弔う側
記念祭まで、あと三日。
外壁へ向かう前、マルタと宝物庫の管理者が、遺物を同じ検査枠で二度確認した。契約は継続中だった。承認書に定められた、実施前の確認だった。
静区外周の指定地点に、五人が立った。壁の内側、旧市街図と入区時の記録では、少し先に井戸へ通じる二又がある。私は、図上の位置と対応する境界標を確かめた。壁の向こうは、ここからは見えなかった。
私は呼び手として、認証副本を持った。ヨナスは執行司祭。マルタは祭式と境界の監督。カヤは身体と現場の安全。アーベルは護衛で、退避の順を自分の判断だけで変えることは、彼にも禁じられていた。救護隊の待機要員は、退避先に置いた。観衆は入れなかった。
風の音のほかは、何もなかった。壁は、いつもと同じ高さで立っていた。
王都へ来たばかりの私は、この壁の内側で何が起きたかを知らなかった。今は、その内側にいた二百人の名を、一人ずつ言うために立っていた。弔われずにいた者を探す側から、弔う側へ。立つ位置が変わっただけだ、とは思わなかった。
開始前に、認証副本の管理番号、頁数、封、弔籍、承認書、承認書の実施条件、参加者を、一つずつ照合した。持参したのは、あらかじめ確認済みの認証副本だけで、原本はなかった。
認証副本には、二百六人ぶんの行があった。区域外での生存を確認した六人には、読み上げ対象外の印がついていた。残る二百人には、補表と対応する人物番号が振られていた。対象二百人、除外六人。その数も、開始前に確かめた。
カヤが、私とアーベルの状態を確かめた。
「寒気は」
「今のところ、ありません」私は言った。
アーベルは、隠さなかった。「寒気はあります。ただ、叩音はありません。足元の揺れもありません」
「立てますか」カヤが、私にも訊いた。
「立てます」
「途中で変わったら、すぐ言ってください。今の答えを覚えておきます」
カヤが言った。「身体は、開始可」
マルタが言った。「境界も、開始可」
どちらも、アーベル自身には判断させなかった。「大丈夫です」と、彼に言わせる場面は、なかった。
認証副本は、複数頁にわたっていた。頁をめくる動作そのものを、正式な祭式手順に含めた。
各頁の末尾で、私はマルタとカヤを見る。マルタは、境界と祭式が続けられるならうなずく。カヤは、身体と現場が続けられるならうなずく。どちらかが止める仕草を見せれば、そこで終わる。再開するときは、一人目からになる。
アーベルは、この判断に口を挟まないことになっていた。
ヨナスが、祭式を始めた。マルタは、聖別境界の状態を記録し続けた。
私が読むのは、名前と、本来の所属だけだった。偽の避難先も、隠蔽の経緯も、読まなかった。ここは、告発の場ではない。弔籍を結び直す場だった。
「テオ・ハルダー。南外区第三、井戸番」
「受けます」ヨナスが言った。
「ヤーコプ・ラング。南外区第三、テオ・ハルダー方、住込助手」
「受けます」
ヤーコプは、氏名未確認だった十二人のうち、最初に読んだ名だった。認証副本には、元の「助手一名」という記載も訂正履歴として残っていた。けれど、声にしたのは、照合で確かめた名と、本来の所属だけだった。
「マレン・ハルダー。南外区第三、テオ・ハルダー妻」
「受けます」
テオ・ハルダーの子ら二人の名も、続けて読んだ。ヨナスは、そのたびに同じ調子で「受けます」と答えた。急がず、飛ばさず、一人多い分だけ、時間をかけて。
その先は、名と所属を読み、ヨナスが受け、頁の末尾でマルタとカヤがうなずく、という繰り返しに移った。読む順は、対照表の頁順のままにした。誰を先に、誰をあとに読むかを、私たちが選ばないためだった。
名を読み進めるにつれ、寒気が近づいた。遠くで、二つずつの音がした。声も、姿も、なかった。壁の向こうから何かが応えている、というより、こちら側の空気が少しずつ冷えていく感じに近かった。
頁の切れ目で、私は事実だけを申告した。
「寒気があります。行は追えます。立てます」
カヤが、姿勢と呼吸と受け答えを確かめた。マルタが、境界を確かめた。二人とも、続行の合図を出した。
寒気そのものは、止める条件ではなかった。応答できなくなる、行を追えなくなる、立っていられなくなる。そこへは、まだ届いていなかった。
アーベルは、私を止めようとしなかった。退避の配置も、崩さなかった。一度、手を伸ばしかけて、自分で止めた。
頁の切れ目ごとに、カヤは、アーベルの歩行と受け答えも確かめた。尋ねられる前に、彼が言った。
「叩音なし。足元の揺れなし」
それも、繰り返した。
奉公人、住み込み職人、間借り人。台帳の呼び方は違っても、読む手順は同じだった。頁がめくられるたびに、読み残した名の数が、少しずつ減っていく。日は高いところから、少しずつ傾いた。誰も、途中で休もうとは言わなかった。
百人を越えたあたりで、寒気が一段強くなった。私は、それも隠さずに言った。
「前より強いです。それでも、行は追えます。立てます」
「声は」カヤが訊いた。
「震えていません」
カヤは、しばらく私の受け答えを見てから、続行の合図を出した。マルタも、境界に続行を妨げる異常はないと言った。
同じ頁の末尾で、カヤはアーベルにも、いつもより長く時間をかけて確かめた。彼の返答は、変わらなかった。
「叩音なし。足元の揺れなし」
頁を進むあいだに、かつて氏名未確認だった者たちの名も、一人ずつ現れた。十二人だけを一か所へ集めては読まなかった。ヤーコプはテオの世帯で、引取児は引取先の家で、奉公人は働いていた家で呼んだ。それが、対照表で結び直した位置だった。
パウル・ヴェンダー。グレータ・ジーバー。エルミーネ・フォークト。ヨハン・ライナー。マティス・ホルト。アンナ・プファイファー。ローデ・ヴィンター。クルト・アルブレヒト。ゾフィー・ラーム。ベネディクト・ハーン。トーニ・エッガー。それぞれを、本来の家か教区とともに読んだ。
トーニ・エッガーを読んだところで、氏名未確認だった十二人は全員、名で呼ばれた。けれど、認証副本には、まだ読むべき名が続いていた。
二百人目の名を読んだ。声は、最初の一人と、変わらない大きさだった。
ヨナスが、最後の名を弔籍へ受けた。認証副本で読み上げ対象とされた人数、弔籍に記された受入数、マルタの祭式記録に残る読み上げ数。三つとも、二百だった。認証副本の頁数と封にも、開始前からの変化はなかった。感情だけで「全員いる」とは判断しなかった。数として、合わせた。
マルタが境界を検査し、「弔われぬ死者の儀」が完了したことを確認した。その結果を受けて、通常の終祭工程へ進んだ。ヨナスが、弔籍に受けていない名はないこと、読み違いの申告もないことを確認した。マルタは、境界に終祭を妨げる異常がないことを、自分の検査記録で確かめた。その二つがそろってから、ヨナスが終祭を執行した。マルタは、境界聖別の終了を確認し、その時刻を記録した。
解除されたのは、神殿の聖別境界だった。市の物理的な壁も、封鎖の措置も、そのまま残った。壁を壊す儀式ではない。名を返す儀式だった。
確定したのは、二つだけだった。二百人が、弔籍へ受けられたこと。九十年間未了だった終祭が、完了したこと。
呪いが解けたとは、まだ確定しなかった。
祭式のあと、私の寒気は引いた。アーベルも、その時点では、叩音を聞いていないと言った。
聞こえないことを、消えたことにはしなかった。
「祭式と終祭は完了しました」マルタは言った。「術式の接続が消えたかは、命令書を再検査して確かめます」
アーベルは、認証副本を閉じる私の手元を見ていた。
「お疲れさまでした」
声は低かった。それ以上の言葉には、まだならなかった。
ヨナスは、弔籍の末尾に、受け入れた人数を書いた。二百名。
マルタは、境界の検査記録を、処理簿へ綴じた。
壁は、変わらず立っていた。市の封鎖まで解かれたわけではない。
それでも、九十年間空いていた欄は、もう残っていなかった。
境界を離れるとき、日はすでに傾いて、空の端が赤くなりかけていた。カヤが先に立ち、定めていた経路を、来たときと同じ順で戻った。アーベルは、最後まで振り返らなかった。
神殿へ戻ると、マルタと宝物庫の管理者は、同じ検査枠で再び二度確認した。契約の状態に、変化はなかった。
私たちについて確かめる日は、まだ三日先にあった。
記念祭まで、あと三日。




