変節10-1 還す火
王都オルドンのほど近く、湖のほとりに、古い城がある。
世界の理から、わずかに外れた場所。
神々の沈黙が、届かぬ距離。
城は変わらない。
湖も、森も、静けさも。
変わるのは、そこに立つ者の位置だけだ。
境界は、守られるものではなく、交わされるものとなった。
これは、世界に抗う物語ではない。
世界の中で、誰を選ぶかを問う章である。
◇
流れる雲の影が、地面を静かに渡っていく。
アウレリウスは内門にもたれるようにして立ち、空を見上げていた。
やがて、丘の上に一頭立ての小さな馬車が現れる。
手綱を握る黒衣の女性と、それに寄り添うように座る少女。
モルガナがアウレリウスに向かって手を振り、アウレリウスもそれに応えた。
冬の初めの風が、彼の髪をわずかに揺らす。
馬車から降りた二人が、玄関扉の前までやってくるのを、アウレリウスとセティは並んで迎えた。
「こんにちは、モル、イリス」
「こんにちは、アウレリウス、セティちゃん」
イリスは少し緊張した面持ちで頭を小さく下げる。
赤に蜂蜜を垂らしたような彼女の髪は丁寧に編み込まれ、クリーム色のリボンが飾られていた。
モルガナはアウレリウスとセティの二人の顔を順に見た。そして、ふわりと笑う。
「あら……。“おめでとう”なのかしら?」
アウレリウスはにっこりと笑って頷き、セティは不思議そうにモルガナを見つめた。
四人は挨拶を交わすと、庭園へ向かって歩き出した。
青い空を、小鳥が一羽、飛んでいく。
「あの……セティさん」
一番後ろを歩いていたイリスが、控えめに呼びかけ、セティは足を止めた。
「……その……先日は、ごめんなさい。ご迷惑をおかけしてしまいました。私も、兄も」
「……もういいよ、大丈夫」
セティは、彼女に手のひらを差し出した。
「お嬢さん、お手を」
イリスはその手を見つめ、セティの灰の瞳を見る。彼はわずかに口角を上げて、微笑んだ。
イリスはおずおずと、その手に指先をのせ、二人はゆっくりと歩き出す。
「あの木」
セティがハート型の葉をつけた木を指さした。
「ライラックの木みたいなんだ。イリスは、ライラックの花を見たことがある?」
「……あると思います」
「……どこで見えるんだろう?」
「自然公園にあったでしょうか」
「……さぁ?」
イリスがくすりと笑うと、セティも柔らかく微笑んだ。
前を歩いていたモルガナは、アウレリウスに身を寄せる。
「仲が良さそうね。
もう少し早く出会えていたら、お友だちになれていたかしら」
アウレリウスも、ちらとセティたちを見て、口角を上げた。
「……それは、どうだろう。
僕たちが外の人と関わるようになったのは、つい最近だし。
やっぱり、これも巡り合わせなんだと思う」
「セティちゃんとあなたが出会うより先に、私とあなたが出会えていたら、私たちは恋人になれたかしら」
黒い瞳が、いたずらをする子どものように、楽しそうにアウレリウスの瞳を見つめる。
「……どうだろう。
でも、僕はやっぱりセティを選ぶと思う」
モルガナは声を上げて笑った。
「……それ、ちゃんと伝えてる?」
「僕はセティに惜しみなく伝えてるつもりなんだけど」
「私をダシにしてもいいから、ちゃんと伝えた方がいいわ。
伝わってないから」
「……え」
アウレリウスを置いて、モルガナが弾むように歩き出す。
彼女からふわりと立ち上がる白檀に似た静かな香りは、今日も、穏やかだった。
書斎。
黒壇の作業台にイリスを座らせ、アウレリウスは彼女の前に立った。
「イリス。“王のための子宮”を君の身体に還す。
これは、もとには戻せない。
――いい?」
「はい」
手術痕だけが露出するようにと配慮されたイリスは、シャツや布で体を巻かれていた。
「ふふ」
アウレリウスはつい、笑ってしまう。
「君はいつも布でぐるぐる巻きにされているなと思って」
「みなさん、過保護なんです。
脱いでしまってもいいのに……」
彼ははっきりと首を振った。
「イリス、僕は“男性”だよ。
その肌は、大切な人にだけ、見せるんだ。
わかった?」
「……はい」
「では、始めよう」
アウレリウスは自分の指先をナイフで傷つけると、イリスの肌の上に陣を素早く描く。
「この火は熱くないから。
ちょっと我慢して」
錬金術で生んだ火を、蝋燭から彼女の陣に落とす。そして、その白い火に傷つけた指先で触れ、陣に血を飲ませた。
イリスは眉を歪め、目を強く閉じる。
「……頑張って。
お腹の中で臓器が暴れて、気持ち悪いかもしれない」
額に汗が滲んでいる。
アウレリウスは布巾でそれを拭った。
「頑張れ……」
何も音を立てず、炎だけが揺れている。
そして、火が、次第に落ち着いていく。
完全に火が消えると、アウレリウスは濡れ布巾でイリスに描いた陣を拭いて落とし、彼女の頭を撫でた。
「……終わったよ」
イリスは目を開けて、アウレリウスを見つめた。
ジワジワと、その水色の瞳に涙が溜まっていく。
「……頑張ったね。イリス」
「……ありがとう……ございました」
涙が落ちる。
アウレリウスはそれを静かに指先で拭った。
静かな部屋。
彼は、イリスの指先を取った。
「……この先、君が心から誰かを愛せますように。
その人と、生涯幸せに過ごせますように。
――イリスが、笑っていられますように」
指先に、そっと口づける。
視線が絡み、互いに微笑んだ。
明日、彼女はセント・アシュウェル修道院へと発つ。
書斎の窓の向こう、雲がゆっくりと空を渡っていった。
それは、イリスの止まっていた時間が動き出すその様のように、静かで、穏やかな空だった。




