変節9-6 刃と理
カイウスがよろめきながら立ち上がり、掴んでいたアウレリウスの髪を強く引いた。
全身が震えている。
アウレリウスは抵抗できずに、床に倒れこんだ。
カイウスは笑いながら彼に跨ると、手のひらを眺める。
「手が震える。神の御下にいるからか」
ステンドグラスを見上げ、そのまま視線をアウレリウスに滑らせた。手を、胸に置く。
「今、この胸を突いたら、貴方は死ぬのでしょう?」
アウレリウスは眉を寄せる。喉が張り付き、声が出ない。
カイウスは胸に置いていたその手を、アウレリウスの首に置いた。
「今、この首を折ったら、貴方は死ぬのですよね」
息だけが、漏れる。
「……人は、脆いですね」
カイウスの口元が歪む。
彼の手が、アウレリウスの顎を掴んだ。
「さぁ……。どうしましょうか。
王のための臓器があればいいと思っていましたが……。
貴方は、研究のしがいがありそうです」
「……カイウスも……人だよ……。
なぜ、そんなことができるの……」
アウレリウスの声は、酷く掠れていた。
「貴方は人ではありませんでしたよね」
「……生まれた日から、僕はずっと人だよ」
「本当にそうでしょうか。
殺してみましょうか。
喉を突いて死なないなら、それはもはや“人”ではありませんよ」
カイウスがアウレリウスのクラヴァットを引き抜き、床の上に投げた。シャツの襟を引き、喉を露出させる。
「……無抵抗ですね。
力が入りませんか?」
アウレリウスは奥歯を噛み締めた。
「……そういえば、守護者の彼も来ませんね。
――あぁ、そうか。創造神が私に味方してくれているのかもしれませんね」
両手のひらを広げて、アウレリウスの眼の前にかざす。
「ほら。私の手の震えは治まってきました。
……だが、貴方はまだ震えていますね」
カイウスは蠱惑的な笑みを浮かべると、アウレリウスの服に手をかけた。
「……なに」
「私には貴方の血が必要です。
貴方が協力してくれていたら、こんなことしなくても済んだのに」
「……やめて。僕に触らないで」
震える手でカイウスを押す。
「……触るな!」
カイウスが、アウレリウスの首を掴んだ。
「……うるさいですね。やはり殺しますか」
アウレリウスは目を強く閉じる。
歯を、食いしばった。
震える手を床に滑らせ、そして、
――叩く。
途端。
床が青白く燃え立ち、石の刃が飛んだ。
カイウスは目を見開いて飛び退く。
切られた頬から血が滴った。
熱の無い炎は、床に吸い込まれるようにして、すぐに消えた。
わずかに残る、錬金術の陣。
アウレリウスは咳き込みながら起き上がった。その手には黒鉛の棒。
息を吐き出し、首元を抑える。
カイウスは呆然としたように頬の血に指先で触れた。
「……錬金術だと?」
「……ここは、石だらけだからね。石なら造れる」
ふらつきながら立ち上がると、カイウスを見据える。
「……なぜ、貴方が錬金術を使えるか分かっていますか?」
「……選ばれし血だから」
カイウスはわずかに眉を上げた。
「……へぇ。分かっているんですね。
王性を失っても使えるなんて……。
しかもこんなに簡単に扱えるなんて……。
妬ましいほどに羨ましいですね」
彼のため息がホールに大きく響く。
アウレリウスは、息を呑んだ。
「……“王性を失っても”って言った?
僕、王ではなくなったってこと?」
「……はぁ?
えぇ、そうですよ。本当に貴方は愚かです」
カイウスが吐き出すように言った言葉に、アウレリウスはわずかに口元を緩めた。
「……そうなんだ」
「……何がそんなに嬉しいのです」
アウレリウスは花がほころぶように、笑う。
「……嬉しいよ。
こんなもののせいで、ずっと苦しめられてきたんだから」
「……“こんなもの”?」
カイウスは言葉を失ったように立ち尽くした。
拳を強く握る。
「“王”を、“こんなもの”だと、言ったのですか。
……正気か?」
「正気じゃないのは、カイウスの方だろう」
カイウスは懐からナイフを取り出すと、その鞘を足元に捨てた。
そして、床を蹴る。
反射的に顔を庇ったアウレリウスの腕に、ナイフを振り下ろした。
「……許せない」
コートごと肌が切られ、血が滲む。
「お前の何もかもが許せない!」
アウレリウスの血が、床に一滴、落ちた。
その瞬間、城が軋んだ。
足元が跳ねる。
ステンドグラスが低く唸り、空気が震えた。
カイウスの体が、わずかに泳ぐ。
「……なんだ?」
揺れに体勢を崩しかけたその手から、ナイフが滑った。
落ちる刃が、月光を弾く。
考えるより先に、アウレリウスの指が動いた。
掴む。
掌が裂け、熱が走る。
それでも離さない。
柄を持ち直し、
ほとんど反射で、腕を振った。
目の前の指を振り払うように。
ただ、がむしゃらに。
血が散った。
カイウスが息を呑む。
もつれるようにぶつかり、二人は床に倒れ込んだ。
気づけば、上にいたのは、アウレリウスだった。
彼は、カイウスの喉に刃を押し当てる。
沈黙。
浅い呼吸。
鼓動が耳のそばで鳴る。
刃を持つアウレリウスの手は震えていた。
「……君なら、分かるよね。
指の腱を断ったよ。
すぐに治療しないと、動かなくなる。
医者としては致命的だよね」
「……お前」
「帰って。
……こんなこと、もうやめよう」
カイウスは呆然と、アウレリウスを見上げた。
「……帰るって言え!
僕が、この刃で君の喉を刺せば、君は死ぬんだ。
……すぐには死なないだろう。
血が喉を塞ぎ、息を吸おうとしても吸えない。呼吸困難を起こして、苦しんで死ぬんだ」
カイウスの唇が震える。
「早く言え!!」
刃が喉に触れ、血がかすかに滲んだ。
「死ぬのはとても苦しいんだ!
僕は知ってる!
早く! 早く降参しろ!
僕は君を殺したくない!」
カイウスの視線がステンドグラスに滑る。
月と、輪を持つ星を背にした創造神オルド。
それは、静かに彼らを見下ろしていた。
カイウスは、眉をきつく寄せ、瞳を伏せた。
短い呼吸が、落ちた。




