変節9-4 壊れない箱
夜半。
アウレリウスは目を覚ました。
部屋には冷えた暗闇が落ち、青白い月光が滲むように窓枠の下だけ濡らしている。
身を起こし、胸に手を当てた。
彼はベッドを降りると、クローゼットに寄り、夜着を脱ぎ始める。細身のパンツに、白いシャツ。紺のウェストコート、オレンジサファイアのピンブローチ、ブーツ。そして、紺のフロックコート。
衣擦れの音に呼応するように、城がかすかにざわめき始める気がした。
――腹の底が、妙に冷える。
最後に自分で髪を、首の後ろで一つに縛った。
なぜ、着替えるべきなのか、理由は分からない。
だが、そうすべきだと、何かが強く訴えかける。
アウレリウスは眠っているセティのそばに、静かに寄った。
白い頬。
どこかまだあどけない寝顔。
少しだけ頬にかかる、まっすぐな黒髪。
頬に手を翳し、腰をかがめた。
そっと、唇に口づける。
彼の体温。優しい香り。
その全てが、心の奥をくすぐる。
「セティ、愛してるよ。
だから、君はここにいてね」
ほとんど吐息だけの小さなつぶやきは、夜の闇に溶けていく。セティはかすかに眉を寄せたが、またすぐに、規則正しい呼吸に戻った。
立ち上がり、襟を引いて服を整える。
アウレリウスは、部屋を出た。
玄関ホールの大階段を降りていく。石を打つ小さな音が、今日だけはやけに響いていた。
アウレリウスはわずかに眉を寄せる。
「……なぜ、ここにいるの?
内門も玄関扉も、錠が掛かっていたはずだよ」
玄関ホールの中央に立ち、彼を見上げる男。
鋼のような赤髪の青年。
――カイウス・ヴァルドレイン。
「こんばんは。王の血を持つ者よ。
――私はね、招かれたんですよ」
深い緑に沈んだ瞳。
どこか恍惚とした表情で、彼はアウレリウスを舐めるように眺めた。
「……月光のステンドグラスの前に立つ貴方は、まさに神の眷属の風格。
美しいですよ。誇りなさい」
アウレリウスは、カイウスを見据える。
――『なぜ壊した』
彼はハッとして振り返り、階段を急いで降りた。
ステンドグラスから距離を置く。
『なぜ壊した。
あれほど完璧だったのに』
城が震える。
途端に、肌が焼かれるような感覚。
喉がきつく締め付けられ、首元を押さえて膝をついた。
呼吸が喉に熱く張り付く。
見れば、カイウスも膝をつき、ステンドグラスを見上げていた。
『なぜ壊した』
腹の底を突き上げてくるような、鋭い声。
『なぜ欲しない』
それはあまりにも、悲しい声。
『我は壊れない箱を造った』
それはあまりにも、澄んでいて。
『今度こそ長く保つと思ったのに』
それはあまりにも、冷酷だった。
「……創造神?」
知らずに、涙が頬を伝った。
自分の体を、強く腕で抱く。
心細い。
怖い。
自分が、失われてしまう気がする。
指先が、冷える。
『これだからお前の造るものはつまらんのだ』
先程とは異なる、鮮やかに笑うような声。
『見てみろ。お前の造る世界を誰もが否定する』
『うるさいだまれ』
『わたしも手を貸してやったというのに』
『お前に何がわかる。お前の造るものはあまりにも醜いではないか』
「……君が勝手なことをしたから、神々も怒ってるんだ」
カイウスが、笑いながらそう言った。
彼は、這うようにしてアウレリウスに寄る。
「……来るな。僕に近寄るな」
声も、体も震えていた。
――動けない。
――体が言うことをきかない。
カイウスがアウレリウスの膝に触れ、彼の体をよじ登るようにして身を起こす。
「さぁ、君の血を私に寄越せ」
彼の声もまた、掠れていた。
赤髪の青年の背後には、月光に赤く燃えるようなステンドグラス。
「……嫌だ」
肩を強く掴まれ、顔を寄せられる。
「臓器ひとつだけでいいんだ。
――あぁ、もうただの人間だから、取ったら戻らないのか。
まぁ、いいか……」
カイウスの呼気が顔にあたり、アウレリウスは顔を背けた。
「自業自得だろう?」
「……後悔はしていない。
でも……」
カイウスの顔を強く手で押し返す。
「君に僕のものは何一つ……渡すつもりはない」
カイウスがアウレリウスの前髪を掴んで引く。
笑うような声が、城に、歪に響いた。




