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グレイブハル城の観測者  作者: かも ねぎ
正編 第一章『触れてはいけない城』
3/71

1-3 壊れていないこと


 翌日。

 部屋には、すでに光が満ちていた。


 アウレリウスはゆっくりと目を開ける。

 窓の外から、鳥のさえずりが聞こえてくる。


 身を起こし、ベッドの縁に腰を下ろす。

 並んだもう一つのベッドは、すでにリネンが整えられ、夜着もきちんと畳まれて枕元に置かれていた。


 スリッパに足を入れ、窓辺へ寄る。

 軋む音を立てて窓を開けると、爽やかな風が頬を撫で、髪を柔らかく揺らした。

 湖の水面に朝陽が差し込み、星を散らしたように輝いている。


 王都オルドンはいつも霧に包まれているのに、ほど近いグレイブハル城では、霧が立つのは主に朝方だけだった。


 静かな朝。


「今日も、世界は綺麗だね」


 肘をついた窓枠に、小鳥が一羽とまる。


「……おいで」


 手を差し出すと、鳥は首を傾げ、二歩ほど近づいた。

 しばらくして、ふいに羽ばたき、空へ戻っていく。


「あはは。行っちゃった」


 窓を開け放したまま、アウレリウスは背を向けた。


 夜着を脱ぎ、白いシャツに袖を通す。

 足に沿うストレートパンツを履き、ゆったりと編まれた紺のカーディガンを羽織る。


 ふと、セティのクローゼットを開けて覗いた。

 目に入ったのは、緑のカーディガン。


 それを手に取り、スリッパのまま部屋を出る。 


 石の階段を降りる。

 足音は、ほとんどしない。

 静かな光の粒が、動くたびに、引き寄せられるように、彼のそばを舞っていた。


 辿り着いたのは、使用人用の小さな台所。


 そこに、セティがいた。


 小さなテーブルには、すでに朝食が並んでいる。

 今は紅茶を淹れているらしく、彼の向こうに、白い湯気が立ちのぼっていた。


「セティ、おはよう」


 椅子にカーディガンをかけ、後ろからそっと少年を抱きしめる。

 セティの頭は、アウレリウスの目の下あたり。

 少しだけ首を傾け、頬を柔らかな黒髪にそっと押し当てた。


「おはようございます」


 淡々とした声。

 抱きしめられても、セティは身じろぎ一つしない。


「ねぇ、セティ」

「はい」


 アウレリウスは腕を解き、セティの持っていたポットを受け取ると、カップに紅茶を注ぐ。


「僕は、セティと朝ごはんを作って食べたいのに。どうして先に作っちゃうの? 待っててよ」


 セティはゆっくりと顔を上げた。

 緑がかった灰色の瞳は大きく、ほんの少しだけ目尻が垂れている。


「先に目を開けたのは、僕なので。作りました。

 アウルは、ゆっくり寝ていたらいいんです」

「寂しいじゃない」

「そうですか? 食べるのは一緒なので、いいかなって」


 セティは紅茶のカップをテーブルへ運ぶ。


 今日は閉城日。

 人も来ず、王都へ出る予定もないというのに、セティはきっちりとジャケットを羽織っていた。

 アウレリウスはそのジャケットを脱がせ、持ってきたカーディガンを着せる。


「楽にしたらいいのに。君、ジャケットが好きなの?」

「好きではないです。特には。

 好きなものは、いくつもないです」

「セティが好きなものって、なに?」

「アウル」


 アウレリウスは、小さく笑った。


「そっか。

 僕も、セティが好きだよ。

 朝ごはんのあとで、髪を縛ってあげるね」


 二人は席に着き、静かに朝食を取る。

 小さな窓から、柔らかな光が差し込み、二人を包み込んでいた。


 セティは肩の少し下まである黒髪に、そっと触れてから、アウレリウスを見る。

 長い睫毛が頬に影を落とし、整った顔立ちで、大きな口を開けて食べている。

 セティはほんのわずかに口角を上げ、

 それから、自分の朝食に手を伸ばした。




 部屋に戻ると、アウレリウスが椅子に腰掛け、セティがその背後に立つ。

 ゆったりとうねる金の髪を、セティが静かに編み込んでいく。

 邪魔にならないように、少しだけ。華やかにしすぎると、女性的になりすぎてしまうから。


 アウレリウスは、もともと性別の分かりにくい顔立ちをしている。

 身長も男性としては平均的だが、ときどき女性に間違えられることがあった。

 本人は特に気にしていない様子だが、セティは少しだけ意識して、いつもこの程度に整える。

 編み終えると、セティは彼の両肩にぽん、と手を置いた。


 それを合図に、今度はセティが椅子に座り、アウレリウスが背後に立つ。

 アウレリウスはにこにこしながら、セティの髪に櫛を入れた。


「セティの髪は、綺麗だね」


 肩を少し過ぎるくらいの長さの黒髪を、首の後ろでひとつにまとめる。

 細い深緑のリボンで留めてから、アウレリウスも、同じようにセティの両肩に手を置いた。


 そのあとは、二人それぞれに過ごす。


 城の掃除をしたり、

 アウレリウスは執筆をしたり。


 ほとんど趣味のようなものだが、アウレリウスは探偵小説を書き、王都の雑誌に掲載していた。

 本人は小説をあまり読まない。ただ、人間を観察するのが好きで、その延長として文章を書いている。

 アウレリウスが机に向かっている間、セティは城を掃除していたり、近くに座っていたり、ときどき外へ出ていったりする。

 どこへ行くのか、アウレリウスはほとんど聞いたことがない。

 外の匂いをまとって戻ってくることがあるので、出かけているのだとは分かる。

 だが、セティが何も言わないので、特に尋ねることもなかった。


 日が暮れ、食事を終えると、二人は並んでソファに座る。

 新聞を読んだり、本を開いたり。

 あるいは、ただ暖炉の火を眺めているだけのこともある。

 セティはいつも背筋を伸ばして座り、

 アウレリウスは、彼に背を預けるようにして腰を下ろしていた。


 今日、アウレリウスの手の中にあるのは、あの日記帳だ。


「日記さん。どうして、あの子に見せてあげないの?

 彼、あなたとお話したいみたいだよ」


 表紙をそっと撫でながら、静かに問いかける。


「誰かを待っているの?

 欲しい言葉が、あるのかな」


 日記帳は、開かない。


 アウレリウスはそれをテーブルに置き、またセティに体を預けた。


「セティ」

「はい」


 本を読んでいたセティは、顔を上げない。


「大好きだよ」

「僕もです」

「セティ、君は美しいよ」

「アウルも美しいです」

「セティ、君は大切にされるべき存在だよ」

「アウルも、そうです」


 ふっと、セティの肩から、わずかに力が抜けた。


「そろそろ、寝ようか」

「はい」


 世界に、二人しかいない存在。

 毎日、言葉にして確かめる。


 ――愛している。

 ――君は美しい。

 ――君の尊厳は、守られるべきだ。


 壊れてしまわないように。

 まだ壊れていないことを、確かめるように。


 これが、二人の変わらない日常。

 時が止まってしまったグレイブハル城の、

 静かな一日だった。



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