変節10-4 灰の問い
紙をめくる音。
受付室の小窓の前で、アウレリウスは新聞を開いていた。
手元を柔らかい光が照らしている。
小窓から見える冬の澄んだ空には、雲の影一つさえない。
馬車の音。
アウレリウスは新聞から顔を上げ、見学者が小窓の前に立つのをぼんやりと待った。
やがて、一人の男が立つ。
「……え」
指先が、わずかに紙を強く握った。
「……こんにちは」
そこにいたのは、赤髪の青年。
――カイウス・ヴァルドレイン。
その人だった。
受付室内のソファにいたセティが立ち上がる。
カイウスは、少しだけ目を細めると、二人に向かって小さく頭を下げた。
「貴方と……お話をさせて頂きたくて。
少し、お時間をいただけませんか」
「……カイウス」
アウレリウスは振り返って、セティを見る。
「セティ。少し話してくる。
君はここで待ってて」
「でも……!」
アウレリウスが首を振ると、セティは眉をわずかに寄せた。
カイウスは、静かに目を伏せ、頭を下げる。
アウレリウスは受付室を出て、玄関ホールから玄関扉を出ると、カイウスの前に立った。
カイウスのウェーブがかった髪が、風にかすかに揺らされている。
その水色の瞳は、どこか、静かだった。
「庭園で話そうか」
「いえ。ここで……」
彼はちらと受付室にいたセティを見やる。
「……彼の目が届く場所の方が、彼も、貴方もいいでしょうから。
こちらで」
「……そう」
カイウスは、少しだけまっすぐに歩いて、城の石壁に寄りかかるようにして立った。
アウレリウスも、人一人分だけ空けて、並ぶ。
小鳥の鳴き声。
庭園の方から、葉擦れの音。
青年は、じっと、雲のない空を見上げた。
話し出さないカイウスの隣で、アウレリウスも空を見上げる。
風だけが、石畳を静かに撫でていた。
冬の陽が、ゆっくりと位置を変えようとしている。
「……私は“王の父”ではなくなりました」
掠れた、囁くような声だった。
水色の瞳が、アウレリウスを見る。
口角は上がっているが、少しも彼は楽しそうではなかった。
「……せいせいしたでしょう?」
「……そんなこと」
彼は、苦々しく笑う。
「錬金術に傾倒していたことが明るみに出て、私は医学界を追放されました」
布の巻かれた右手を持ち上げ、アウレリウスに見せた。
「……貴方に腱を断たれたおかげで、利き手もうまく動かせなくなりました。
この指は、閉じることができない」
「……謝らないよ、僕は」
アウレリウスは、瞬きもせずに言った。
「えぇ、結構ですよ」
カイウスは、どこか遠くを眺めた。
アウレリウスは静かに、その横顔を見つめる。
「それに……私は錬金術が使えなくなりました。
錬金術のせいで立場を失ったというのに。
皮肉なものです」
カイウスは、壁に背を預けたまま、しゃがみ込んだ。
「イリスも……まだ修道院にいる」
膝に乗せられた腕から、右手首が力なく垂れたがっている。
「そのまま、修道女になりたいと言い出した。
我々を苦しめた、オルドの下に行くなどと……言うのです」
アウレリウスもしゃがみ込み、膝を抱えるようにして、黙ってカイウスの言葉を聞いていた。
「……でも、イリスは笑っていた。
私の可愛いイリスが笑っているところを、私は久々に見ました。
とても……眩しかった」
カイウスは、左手で顔を覆う。
「私は……何をやっていたのだろう。
イリスまで苦しめて……」
声が、震えている。
「私は……すべてを失ってしまった気がする」
アウレリウスは視線を下げた。
「もう……何もやる気が起きないのです」
カイウスのため息が、冬の空気に溶けていく。
「今日、ここへ来たのは、私が貴方を害することはもうないと、お伝えするためです。
――私には、理由がなくなりました」
彼は顔から手を離すと、また空を見上げた。
「最初から、そんなもの、無かったのかもしれません」
アウレリウスがわずかに首を傾げると、彼の金の髪が地面を撫でる。
「きっと……世界の何処かで、“王の父”が新たに選定され、“王”が生まれようとしている。
我々は、永遠に創造神オルドの作った箱の外には出られないのです」
カイウスは、ゆっくりとアウレリウスを見た。
「……貴方は、これで本当に良かったのですか?」
アウレリウスは、何も答えられなかった。
冷たい風。
湖の静かな波の音。
カイウスは立ち上がり、アウレリウスに向かって深く頭を下げた。
彼は踵を返すと、馬車置き場に向かって歩いて行く。
やがて馬車が現れ、それは軋む音を立てながら内門を越えていった。
アウレリウスは、その場で立ち尽くしていた。
黒い車体は丘を越え、霧に静かに飲まれていった。




