2-9 底にあったもの
エリザは、半ば呆然としたまま自室へ戻ってきた。
書き物机の前に腰を下ろし、しばらく何もせず、ただ自分の指先を見つめていた。
――さっきまで、誰かの手に包まれていたはずの指。
ふと、思い出したように引き出しを開ける。
奥の方に仕舞われていた、美しい意匠の小箱。
それを取り出し、蓋を開いた。
中に収められているのは、婚約者であるノアから届いた、幼い頃の手紙たちだった。
理由は分からない。
けれど今、エリザはどうしても、ノアの字を見たくなった。
一枚、取り出して読む。
『紫の花が好きだと先日言っていたので、紫のスイートピーを贈ります。気に入ってくれるといいんだけど』
「……ものすごい数が届いて、侍女が驚いていた時の手紙だわ」
思い出すように、口元がわずかに緩む。
もう一枚。
この頃の文字は、今の整った筆跡より、少しだけ拙い。
『君が勧めてくれた恋愛小説を読んでみました。僕にはちょっと……よく分かりませんでした。ここに出てくるような男になればいいのでしょうか? 僕が将来こんなキザなことを言えるようになるとは思えませんが……精進します』
「ふふ……。確かに今でも、キザなことを言う人ではないわね」
また一枚、開く。
『君に背が伸びたのではと言われたので測ってみました。伸びていました。一年間で、四インチ近く伸びたことになります。驚いています。すごく驚いています』
「ノアったら……よっぽど驚いたのね」
喜怒哀楽を大げさに表に出す人ではない。 幼い頃の手紙も、どれも淡々としている。
『君が話していた異国のレースを手に入れました。きっと君の柔らかい髪に合うと思います。次に会うとき、着けてきてくれたら嬉しいです』
「……今でも持っているわ。綺麗なレースのリボン……」
彼の手紙は、いつも決まっていた。
エリザが話した言葉から始まる。
彼は、歩くときに手を引かない。
けれど、必ず歩調を合わせ、隣に並んでくれる。
決して華やかではない。
けれど、穏やかに、静かに、いつもそばにいた。
黙っていると少し冷たく見える切れ長の瞳は、エリザを見るときだけ、やわらかく細められる。
エリザは、手紙の束を胸に抱き寄せた。
――なぜ、忘れていたのだろう。
「……ごめんなさい、ノア」
一瞬でも、他の人を見てしまった自分が、ひどく愚かに思えた。
胸が痛む。
締め付けられるようで、苦しくて、息が詰まる。
箱の底に残った、最後の一枚に手を伸ばす。
「あ……」
小さく、光るもの。
一番下にあったのは、探していたおもちゃの指輪だった。
震える指で拾い上げる。
もう薬指には嵌らない。
エリザは、小指にそっと通した。
「……こんなところに、あったのね」
最後に、手紙を一枚、開いた。
『君と何度もお茶を飲んだり、遊んだりして、はっきり分かったことがあります。
僕は君が好きです。
君を生涯、守りたいと思っています。
僕はきっと、すごく格好いいわけでも、器用なわけでもありません。
それでも、君のそばにいられたらいいなと思いました。
宝石の指輪は、まだ買えません。
父上に頼めば買ってもらえるかもしれないけれど……。
今は、これが精一杯です。
エリザ。
僕は君のことが、大好きです』
エリザは、泣いた。
その涙が――
失恋の痛みなのか、
裏切りかけた自分への悔いなのか、
指輪を見つけた安堵なのか。
彼女自身にも、もう分からなかった。
ただ、水に沈むような重たい気配だけは、
いつの間にか、胸の奥から消えていた。




