1-3 壊れていないこと
翌日。
部屋には、すでに光が満ちていた。
アウレリウスはゆっくりと目を開ける。
窓の外から、鳥のさえずりが聞こえてくる。
身を起こし、ベッドの縁に腰を下ろす。
並んだもう一つのベッドは、すでにリネンが整えられ、夜着もきちんと畳まれて枕元に置かれていた。
スリッパに足を入れ、窓辺へ寄る。
軋む音を立てて窓を開けると、爽やかな風が頬を撫で、髪を柔らかく揺らした。
湖の水面に朝陽が差し込み、星を散らしたように輝いている。
王都オルドンはいつも霧に包まれているのに、ほど近いグレイブハル城では、霧が立つのは主に朝方だけだった。
静かな朝。
「今日も、世界は綺麗だね」
肘をついた窓枠に、小鳥が一羽とまる。
「……おいで」
手を差し出すと、鳥は首を傾げ、二歩ほど近づいた。
しばらくして、ふいに羽ばたき、空へ戻っていく。
「あはは。行っちゃった」
窓を開け放したまま、アウレリウスは背を向けた。
夜着を脱ぎ、白いシャツに袖を通す。
足に沿うストレートパンツを履き、ゆったりと編まれた紺のカーディガンを羽織る。
ふと、セティのクローゼットを開けて覗いた。
目に入ったのは、緑のカーディガン。
それを手に取り、スリッパのまま部屋を出る。
石の階段を降りる。
足音は、ほとんどしない。
静かな光の粒が、動くたびに、引き寄せられるように、彼のそばを舞っていた。
辿り着いたのは、使用人用の小さな台所。
そこに、セティがいた。
小さなテーブルには、すでに朝食が並んでいる。
今は紅茶を淹れているらしく、彼の向こうに、白い湯気が立ちのぼっていた。
「セティ、おはよう」
椅子にカーディガンをかけ、後ろからそっと少年を抱きしめる。
セティの頭は、アウレリウスの目の下あたり。
少しだけ首を傾け、頬を柔らかな黒髪にそっと押し当てた。
「おはようございます」
淡々とした声。
抱きしめられても、セティは身じろぎ一つしない。
「ねぇ、セティ」
「はい」
アウレリウスは腕を解き、セティの持っていたポットを受け取ると、カップに紅茶を注ぐ。
「僕は、セティと朝ごはんを作って食べたいのに。どうして先に作っちゃうの? 待っててよ」
セティはゆっくりと顔を上げた。
緑がかった灰色の瞳は大きく、ほんの少しだけ目尻が垂れている。
「先に目を開けたのは、僕なので。作りました。
アウルは、ゆっくり寝ていたらいいんです」
「寂しいじゃない」
「そうですか? 食べるのは一緒なので、いいかなって」
セティは紅茶のカップをテーブルへ運ぶ。
今日は閉城日。
人も来ず、王都へ出る予定もないというのに、セティはきっちりとジャケットを羽織っていた。
アウレリウスはそのジャケットを脱がせ、持ってきたカーディガンを着せる。
「楽にしたらいいのに。君、ジャケットが好きなの?」
「好きではないです。特には。
好きなものは、いくつもないです」
「セティが好きなものって、なに?」
「アウル」
アウレリウスは、小さく笑った。
「そっか。
僕も、セティが好きだよ。
朝ごはんのあとで、髪を縛ってあげるね」
二人は席に着き、静かに朝食を取る。
小さな窓から、柔らかな光が差し込み、二人を包み込んでいた。
セティは肩の少し下まである黒髪に、そっと触れてから、アウレリウスを見る。
長い睫毛が頬に影を落とし、整った顔立ちで、大きな口を開けて食べている。
セティはほんのわずかに口角を上げ、
それから、自分の朝食に手を伸ばした。
部屋に戻ると、アウレリウスが椅子に腰掛け、セティがその背後に立つ。
ゆったりとうねる金の髪を、セティが静かに編み込んでいく。
邪魔にならないように、少しだけ。華やかにしすぎると、女性的になりすぎてしまうから。
アウレリウスは、もともと性別の分かりにくい顔立ちをしている。
身長も男性としては平均的だが、ときどき女性に間違えられることがあった。
本人は特に気にしていない様子だが、セティは少しだけ意識して、いつもこの程度に整える。
編み終えると、セティは彼の両肩にぽん、と手を置いた。
それを合図に、今度はセティが椅子に座り、アウレリウスが背後に立つ。
アウレリウスはにこにこしながら、セティの髪に櫛を入れた。
「セティの髪は、綺麗だね」
肩を少し過ぎるくらいの長さの黒髪を、首の後ろでひとつにまとめる。
細い深緑のリボンで留めてから、アウレリウスも、同じようにセティの両肩に手を置いた。
そのあとは、二人それぞれに過ごす。
城の掃除をしたり、
アウレリウスは執筆をしたり。
ほとんど趣味のようなものだが、アウレリウスは探偵小説を書き、王都の雑誌に掲載していた。
本人は小説をあまり読まない。ただ、人間を観察するのが好きで、その延長として文章を書いている。
アウレリウスが机に向かっている間、セティは城を掃除していたり、近くに座っていたり、ときどき外へ出ていったりする。
どこへ行くのか、アウレリウスはほとんど聞いたことがない。
外の匂いをまとって戻ってくることがあるので、出かけているのだとは分かる。
だが、セティが何も言わないので、特に尋ねることもなかった。
日が暮れ、食事を終えると、二人は並んでソファに座る。
新聞を読んだり、本を開いたり。
あるいは、ただ暖炉の火を眺めているだけのこともある。
セティはいつも背筋を伸ばして座り、
アウレリウスは、彼に背を預けるようにして腰を下ろしていた。
今日、アウレリウスの手の中にあるのは、あの日記帳だ。
「日記さん。どうして、あの子に見せてあげないの?
彼、あなたとお話したいみたいだよ」
表紙をそっと撫でながら、静かに問いかける。
「誰かを待っているの?
欲しい言葉が、あるのかな」
日記帳は、開かない。
アウレリウスはそれをテーブルに置き、またセティに体を預けた。
「セティ」
「はい」
本を読んでいたセティは、顔を上げない。
「大好きだよ」
「僕もです」
「セティ、君は美しいよ」
「アウルも美しいです」
「セティ、君は大切にされるべき存在だよ」
「アウルも、そうです」
ふっと、セティの肩から、わずかに力が抜けた。
「そろそろ、寝ようか」
「はい」
世界に、二人しかいない存在。
毎日、言葉にして確かめる。
――愛している。
――君は美しい。
――君の尊厳は、守られるべきだ。
壊れてしまわないように。
まだ壊れていないことを、確かめるように。
これが、二人の変わらない日常。
時が止まってしまったグレイブハル城の、
静かな一日だった。




