誰も、覚えていない。
背中を、冷たいものが走った。
この日以降、
ジュリアンはグレイブハル城について、二度と口にすることはなかった。




