日没のあと
儀式の翌日。記念祭まで、あと二日。
命令書の非接触検査を、もう一度行った。前回と同じ手順、同じ規格の未使用検査紙、同じ立会人の構成で。開かず、触れず、術式反応だけを検査紙へ移す。比較できるよう、前回の検査記録も横に置いた。
正式な立会いは、前回と同じく、マルタ、ドルン女史、館長、私。アーベルは、接続を受けた当事者として同席した。ドルン女史が、保存箱から命令書を取り出し、封の状態を確認してから、検査枠へ収めた。私も、アーベルも、原本には触れない位置に立った。
前回、灰色の線として現れた場所――地区名、処置命令、署名を結ぶ位置。そこに、今回は何も現れなかった。
「この検査で拾える接続は、現在、検出されません」マルタは言った。
「命令書は安全になった」とは言わなかった。「誰が読んでもいい」とも。本文閲覧禁止と二重封印は、装置の契約が終わるまで、そのまま続ける。
取扱票には、前回の記録を消さずに書き足した。初回検査、術式反応あり。終祭後の再検査、同一手順で反応なし。本文閲覧禁止は継続。最終判断は、時間復元契約の終了後。
「検出されない、というのは」私は訊いた。「消えた、とは違うんですか」
「違います」マルタは言った。「この検査で拾える範囲に、今はない。それだけです。拾えない接続まで否定はできません」
これで確かめられたのは、呪い側の接続が閉じた可能性が高い、というところまでだった。
儀式の夜から、記念祭の朝まで、私は夢を見なかった。アーベルにも、寒気も、覚醒中の叩音も、歩行の異常も出なかった。
何も起きなかったことだけでは、治ったとは言えない。私たちは、日付ごとに「症状なし」と記録した。
アーベルは、症状があるときだけでなく、ないときも、同じ書式で記録を出した。
「書くことがない日も、書きます」彼は言った。「ないことも、記録のうちだと、あなたに教わりました」
日付ごとの記録票に、同じ「なし」が並んだ。
私は、調査控えの三欄を更新した。確認済み――命令書から、同一検査で反応が出なかった。証言――二人とも、終祭後の夢・寒気・叩音を確認していない。推測――終祭により、命令書を接続点とする術式が閉じた可能性。
推測を、確認済みへは動かさなかった。並んだ「なし」は、まだ、並んだ日数ぶんの「なし」でしかなかった。
記念祭の日が来た。
街には、避難完了を祝う飾りと、鐘の準備があった。露店が並び、子どもたちが旗を持って走っていた。九十年前の虚偽を祝う祭りは、まだ表向きには変わっていない。
一方、文書館と神殿には、二百人の未帰還者、偽の避難先と訂正根拠、終祭の完了、命令書が終祭後の同一検査で反応を示さなかったことが、それぞれ管理番号と作成者のある記録として残っていた。
今日、それを公にするつもりはなかった。誰に、どう伝えるかは、まだ決めていない。今日の目的は、二人が生きて日没を越えることだけだった。
朝、私は母への手紙を書いた。
――母さま。今日は、私が二十二回死んだ日です。
そこまで書いて、たたまなかった。日没のあとに続きを書くことにして、机の上へ置いた。
日没を待つ場所は、宝物庫に隣接する検査室にした。窓が一つあり、椅子と机のほかは、何もない部屋だった。遺物へ触れず、日没の前後で同じ検査枠を使い、契約の状態を確認できる。
宝物庫の管理者が、遺物を番号付きの収納箱に収めたまま検査室へ運び、搬出時刻と検査目的を使用簿へ記した。検査後は、同じ管理者が戻すことになっていた。
検査室に入ったのは、私、アーベル、マルタ、宝物庫の管理者、カヤだった。ヨナスは、弔いの役目をすでに終えていた。
カヤが、私とアーベルの状態を確かめた。
「夢、寒気、叩音は」
「ありません」私は言った。
「歩行の異常は」
「ありません」
カヤは、アーベルにも同じ二つを尋ねた。彼の答えも、同じだった。
マルタは、装置の契約状態を確かめる係だった。役割は、儀式のときと同じ形で分かれていた。
私とアーベルが、前回と同じ順で一人ずつ検査枠の前に立った。マルタは、新しい検査紙を使い、それぞれ二度ずつ反応を確かめた。
日没の直前、マルタが検査を行った。契約は継続中。保護対象――リーゼ・マイヤー。操作者――アーベル・レント。実行回数――二十二。判定期限――本日の日没。
儀式が成功していたとしても、この時点で、契約はまだ終わっていなかった。窓の外の光が、少しずつ橙に変わっていく。
二人で、椅子に座った。火も、段差も、避けられる危険は取り除いてあった。それでも、日没そのものは、止められなかった。
二十二回、この刻に、彼は私を失ってきた。今回は、同じ部屋で、椅子を並べて待っている。それだけで、これまでとは違う周だった。
アーベルは、私の呼吸と手を見ていた。けれど、私が求めるまでは触れなかった。カヤも、マルタも、口を挟まなかった。
「手を貸してください」私は言った。
彼が、私の手に自分の手を重ねた。私は、その指を握った。支えるためでも、運ぶためでもない。ただ、同じ時刻を待つための手だった。
カヤとマルタは、部屋の隅で、それぞれの記録紙を持ったまま、静かに立っていた。声をかけてくることはなかった。窓の光は、もう橙から、赤に近づいていた。
外で、記念祭の鐘が鳴り始めた。一打ごとに、何かを思い出すことはしなかった。過去の周を数える代わりに、私はアーベルの顔だけを見ていた。彼の指は、机の縁を叩いていなかった。
日没を告げる鐘が鳴った。
音が途切れても、私は意識を失わなかった。呼吸は止まらなかった。アーベルも、そこにいた。
そのあと、祭りを続ける次の鐘が鳴った。
私は、その音を初めて聞いた。
アーベルの手は、まだ私の手の中にあった。時間は、戻らなかった。
日没を越えてから、マルタが、もう一度検査した。宝物庫の管理者も、立ち会ったまま確認した。私とアーベルは、日没前と同じ順で検査枠の前に立ち、別の未使用検査紙で、同じ手順を繰り返した。
検査紙に伸びていた、保護対象と操作者への継続中の線が、消えていた。契約状態――完了。実行回数――二十二のまま。二十三回目の復元記録は、なかった。
完了した契約の履歴と、二十二回の実行記録は残っていた。消えたのは、保護対象と操作者へ伸びていた生存接続の線だった。
「判定期限を越えました」マルタは言った。「契約は終了しています。復元実行回数は、二十二のままです」
接続板の修復は、まだ行わなかった。今日、確かめられたのは、契約が終わったこと、正式な修復計画へ進める状態になったこと、そこまでだった。
アーベルは、検査紙をしばらく見ていた。二十二という数字は、もう増えなかった。彼が、それを声に出すことはなかった。
検査室を出ると、外はもう暗かった。祭りの鐘は、まだ遠くで鳴っていた。
「明日も、会いに来ていいですか」
先に訊かれた。
「来てください」私は言った。「明日の私は、まだ誰の記録にもありませんから」
宝物庫の記録には、契約終了の時刻が書かれた。
調査控えには、二人とも生存、と書いた。
部屋へ戻り、机に残した朝の手紙を引き寄せた。母さま、今日は、私が二十二回死んだ日です。そこまでの一行の続きを、私は書いた。
――二十三回目の死は、来ませんでした。
日没のあとにも、時間は続いていた。




