1-2 開かない日記帳
青年エリオットは、この日、一人で城見学に訪れていた。
どこかぼんやりとした気配をまといながら城内を一巡し、受付のある玄関へ戻ってくる。
「あぁ……楽しかった」
「楽しかった? 良かったね」
「……!」
独り言のつもりで呟いた言葉に応える声がして、エリオットは驚いて振り返った。
小窓に肘をつき、こちらを見て微笑んでいる受付の青年――アウレリウスがいる。
「あ……どうも。ありがとうございました」
「君が楽しんでくれたなら、僕は嬉しい」
穏やかな笑みにつられて、エリオットの表情もふっと緩む。
「私、ちょっと落ち込んでいたんですけど……元気になった気がします」
「落ち込んでいたの?」
「はい。先日、祖母が亡くなりまして……。日記帳を譲り受けたんですが、なぜか開かなくて。拒まれているみたいで、悲しくなってしまって……」
ふと気づくと、小窓に青年の姿はなかった。
余計なことを話してしまったか、と小さく息を吐いた、そのとき、
背に、温かなものが触れた。
振り返ると、アウレリウスがそっと手を添え、隣に立っていた。
彼が小首を傾げると、背に編まれた金の髪が、やわらかく光を散らす。
「君の名前は?」
「……エリオット、です」
「エリオット。おばあちゃんのこと、大好きだったんだね」
ふいに投げかけられたその言葉に、胸の奥が揺れた。
こらえきれず、一粒の涙が頬を伝う。
アウレリウスは目を見開き、すぐに困ったように首を振った。
「ごめん。泣かせるつもりはなかったんだ」
「いえ……こちらこそ、すみません」
俯いたエリオットの背に手を添え、アウレリウスは玄関ホールに置かれた木製のベンチへと導いた。
歴史ある城の中では少し異質な、新しいベンチ。
見学者が帰り際に腰を下ろし、荷物を整えるために設けられたものだ。
グレイブハル城は、床も壁も古い灰色の石で統一されている。
冷たさよりも静けさが勝ち、磨かれすぎていない石肌が、時間の長さを物語っていた。
玄関ホールの中央には、一本の石階段がまっすぐ伸びている。
踊り場の高みに据えられた巨大なステンドグラスから、夕陽の淡い光が降り注ぎ、二人の座るベンチだけが浮かんで見えた。
エリオットの隣に、アウレリウスも腰掛ける。
背筋を伸ばすエリオットに対し、アウレリウスはどこか気楽そうに、じっと彼の顔を覗き込んでいた。
「……情けないところを見せてしまいました」
アウレリウスは小さく首を振る。
「祖母は厳しい人でした。でも、ちゃんと愛があって……私は大好きだったんです。
“好きだ”って伝えたのは、子どもの頃だけで……もっと言えばよかったなって思ったら、涙が出てしまって」
「そうだったんだ」
エリオットは鞄から、一冊の日記帳を取り出した。
深い茶色の革張り。控えめな植物文様の型押し。手に馴染んだ革が、大切に扱われてきたことを物語っている。
金属の留め具に指をかける。
――だが、動かない。
鍵はない。錆びてもいない。
「ほら……開かないんです」
アウレリウスが手を差し出し、エリオットは日記をその掌に乗せた。
同じように留め具を外そうとする。
「……本当だ。開かないね」
表と裏を確かめても、理由は分からない。
エリオットは小さく笑って息を吐いた。
「寡黙だった祖母が、何を思っていたのか……知りたかったんですけどね」
「この日記、しばらく僕が預かってもいい?」
「……え?」
澄んだ瞳に見つめられ、エリオットは思わず視線を逸らす。
美しすぎて、まともに見返せなかった。
答えを待たず、アウレリウスは日記の表紙を指先でそっと撫でた。
「……駄目かな。大切なものだものね」
「いえ……大丈夫です。
貴方になら、預けてもいい気がします」
アウレリウスの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとう。僕が返しに行くよ。お家、教えてくれる?」
「はい」
受付で差し出されたノートに住所を書く。
黒髪に緑がかった灰色の瞳の少年がそれを受け取り、無表情で小さく頭を下げた。
受付室の外側の壁にもたれたアウレリウスが、にこやかに手を振る。
エリオットも頭を下げ、背を向けた。
馬車に乗り込み、軋む音とともに走り出す。
車窓から振り返ると、グレイブハル城はすでに遠い。
彼らの姿はもう見えなかった。
けれど、そこにいたはずなのに、どこにもいないような、不思議な感覚が残る。
「……開くといいな。日記帳」
石畳を打つ馬車の音。
夕焼けの空に、白い月が滲む。
グレイブハル城の向こうへ陽が沈み、
夜の帳が、静かに降り始めていた。




