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グレイブハル城の観測者  作者: かも ねぎ
正編 第二章『境界に触れる』
14/71

2-6 境界に降る雨


 その日は、グレイブハル城にも珍しく、薄く霧が立ち込めていた。

 城だけが世界から切り離されてしまったかのような、静かな昼だった。


 受付室の小窓の前でアウレリウスが執筆をしていると、霧を裂くような馬車の音が聞こえた。


 肘をついたまま顔を上げると、小窓の向こうにエリザが立っている。


「あれ? エリザ?」


 前回と同じように、侍女は銀貨だけを置いて、深く一礼をし、馬車へ戻っていった。

 アウレリウスは受付室を出る。


「こんにちは、アウレリウスさん」


 鈍く差し込むステンドグラスの光のせいか、互いの輪郭がどこか曖昧に見えた。


「こんにちは、エリザ。

 もう、そんなに城について話せることもなさそうだけど……いいのかな?」


 エリザは、苦さを含んだ、それでも穏やかな笑みで彼を見上げる。


「……はい。構いませんわ」


 彼女の方から、そっと手を差し出した。

 アウレリウスはその手を取り、いつも通り、きゅっと握る。




 正餐室。


 普段なら、家具の由来や、かつての主たちの暮らしについて語る部屋。

 だが、それらはすでにすべて話してしまっていた。


 アウレリウスは椅子を二脚引く。

 一脚をエリザに勧め、並んだもう一脚に自分が腰掛けた。

 エリザは一瞬ためらいながらも、彼に手を引かれ、静かに席に着く。


「エリザは伯爵家のご令嬢だから、こういう正餐室には慣れているんじゃないかな?」


「……ここは、歴史があるので。やはり、違いますわ」


「そっか」


 広い部屋の中央に、マホガニーの長いテーブル。

 白いリネンは張られたまま、使われた形跡はない。

 火の入らないシャンデリアと銀の燭台。

 何も置かれていないマントルピース。

 大きな絵画が一枚だけ、意味もなく壁を占めている。


 宴の気配はなく、声も残っていない部屋だった。


 短い会話をいくつか交わし、二人は回廊へ向かう。

 二つ分の足音は、石床に吸い込まれていった。


 回廊の燭台には、一つおきに火が灯されている。

 光と影が、ゆっくりと揺れていた。


 ふいに、アウレリウスが立ち止まり、振り返る。


「エリザは、僕とお話がしたいのかな?」


「……え?」


 不意打ちのような言葉に、エリザは彼のアクアブルーの瞳を見つめる。


「短期間に何回も来る人は珍しいから。

 そうなのかな、って思って」


 アウレリウスは、ただ無邪気に笑っていた。


 エリザの胸が、うるさく脈打つ。

 当たり前のように握られていた手を離し、胸の前で両手を握りしめる。


 ――……私は、もしかして、彼に惹かれてしまっている?


「今日は霧があるね。湖も見えないかもしれないけど。

 夫人の部屋のバルコニーを見に行こうか」


 そう言って、彼は背を向けて歩き出す。


 エリザは、金の髪を追うように歩き出した。

 振り返ったアウレリウスが、当然のように彼女の手を取り、引いていく。


 燭台の火に照らされた彼の髪が、水に沈んだように揺れ、

 夢と現実の境目が滲んでいく。




 霧の向こうに、赤い陽が浮かんでいた。

 アウレリウスは鉄柵に手をつき、湖を見下ろす。

 視界にあるのは、ほとんど霧だけだ。


「霧に閉じ込められちゃったみたいだね」


 振り返った彼の瞳は、宝石のように澄んでいた。


 エリザは、ほとんど無意識に、その頬へ指を伸ばした。

 冷たい肌に触れた瞬間、アウレリウスはびくりと身を引く。


 彼は彼女を見つめ、首をわずかに傾げた。

 そして、小さく微笑む。


 彼は腕を伸ばすと、エリザの腰を抱き寄せた。


 エリザは、ただ彼の瞳を見つめていた。

 思考が、静かに溶けていく。


 指先が、彼の唇へ伸びかけた――そのとき。


 雨が、降り出した。


 雫が伸ばした指先に触れる。


 アウレリウスは空を仰ぎ、彼女を離した。

 代わりに、手を取る。


「雨だ。戻ろう」


 夫人の部屋へ戻りながら、エリザは自分の手を見つめる。

 わずかに、震えていた。




 開け放たれた扉の向こうで、セティは二人を見ていた。


 バルコニーから戻ってくる、その姿を。


 声をかけることはなかった。

 ただ一人、受付室へ戻る。


 彼の足音は、石の床に、静かに吸い込まれていった。



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