変節8-7 『理を越えて』最終話
城に帰ってから、セティは一度も僕に口を利かなかった。
食事は共に取ったものの、視線は合わない。
夜になって、僕は一人で私室のソファに座り、燭台の火を眺めていた。
セティはまた、客室で寝るのかな。
ため息が漏れる。
カイウスが言っていたことは、これまでずっと僕が考えていたことだ。
彼は僕を挑発していた。
僕を試していた。
今更、心が囚われるわけにはいかない。
そう――頭では理解している。
ソファの上で足を組んだ。
扉の開く音。
「あ……セティ」
彼は僕を見据える。
――すごく怒ってる。
まぁ……当たり前か。
セティは僕の前に立つと、僕の両膝に手を乗せた。
――何を言われるんだろう。
「アウル、キスしてもいいですか?」
「え?」
低い声。射るような眼差し。
態度と言葉が合っていない。
「……いいよ」
「口に、です」
「うん、いいよ」
「触れるだけではなくて、その……深いキスです」
「いいよ」
セティの瞳がわずかに潤み、眉がきつく寄る。
「……アウルは、僕をそういう風には見ていないんですよね?
だったら、拒まなくちゃだめです」
「嫌じゃなくても?」
セティは奥歯を一度強く噛み締めて僕を見据えた。
だが、顔を寄せ、唇を重ねる。
ゆっくりと、深く。
呼吸が落ちる。
蝋燭の火が、揺れた。
「……ほら、嫌じゃないよ」
セティの瞳に涙がたまる。
「……じゃあ、どうして?」
声が震えている。
「セティ?」
「アウルはどうして、一人で抱え込んでしまうんですか」
セティが倒れ込むように僕に抱きついてきた。
その背を静かにさする。
「抱え込んでなんか……」
「抱え込んでます。
いつもいつも、一人で考えて、一人で悩んで、一人で泣くんでしょう?
僕がそばにいるのに、なぜ頼ってくれないんですか」
「僕は……君に頼ってばかりだよ」
「嘘ばっかり!」
セティが顔を上げる。
呼吸も触れ合う距離。
彼の頬は、涙で濡れている。
「今日だって!
エドガーさんからの書簡のこと、なぜ言ってくれなかったんですか!
なぜ、一人で赤髪の青年に会いに行ったんですか!」
「それは……君を傷つけたくなくて……」
大粒の涙が、ぽたりと落ちた。
「……アウルは、僕に街に住めと言ったり、こうやってのけ者にして頼りにはしてくれない!
でも、キスだってするし、体だって繋いだ!
どうして?
なんで?
僕のこと、どう思ってるの?
なぜこんな事がアウルはできるの!」
胸が、締め付けられる。
「セティ……。
僕は君に、街に住めなんて言ってない。君がそうしたかったら、街に住むこともできるって言っただけだ」
喉が締め付けられて、声が掠れる。
「でも」
「言ってない!」
「……アウル」
歯ぎしり。
「言ってない!
言うはずないだろ!」
ひどく、腹が立つ。
なぜ、分かってくれない。
「……アウル。ちゃんと……、ちゃんと言葉にして、考えてることを教えて」
セティのシャツを、シワができるほど強く掴む。
「僕は、ずっと死にたかったんだ!
この身体に苦しめられてきた。それを……その苦しみを、僕は君にも背負わせてしまった。
終わりのない日々を、この城で、隠れるようにして過ごすんだ。
永久の時を。ただひたすらに。
僕はそうやって君をこの城に閉じ込めてきた!」
涙で濡れた灰の瞳に僕が映っている。
余裕のない、ひどい顔の自分。
「それが……やっと終わったんだよ、セティ。
……もう、自由なんだ」
僕の頬にも、涙が伝う。
「セティ、君は素敵だよ。
きっと、街に行けば誰からも愛される。
……今まで、君には僕しかいなかった。
でも、これからは、付き合う相手を自分で選べるんだよ」
「……僕がそれをしたくなくても?」
「世界を見るんだ、セティ」
セティの頬に手を添えた。
「……でも……本当は」
声に、嗚咽が混ざってしまう。
「……どこにも、行かないでほしい。
……僕のそばに、いてほしい。
ずっとこの城に、僕の隣に。
僕の腕の中に、君を閉じ込めておきたい」
彼の目が見開かれる。
「でも……でも、そんなこと……」
胸の奥が、痺れたように痛んだ。
「そんなこと、君を閉じ込めてきたこの僕が、言っちゃいけないだろう!?」
セティに口を塞がれ、ソファに体を縫いつけられる。
「アウルは本当にもう!
めちゃくちゃにしてしまいたい!」
額に、目元に、頬に。
キスを落とされた。
「……え?」
「壊してしまいたいくらい好きすぎる!」
きつく、胸が焼けるほど強く抱きしめられる。
「え? ――好きだと壊したくなるの……?」
セティが顔を上げた。
「……小説にはそう書いてありました。
僕も実際そう思うし……」
「そう……なんだ……」
――あれ?
じゃあ、セティを壊したいと思ったあの時の僕の気持ちは。
セティに口にキスされそうになって、手のひらで止める。
「……待って」
そっとセティを押して、起き上がる。
「待って……。僕……」
そのまま、部屋を出た。
僕を呼ぶセティの声がする。
廊下に出て、扉に背を預けてしゃがみ込んだ。
――僕は、好きだから、あの時、壊したいと思ったんだ。
――じゃあ、僕のこの気持ちは……
「……恋?」
自分の唇に、指で触れる。
「なんだ……。
そうだったんだ……」
小さく、ため息を吐いた。
「はは……。そっか……」
灯りの灯されていない廊下。
どこかでパチリと、小さく音が鳴った。
◇
世界は、何も答えない。
理は正しく、
神々は沈黙し、
選ばれた血は、次を待つ。
壊れたものも、
壊れなかったものも、
等しく世界の中にある。
それでも、
誰かが何かを選んだ痕跡だけが、
静かに残る。
城は、今日も湖畔に立っている。
変わらぬ姿のまま。
ただ一つ、
立つ場所だけを、
少しずらしたまま。




