変節9-5 歪む月
セティは、目を覚ました。
強く胸を圧された気がして、体を起こして夜着の胸元を強く掴んだ。
浅い呼吸の音が、いやに響いている。
まだ闇が支配している部屋。
視線を巡らせると、隣のベッドは空だった。
「……アウル?」
額を流れる汗を拭い、ベッドを降りた。
床に足をつくと、体が妙に重い。
動悸がする。
――なんだろう。嫌な感じがする。
アウレリウスのクローゼットを開けた。中には夜着が畳まれて置かれ、彼のフロックコートは見当たらない。
「……こんな夜に?」
隣の自分のクローゼットを開けて、着替え始める。
指が震えて、うまくボタンが留められない。
「……何が起きてる?
行かなきゃ……。早く、アウルを探さなきゃ……」
『行け!』
城の声。いつもセティを急かす、あの声。
『行け!』
「分かってる! 分かってるよ!」
酷く声が震えている。
――吐き気がして、目が回る。
シャツと細身のパンツだけ身につけると、ブーツを履いた。夜着を畳む時間さえ惜しく感じ、丸めて放り投げる。
セティは駆け出した。
部屋を出て、回廊へ。
足音が響く。
いつもは足音を吸う石床が、金属を叩いているかのように高く鳴っていた。
ふと、
――違和感を覚えて足を止める。
並んだ窓から覗く月。
滲み、今にも夜空に溶け出しそうなそれは、わずかに二重に見える。
息を飲んだ。
――おかしい。
――やっぱり、何かが起きてる。
「……アウルを見つけないと」
また駆け出そうとしたが、
――突然、肌が粟立った。
近づいてくる、金属が擦れるような音。
月の影が、伸びる。
セティは振り返った。
目の前に、月光を冷たく弾く、全身鎧の騎士。
それは斧を振り上げ、セティに向かって鋭く振り下ろす。
身を引く。
すんでのところで避けた。
「……嘘」
アウレリウスが無理やり触れられた時に、セティが見学者に見せた幻覚の騎士。
「……なんで、僕を襲うの……?」
冷や汗が頬を伝う。
「……僕が、“王”を壊したから?
……僕は、もう、守る資格もないの?」
騎士がセティの首を掴んだ。
冷気が、じわりと肌を這う。
「……これは幻覚。
幻覚のはず……なのに」
喉が締まり、息がうまく吸えない。
「……動け! 足を動かせ!」
強く床を蹴り、背中から倒れ込む。
震える足を叱咤し、起き上がった。
前を向いて、駆け出す。
決して長い回廊ではないはずなのに、走っても走っても回廊を抜けない。
先ほども見たはずの壁のヒビが視界に入る。
歯を食いしばった。
知らずに涙が頬を伝う。
「アウル! どこ!!」
――このまま、アウルに会えなかったら?
――このまま、回廊から出られなかったら?
「……嫌だ! アウル!」
走る。
足がもつれ、滑るように転んだ。
立ち上がる。
涙を拭い、壁を強く叩いた。
「……落ち着け。
――こんなの幻覚だ。
……惑わされるな」
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「創造神がなんだ……。
アウルのそばにいるべきなのは、
――僕だ」
窓から見える月が、青白く歪んでいた。
「僕のアウルに何をしようとしている!」
壁に反響した声が、たわむ。
「思い知るのは僕じゃない!
――お前だろう!
好き勝手に僕たちを苦しめて!
とっととこの城から出てけ!!」
足元に落ちた闇が、ゆっくりと蠢くようだった。
「もう僕たちのことは、放っておいてくれ!!」
その刹那。
頬をぬるい風が撫でた。
風の行先を目で追う。
暗がりに溶ける、回廊の先。
『来い!』
「……ヴァレイン侯爵?」
『早く来い!』
セティは、駆け出した。




