3-2 挨拶だけの距離
朝、アウレリウスが城の門を開けていると、朝霧の向こうから馬車がやってきた。
脇にそれて待つと、目の前で一頭立ての黒い小型馬車が止まる。
くすんだ真鍮の金具には、霧の雫がいくつも残っていた。
王都の匂いが、ふわりと漂う。
アウレリウスは客席を覗き込み、座っていた女性に手を差し出した。
だが彼女は仏頂面のまま首を振り、手を借りることなく、さっさと降りてくる。
きっちり結われた白髪混じりの髪が、彼の前を横切った。
アウレリウスは苦く笑い、宙に残った手を一瞬だけ見つめてから、顔を上げる。
「いつもありがとう。夜に、また迎えに来てあげてね」
御者は無言で頷き、そのまま王都へ引き返していった。
霧の向こうに、馬車の影が溶けていく。
アウレリウスは少し早足で女性に追いつき、顔を覗き込もうとするが、視線は合わない。
「マーサさん、おはようございます」
「……おはようございます」
「今日もよろしくお願いします」
「……はいよ」
淡々と、それだけを返して、マーサは城の中へ入っていった。
マーサは週に一度だけ雇っている掃除婦だ。
寡黙で愛想はないが、仕事はいつも丁寧だった。
アウレリウスは彼女の背に向かって、そっと微笑みを残すと、ひとり受付室へ入っていった。
セティが羽根のはたきを持って回廊を歩いていると、向こうからマーサがやって来る。
朝の光が、彼女の頬をかすめた。
「マーサさん。おはようございます」
セティが軽く頭を下げると、マーサはほんの少しだけ目元を和らげた。
「おはようございます」
それ以上、言葉は交わされない。
マーサには、いくつかの部屋を除いた城の掃除を任せている。
本来なら一人では到底終わらない量だが、この城は、埃をはらい、軽く拭くだけで保たれてしまう。
時折、修繕が必要になることはある。
だが、それも本当に稀だった。
それがこのグレイブハル城が“不思議な城”だからなのか――
アウレリウスにも、セティにも、理由はわからない。
マーサとすれ違ったあと、セティは私室の隣にある書斎へ入った。
アウレリウスはよくこの部屋を使うが、掃除は自然とセティの担当になっている。
窓を開ける。
大きな本棚。
大きな机の上に並ぶ、いくつもの道具。
物はきちんと整えられていた。
一つひとつ、埃を払っていく。
本棚は私室にもある。
セティが読む本のほとんどはそちらにあって、書斎の本には、あまり手を伸ばさない。
――アウレリウスが、なんとなくそう望んでいる気がするから。
一通り終えると、セティは机の椅子に腰掛けた。
黒壇の大きな机。
黒の厚い天板は磨き込まれているが、無数の細かな傷が残っている。
指先で、そっとなぞる。
肘をつき、顎を支えた。
本棚の背表紙に視線が向きそうになり、セティはそれを振り切るように窓を見る。
日が、ずいぶん高くなっていた。
椅子を降り、窓とカーテンを閉める。
はたきを持って、次は私室へ。
セティの担当は、書斎、私室、それから主人の部屋。
一日は、まだ始まったばかりだ。
やることは、たくさんある。




