3-5 花の咲かない庭
空が、澄んで高い。
セティは本を脇に抱え、ふらりとグレイブハル城の庭園に足を向けた。
大きな曲線を描くように並べられた石畳を、ゆっくりと歩いていく。
ふと、ハート型の大きな葉をつけた背の高い木を見上げる。
見学者の中には、ときおり「庭園があるなら見てみたい」と言う人がいる。
全く手を入れていない庭園だが、それでも案内すると、多くの人は趣があると喜んだ。
その中の一人が、あの木を指して言ったことがある。
「あれはライラックの木だよ」と。
セティはその名前を覚え、あとで調べもした。
けれど、この木が紫の花をつけているところを、彼は一度も見たことがない。
グレイブハル城の植物は、花をつけない。
セティは歩みを進めた。
ライラックの木を抜けた先は少し開けていて、木製のベンチが置かれている。
今日は、先客がいた。
ベンチの端に、マーサが腰掛けている。
手元では、編み物が静かに進んでいた。
セティは反対側の端に、音を立てずに腰を下ろす。
膝の上で本を開いたが、視線は自然とマーサの手元に向いてしまう。
ラベンダー色の編み地が、少しずつ長くなっていく。
視線を感じたのだろう。
マーサが不意に顔を上げ、セティを見る。
ぱちりと、視線が絡んだ。
いつも通り、セティは無表情のまま見つめ返す。
マーサは、ほんの少しだけ目元をやわらげた。
「セーターを編んでるんだよ。お前さんにも編んでやろうか?」
「得意なんですか? ……でも、僕にはいいです」
マーサはそれ以上何も言わず、また手を動かし始めた。
「そうかい」
「きれいな色ですね。マーサさんが着るんですか?」
彼女は、小さく、苦く笑う。
「いや……あたしじゃないよ」
風が吹いた。
セティは、無意識に前髪に触れる。
「……お嫁さんにですか?」
「どうせ、渡せやしない」
マーサの瞳には、簡単には言葉にできない色が浮かんでいた。
彼女はきっと、言葉を紡ぐのが苦手なのだ。
セティはそれ以上踏み込まず、彼女の横顔から視線を外し、膝の上の本へ戻した。
ベンチを囲むように、白い斑の入った葉の低木がゆったりと並んでいる。
光を受け、葉の縁だけが淡く浮かび上がっていた。
やわらかな風が、ページをめくる指先を撫でていく。
しばらくすると、王都の方から鐘の音が届いた。
マーサは編み物を片付け、何も言わずに立ち去っていく。
掃除に戻るのだろう。
セティも本を脇に抱え、再びグリーンガーデンを歩き出した。
土と、緑の匂い。
アウレリウスは、この庭園にあまり興味を示さない。
見学者を連れて歩く彼の姿を、セティは見たことがなかった。
誘えば、きっと彼は穏やかに笑ってついてくる。
手を繋ぎたがって、セティはそれに応える。
「葉の擦れる音が気持ちいいね」とか、「いい天気だね」とか。
そんな、他愛のない話をするのだろう。
きっと楽しい。
たぶん、嬉しい。
けれど――それでは、意味がない。
セティは、そう感じていた。
“人は、言葉にしないと気持ちは伝わらないもんね”
言葉が見つからないとき、人はどうするのだろう。
セティは、セーターの編み方を知らない。
だから、別の方法を見つけなければならない。
編み方を知っていても、マーサは苦しそうだった。
セティにできることは、きっと、ない。
花が咲かない庭園なのに、どこか華やかな香りがする。
それはきっと、ここに置き去りにされた記憶のようなものだ。
セティは、静かに石畳の小路を歩いた。




