上意により
原本を待つあいだも、仕事はあった。台帳の照合、目録の書き写し。臨時勤務は月ごとの更新で、次の月末までは私の席がある。
依頼状を出してから、返事と荷が届くまでに三週間かかった。そのあいだに、記念祭までの日付の線は、指の幅ふたつぶん、縮んでいた。
父の返事が先に届いた。借用には応じる、原本一式を逓送に乗せる、とあった。そのあとに、一行。
――王都での務めが確かなものとなった折には知らせるように。先方には、まだ返事を待っていただいている。
帰れとは書いていない。縁組が消えていないことだけが、書いてあった。私は手紙をたたんで、仕事に戻った。
アーベルのほうも動いていた。公開の給水記録を、告示の前後で照らしていた。
「壁の内側へ水が入っていた記録は、告示のあとも続いています」彼は言った。「少なくともひと月。その先は、帳簿が一冊抜けている」
「止まったんですか。それとも足りなかっただけ?」
「そこは、まだ言えません」
彼は、言えないことを言えないと言う人だ。私は「少なくともひと月」と書いて、日付の線に足した。
原本は、封をした木箱で届いた。ドルン女史が外装と封印をあらためてから、私の前で開けた。
中身は、先祖の職務記録の束。台帳、帳簿、受け渡しの控え。それと、ほかとは紙の質の違う、折りたたまれた一通と、綴じの外れかけた対応表が数枚。
ドルン女史は台帳の束を自分のほうへ引き寄せ、折りたたまれた一通だけを開いて、日付と、下の署名と、押された印を順に見た。
「認証点は合っている。筆跡も、印も、時代に合う」彼女はそれを私に返した。「台帳は控えと照らしなさい。命令書は、まずあなたが翻刻を取りなさい。照合結果と翻刻は、別の工程で扱います」
それが、この館の仕事の順序だった。台帳は控えと原本を突き合わせる。写しのない文書は、まず翻刻を起こす。文書の種類が違えば、確認の順序も違う。私は書類を閲覧室の隅の台へ運んだ。アーベルもついてきた。
まず、給水申請の却下記録を照らした。
私の控えには、日付と「封鎖区内よりの給水申請、却下」としか書いていない。写したとき、それで足りると思ったのだ。
原本には、続きがあった。
申請の名義。封鎖区の住民を代表して願い出た者の名。井戸番の、テオ・ハルダーという男だった。貴族でも、役人でもない。地区の井戸を預かっていた、それだけの人だ。
申請の規模。「三十二世帯ぶん」。
三十二世帯。それが何人なのかは、この紙だけではわからない。数える枠と、記録される相手は別のものだと、ドルン女史に教わった。三十二という数字は、三十二人ではない。
そして末尾に、一行。
――上意により却下。
命令書の日付と番号が添えられていた。この却下を命じた紙が、別にあるということだった。
「却下の理由が、別の紙にあります」私は言って、折りたたまれた一通を開いた。
命令書は、読みにくかった。古い役所の言い回しが、節を重ねて続く。台帳の一行のように書式へ戻すこともできない。私は一文ずつ、時間をかけて読んだ。
読みながら、これを前にも読んだ、と気づいた。冬、実家で、叙爵の古い書類だと言われた束の中に、この一通があった。あのときの私は、退屈な事務文だと決めて、写しも取らずに戻した。今、同じ字を追っている。
書かれていたことは、三つ。
封鎖区への立ち入りと物資の搬入を、以後いっさい認めないこと。
封鎖区の住民を、周辺の各区へ「避難済み」として振り分け、記録すること。
この処置について、問い合わせには応じないこと。
二つ目の一文だけ、文法上、二通りに読めた。
一つは、「避難を記録せよ」。避難させて、それを書き留めよ。
もう一つは、「避難したものとして記録せよ」。避難していない者を、避難したことにして書け。
悪いほうの読みだと思った。けれど、これは私の家に関わる文書だ。都合のいい読み方も、いちばん悪い読み方も、私が一人で選んではいけない。根拠なしに訂正はしない――ドルン女史に教わったことを、私はここで使うことになった。
「レント様」私は命令書を差し出した。「この一文、私と同じに読めますか」
彼は受け取って、読んだ。目を、上から下へ、また上へと往復させていた。ずいぶん長いあいだ。
「文法だけなら、前の読み方もできます」やがて彼は言った。「でも、避難完了の翌日に、テオ・ハルダーが封鎖区の住民を代表して水を求めている。本当に避難が済んでいたなら、二つの記録が合いません」
少し間があった。
「『避難したものとして記録せよ』。そう読むべきです」
彼はすぐに紙を返さなかった。しばらく、動かなかった。私はそれを、彼にもこの文書が何なのかわかったのだ、と受け取った。
命令書は、上役の名で、上役の字で書かれていた。
けれど、その隣にあった対応表は、違った。
封鎖区の世帯に付随していた人数を、別の区の「避難者」へ移していく作業の、途中経過だった。対応表には、元の世帯番号と人数区分、それを移した先の地区だけが、線で結ばれていた。移し先で与えられた世帯番号も、名も書かれていなかった。一枚ずつ。線を引いて、書き足して、また線を引いて。私の家で使われてきた書式で、冬のあいだ何度も写した、見慣れた先祖の字だった。
「先祖の字だ」私は言った。「命じたのは上役でも、書き替えたのは、うちの人間だ」
アーベルが、何か言いかけた。息を吸う音がして、それきり、言葉は出てこなかった。
部屋は静かだった。彼はその静けさを、埋めなかった。
その字を、読みやすいと思っていた。線の幅が揃い、世帯番号が欄からはみ出さない。人を消す作業にも、その几帳面さは使われていた。
私は紙を一枚引き寄せて、書き出した。世帯台帳。地区の人の出入りの記録。「避難者」にされた三十二世帯を、他区の名簿から一人ずつ拾い直すための、対照表。
私が書き終わるまで待って、アーベルが訊いた。
「何から」
「世帯台帳です」私は言った。「三十二世帯が、本当は何人だったのか。テオ・ハルダーが、誰の代わりに水を求めたのか」
もともと、遅い時刻に開けた原本だった。調べるものを書き出しているうちに、閲覧室は灯りの要る暗さになっていた。
命令書をたたんで返しながら、アーベルが指先を握り込んだ。
「寒いんですか」
「いいえ」
部屋は、さっきまでと同じ温度だった。
「上着は要りますか」
「いりません」
「そう言うと思いました」
彼は返事をしなかった。かわりに、閲覧室の戸を開けて、私を先に通した。
外の通りで別れた。歩きながら、私は、握り込まれた指のことを、頭の隅に書き留めた。
理由は、まだつけられなかった。




