変節9-1 名づけたあとで
王都オルドンのほど近く、湖のほとりに、古い城がある。
世界の理から、わずかに外れた場所。
神々の沈黙が、届かぬ距離。
城は変わらない。
湖も、森も、静けさも。
変わるのは、そこに立つ者の位置だけだ。
境界は、守られるものではなく、交わされるものとなった。
これは、世界に抗う物語ではない。
世界の中で、誰を選ぶかを問う章である。
◇
“壊してしまいたいくらい好きすぎる!”
と、つい言ってしまった。
アウルはその時、とても驚いた顔をしていた。そして、呆然としたまま部屋を出ていき、戻ってこなかった。
――それが、昨晩のこと。
今朝、僕が目覚めたら、アウルはいつも通りに自分のベッドで寝ていた。
シーツに散る綺麗な金の髪。
触りたいな。
触れて、キスがしたい。
首を振る。
(だめだ。前より欲張りになってる)
「自制。自制」
ベッドを降りて、朝の支度を始めた。
水を用意し、服を着る。今日は開城日だから、きちんとした服を。
窓辺に寄り、窓を開けた。
冷たい風。
空気が澄んで、遠くまで見渡せる。
(もうすぐ、冬が来るのかな)
――あれは、言い過ぎたかもしれない……。
さすがにアウルを驚かせてしまった。
また、距離が開くのかな……。
衣擦れの音。
振り返ると、ベッドから起き上がったアウルが伸びをしている。
目が合うと、彼は、にっこりと笑った。
――境界を壊すまでは、いつも、朝起きたらアウルは僕を抱きしめて、額にキスをして“大好きだよ”って言ってくれた。
――境界を壊して喧嘩した後は、それはやらなくなった。
――今日も、そのまま着替え始めるのかな。アウルの肌を見るのはつらい。僕は部屋を出ないと。
アウルはまっすぐ僕に向かって歩いてくると、腕を伸ばして抱き寄せた。
(え!?)
アウルは少し上を向いて、僕の額に短くキスを落とす。
そして、僕の目を覗き込んで、優しい瞳で微笑んだ。
「おはよう、セティ」
「……おはようございます、アウル」
「セティ、大好き」
柔らかく、笑った。
(なぜ!?)
アウルは僕から離れると、「今日もいい天気だね」とつぶやいて朝の支度を始める。
ガウンを脱ぎ、シャツワンピース型の夜着を脱ぎ始めた。
アウルは、僕に肌を見られることに抵抗はないようだ。それは、境界破壊前後で変わらない。もともと人目を引く見目の人だ。見られることに関して、何かを思ったことがないのかもしれない。
――だけど、僕には目に毒だ。
僕は、部屋を出た。
城に見学者が来た。
「セティ、案内に行ってくるね」
「……はい」
案内に行くときも、境界破壊前は額にキスをしてから行ってた。
最近は声をかけるだけ。
以前やっていたルーチンの類いは、最近は失われていた。
本を読んでいた手元に、影が落ちる。
顔を上げると、アウルがソファに座る僕の前に立っていた。
「……え?」
彼は腰をかがめて、僕の額にキスをした。
離れると、甘やかな笑みを残して、部屋を出ていく。
その背を見送った。
境界を壊した後だって、髪を切った時には、アウルは額にキスをした。僕が泣いたときは、口にキスだってしてきた。
全く触れ合わないわけじゃない。
だけど……これは……。
――以前のアウルに戻ったみたいだ。
(なぜだろう?)
触れられた額が、少し熱い。
見学者を見送り、日も落ちた頃。
アウルが内門の錠をかけに行った。
頬に当たる風が、痛いくらい冷たい。
空にはもう月が浮かび、星が点々と瞬いている。
僕は燭台を持って、アウルが戻って来るのを玄関扉で待っていた。
鉄門が閉まる音。
アウルが振り返り、僕のもとに駆けてくる。
「寒くなってきたね」
「はい」
アウルが燭台を僕から受け取ると、彼はそれを地面に置いた。
――何するんだろう。
アウルは僕の目を見つめた。
僕の顎に手を添えると、僕の唇にキスを落とす。
――なぜ?
――ルーチンでも、僕が感情を爆発させたわけでもないのに。
唇が離れる。
「……セティ、口を開けて」
「……え?」
また、唇が塞がれる。
よろけそうになった僕の腰をアウルが支える。
深くて、甘いキス。
――これは、耐えられない。
アウルの胸を強く押した。
温もりが、離れる。
僕の呼吸だけ、浅い。
「……嫌だった?」
「そ……そうでは……」
「セティ、愛してるよ」
「……え?」
アウルは燭台を拾い上げると、僕の手を取って城の中へとゆっくり歩き出した。
いつもの柔らかい笑み。
アクアブルーの瞳に、蝋燭の火が映り込んで、ゆらゆらと揺れている。
胸が、強く締め付けられる。
夜。
寝支度を整えて部屋に入ろうとして、僕は扉の前で躊躇した。
最近、アウルは確かに甘くはなってた。
でも、アウルの“愛してる”は僕のとは違うんだよね?
僕が“愛してる”って言っても、応えてくれなくなっていたのに……。
――今日のアウルは、変だ。
扉を開ける。
アウルはソファで本を読んでいた。
目が合うと、彼はふわりと笑んだ。
喉の奥が閉まる。
今すぐ抱きついて、キスをして、押し倒してしまいたい。
「……アウル。僕はしばらく客室で寝ます……」
アウルが目を見開く。
「え……なんで」
「その……怒ってるとかではないので……。そういう気分というか……」
目を見れない。
「そっか……」
寂しそうな声。
僕は部屋を出て、廊下を駆けた。
――アウルが甘すぎて、
これ以上は僕が、自分を抑えられそうに、ない。




