変節9-8 『割れぬ月の朝』最終話
馬車の音が遠ざかっていった。
開いたままの玄関扉から、かすかに青白い光の筋が滑り込んでくる。
赤く燃えるようだったステンドグラスは、静かに色を落とした。
白。
青。
緑。
橙。
色が複雑に絡み合い、朝陽を透かし、輪郭をなくす。
水のように漂い、玄関ホールを包みこんだ。
膝をついてそれを見上げていたアウレリウスの頬を、涙が伝った。
透明な雫が、白いシャツを濡らす。
金の髪は乱れたまま静かに背に垂れ、右腕の袖は破れて乾いた血がこびりついている。シャツのボタンはいくつも失われ、床に落ちたクラヴァットやピンブローチは泥に塗れていた。
血に濡れ、泥に汚れ、服も乱れたまま。
それでも、
――やはり彼は美しかった。
アウレリウスは、そのまま力なく座り込んだ。
セティは彼の前に膝をつき、抱きしめた。
胸に強く抱き、彼の髪を撫でる。
もう、彼は震えてはいなかった。
「……アウル」
アウレリウスは静かにセティを抱き返す。
その力強さに、セティはわずかに安堵の息を吐いた。
「……セティ、見て」
セティがアウレリウスの視線を追う。
創造神のステンドグラス。
「あ……」
創造神の翳す手のひら。
わずかな、本当にわずかなヒビ。
「……セティ、壊れたよ」
「……はい」
「……もう、いないのかな」
「……わかりません」
アウレリウスはポケットから折れた黒鉛の棒を取り出すと、床に陣を描き始めた。
石をこするかすかな音。
それを、小さく叩く。
青白い炎。
炎が収束し、残されたのは、灰の砂。
アウレリウスはそれを指先でつまみ上げ、また床に落とした。
「……錬金術は使える」
青と灰の瞳が交わる。
アウレリウスは眉を下げて、小さく笑った。
「……わけわからないね」
セティもその場に座り込んだ。
アウレリウスが手を差し出すと、そこに手を重ねる。
「セティの言うように、創造神の理屈は僕たちと違うのかもね。
……あれこれ考えるだけ、無駄だったのかもしれない」
声は、石壁に吸い込まれていく。
「アウル。そんなことないです……」
セティは、一房落ちているアウレリウスの髪にそっと触れ、彼の耳にかけてやった。
「……アウルが負けずに考えてきたから、僕たちは不老不死を脱したんです。
僕は確かに“壊しちゃいけなかった”って前に言ってしまったけど、あのままだったら、いつか、アウルの心が壊れてました」
アウレリウスの視線が下がる。
彼は小さく頷いた。
「それに……。
ほら、エドガーさんとアウルは知り合いになれた。
アウルがたくさん考えたから、世界が広がったんです」
静かに、アウレリウスの瞳から、涙が零れた。
「セティ、僕は、永遠も怖いけど」
セティは、それを見つめた。
「……死ぬのも、怖い」
アウレリウスが視線を上げ、セティの瞳を見つめた。
青い瞳に、柔らかい朝陽が差し込む。
星を宿したようなその瞳は、静かにセティだけを見つめる。
「……長生きしようね」
「……はい」
鳥の鳴き声。
湖の波の音。
朝の光に白く浮き上がる城の石壁。
音を生まない、湖畔のグレイブハル城は、
――今日も、美しかった。
◇
世界は、何も答えない。
理は正しく、
神々は沈黙し、
選ばれた血は、次を待つ。
壊れたものも、
壊れなかったものも、
等しく世界の中にある。
それでも、
誰かが何かを選んだ痕跡だけが、
静かに残る。
城は、今日も湖畔に立っている。
変わらぬ姿のまま。
ただ一つ、
立つ場所だけを、
少しずらしたまま。




