2-7 触れてはいけない理由
霧の日、エリザが帰ったあと。
受付室に戻ったアウレリウスを、セティはソファの横に立ったまま迎えた。
緑がかった灰色の瞳が、まっすぐに彼を捉えている。
アウレリウスは小さく首を傾げ、やわらかく目を細めた。
「雨が降ってきちゃった」
「……はい」
すれ違いざま、アウレリウスはセティが胸の前で抱えていた手に、そっと触れた。
それだけして、小窓の前の机へ戻る。
その背中に、セティは声をかけようとした。
だが言葉は形にならず、霧の中に溶けていく。
小さく、息を吐いた。
アウレリウスは空を見上げている。
陽はすでに落ち、雨のせいで、今夜は星も見えないだろう。
「今日はもうおしまいかな。戸締まりしなくちゃ」
金の髪が揺れる。
立ち上がり、振り返る。
「門を閉めてくるね」
「……外套を、とってきます。雨避けの」
「いいよ。ちょっとだもん」
「でも……」
「セティ」
部屋に走ろうとしたセティの手首を、アウレリウスが掴んだ。
引き寄せられ、腕の中に閉じ込められる。
「セティ、どうしたの?」
黒髪の少年は、小さく首を振る。
「……なんでも、ない」
「なんでもなくないよね?」
顔を上げると、心配そうな青い瞳が覗き込んでくる。
「外套を……ちゃんと着て」
「……分かったよ」
腕が解かれる。
セティは外套を取りに走った。
――アウレリウスは、人をよく見ている。
――けれど彼は、“境界を越える意味”を知らない。
夜。
いつものように、セティは背筋を伸ばしてソファに座っていた。
後から来たアウレリウスが、背中を預けるように腰を下ろす。
「アウル」
「なぁに?」
テーブルの燭台の火が、ゆらゆらと揺れている。
カーテンの向こうから、雨の音。
「アウルは……彼女に恋、してるの?」
「恋?」
アウレリウスは起き上がり、セティに向き直った。
解かれた金の髪が、身体に沿って流れる。
「そうでないなら、あれは……心を傷つける行為」
セティは、ゆっくりと彼を見つめた。
アウレリウスは、わずかに眉をひそめる。
「彼女って、エリザのことだよね? 僕は、彼女を好きだよ」
セティも身体を向け、静かに首を振る。
「違う。
アウルは……彼女の心も、身体も、欲しいと思いますか?」
アウレリウスはさらに眉を寄せ、セティの手を取った。
「心? 身体? それは思わないよ。それは……彼女のものだもの」
「だったら、触っちゃいけない」
「なん……」
「――心を、傷つけてしまう」
「どうして? 彼女は、僕に触れたいと思っていた」
「それでも……」
セティは、握られた手を握り返す。
「それでも……です」
アウレリウスはセティを見つめ、ゆっくりと視線を落とした。
「……そうなんだ」
二人の影が、壁に長く伸びている。
絶え間ない雨が、石を叩く音だけが漂っていた。
アウレリウスはセティを抱きよせる。
「セティ、大好きだよ」
「僕もです」
「セティ、君はとても美しい」
「アウルは……とても綺麗です。
なんでも、簡単に魅了してしまうくらいには」
「セティ、僕は……君の嫌がることはしないよ」
「アウル……」
アウレリウスはセティを離し、目を閉じて唇を噛んだ。
セティは彼に触れようとして――やめる。
アウレリウスは小さく息を吐き、優しい目でセティを見つめた。
そして、小さく微笑んだ。
「寝ようか」
「はい」
雨は、まだ降り続いている。




