3-6 差し出した手
セティが庭園から戻ると、アウレリウスは受付室で執筆をしていた。
柔らかな光が部屋を満たし、静寂ごと彼を包み込んでいる。
整った横顔が淡く金に縁取られ、ペンが紙をなぞる音だけが、静かに落ちていった。
セティはその姿をしばらく見つめてから、音を立てないようにソファに腰を下ろす。
本のページをめくる音が、思ったよりもはっきり響き、少しだけ胸が跳ねた。
本を読み終えて顔を上げると、いつの間にか隣にアウレリウスが座っていた。
彼は楽しそうに、セティの横顔を眺めている。
視線が合うと、アウレリウスは手を伸ばし、本を持っていたセティの手をそっと包んだ。
アウレリウスは、
“何の本を読んでいるのか”
“どこへ行っていたのか”
そういうことを、決して聞いてこない。
――きっと、それも彼の世界のルールなのだ。
「アウル」
「なぁに?」
「マーサさんは、お嫁さんに素敵な色のセーターを編んでいました」
「そうなんだ」
「でも……“どうせ渡せやしない”って言ってたんです」
「……そうなんだ」
少しの沈黙。
「アウル……」
「ん?」
言葉に詰まると、アウレリウスはゆったりと身を乗り出し、セティの顔を覗き込んだ。
「……マーサさんと、お嫁さんを、お城に招待してもいいですか」
「うん?」
「……セーターを渡す、きっかけに……なるかも、って」
アウレリウスは、静かに笑った。
「もちろん、いいよ」
セティが小さく頷くと、ふと、アウレリウスの眉がわずかに下がった。
「いいよ。いいんだけど……
マーサさんは、僕にはあまり話してくれないのに、セティとは話すんだね」
セティは、きょとんと彼を見上げる。
「年配の女性は、アウルより僕の方が話しかけやすいみたいです。時々、話します」
「……」
アウレリウスも、きょとんとした顔になる。
「貴族のご婦人方も。時々、本やお菓子をくれます」
「……へー……」
(アウルは、そのことに気づいていなかったのかな)
セティが首をわずかに傾げると、アウレリウスは彼の手を引き寄せた。
「……知らない人からもらった食べ物は、食べちゃだめだよ」
「気をつけます」
大きく頷き、アウレリウスはセティの手を軽く叩くと、小窓の前の机へ戻っていった。
柔らかな金の髪が揺れる。
窓の外は、すでに夕陽に染まりはじめていた。
見た目が整いすぎているアウレリウスより、彼よりは幼い姿をしているセティの方が、話しかけやすい人はいる。
男性はほとんど声をかけてこないが、子育てを終えた頃の女性たちは、セティに親しみを向けることが多かった。
マーサも、おそらく、そうなのだろう。
遠くで鐘楼の音が鳴り、それに続いて、一頭立ての馬車の音が聞こえてきた。
セティは本をテーブルに置き、部屋を出る。
正面階段の下、ひっそりと隠れるようにある使用人棟への扉。
それが軋む音を立てて開き、手荷物を持ったマーサが現れた。
彼女はセティに気づくと、小さく頭を下げ、歩き出す。
小窓から、アウレリウスが小さく手を振っている。
「マーサさん。ありがとう。また来週ね」
マーサは会釈だけで応えた。
セティは慌てて彼女を追う。
「マーサさん」
足を止めず、軽く振り返るだけ。
セティは歩調を早め、並んだ。
「あの……お城に、招待します。
お嫁さんと一緒に……その……」
マーサはようやく立ち止まり、セティを見た。
玄関の外は、すでに闇に沈みかけている。
「……いいのかい?」
セティは、思わず視線を落とした。
「……ぜひ」
「……気を遣わせちまったみたいだね」
セティは首を振り、少しだけ顔を上げる。
マーサは、ほんのわずか――本当に、わずかに、表情を和らげた。
「ありがとう。遊びに来させてもらうよ」
「はい」
マーサは踵を返し、馬車に乗り込んだ。
門を越えて遠ざかる馬車を見送りながら、セティは小さく息を吐く。
――拒絶されるかもしれないと思うと、こんなにも怖いのか。
玄関に戻ると、燭台を持ったアウレリウスが待っていた。
差し出された手。
セティはそれを取る。
いつものように、そっと握られる。
「セティは、優しい子だね」
その声は、いつもより、少しだけ柔らかかった。
まだ紫を残した空に、白い月が浮かんでいた。




