名と、いた場所
入区の翌日。記念祭まで、あと十七日。
マルタが、読む予定の申告札を一枚ずつ検査した。この検査で拾える術式反応は、出なかった。三十二世帯分の外箱表示と、中の世帯別小束を照合し、欠けた小束や、別の世帯の札が混ざっていないかも確かめた。
十二人について、新しい確認欄を作った。申告札に記された名または呼び名。封鎖当日の所属世帯。外部資料。外部資料との一致点。氏名確認の状態。
「一枚の札だけでは、確定しないわ」ドルン女史が言った。「同じ名前を見つけるのではなく、同じ人だと確かめるのよ」
別系列の資料と、少なくとも二項目――登録番号、年齢、雇用主、引取先など――が一致して、初めて氏名を確定する。それが、この作業の基準になった。似た名前だから、近い年齢だから、というだけでは、まだ足りない。
ヤーコプから始めた。申告札の「ヤーコプ」「十七歳」「テオ・ハルダー方、住込助手」、そして雇用届番号らしきものを、雇用届と照合した。
番号は、正式な雇用届番号だった。雇用届には、姓名、年齢、雇用主、元の教区がある。申告札の内容と、一致した。
ヤーコプ・ラング。十七歳。南外区第三、井戸番テオ・ハルダー方。
「申告名、ヤーコプ」は、ここで初めて、正式な氏名へ進んだ。氏名確認欄に、一致した資料の名を、二つとも書いた。生存記録は、まだ空欄のままだった。確認できたのは、封鎖当日に、誰として、どこにいたか、そこまでだった。
作業を分担した。館員二人は、雇用届、組合登録、配給簿、後年の人頭記録。ヨナスは、教区で洗礼簿、扶養記録、教区間の引取記録を照合し、巻、頁、記載番号を付した署名入りの抄本を作った。アーベルは、館が発行し封をした照会書を届け、受領控えと回答を持ち帰った。本文の照合や氏名確定には加わらない役割だった。私は、一致点を確認し、対照表へまとめる係。ドルン女史は、判断の過程と根拠資料が、あとから追えるかを検証した。
担当者は、全部を一人でやる人ではない。前に教わったことを、今度は実際に使う番だった。誰がどこを確かめたかが、あとから追える形さえ守れば、手を借りることは、調べる力を弱めなかった。
奉公人は、雇用届番号と雇用主、年齢が、賃金受領簿と一致した。住み込み職人は、組合員番号と所属世帯が、冬季燃料の割当簿につながった。間借り人は、配給簿と寝具割当簿で、世帯番号と年齢、職業が一致した。
最後の引取児は、申告札の世帯番号は読めたが、子本人については呼び名と推定年齢しか残っていなかった。その世帯番号と、教区の扶養記録にある引取先の世帯番号が一致し、その家に引き取られた該当年齢の子は、記録の上で一人だけだった。扶養記録には、洗礼簿の巻と記載番号も書かれていて、その番号から、正式な名と元の教区を確認した。呼び名と年齢が一致するだけでは、同名の別人を排除できない。世帯番号の対応と、洗礼簿の番号という、動かない二点があって、初めて一人に戻った。
十二の名を、対照表の上から順に読んだ。
ヤーコプ・ラング。パウル・ヴェンダー。グレータ・ジーバー。エルミーネ・フォークト。ヨハン・ライナー。マティス・ホルト。アンナ・プファイファー。ローデ・ヴィンター。クルト・アルブレヒト。ゾフィー・ラーム。ベネディクト・ハーン。トーニ・エッガー。
助手、奉公人、引取児、間借り人。台帳でそう呼ばれていた者たちは、別々の名を持っていた。
名前を並べただけで、その人たちを知ったことにはならない。それでも、もう「十二人」とだけ数える必要はなかった。
対応表に残っていたのは、元の世帯番号と人数区分、それを移した先の地区までだった。移し先の世帯番号も、名もなかった。
十二人の名が分かった今なら、名の側から避難者名簿を引ける。ヤーコプ・ラングの名を、対応表が示す南の区で探した。そこでは、井戸番の助手ではなく、一人世帯の世帯主として記載されていた。ほかの十一人も同じだった。元の台帳では誰かの世帯に含まれ、避難者名簿では一人ずつ別の世帯にされていた。
名前が違ったのではない。名前を入れる枠が違っていた。だから、これまでの照合では線がつながらなかった。
行政側の記録には、十二人の名も、本来の所属から切り離した処理も、別々に残っていた。その対応を、神殿へは渡さなかったのだ。
新しい対照表には、偽の避難先、偽記録上の所属・世帯区分、封鎖当日の本来の所属、訂正の根拠を、それぞれ書き足した。
十二人の氏名と所属が埋まり、封鎖当日に静区の内側にいた二百六人全員を、名前か、当時使われていた名で追える状態になった。新しい対照表から、「氏名未確認」の記載がなくなった。
並行して進めていた後年記録の照合では、六人だけが、別地区での暮らしを示す記録につながった。避難者名簿に載っているだけではなかった。翌年以降の人頭記録に加え、納税、雇用、婚姻、子の洗礼など、本人がその地区で暮らしていなければ生じない記録が、別の日付で二つ以上重なった。避難済みと書かれているからではなく、避難後にも生きていたことを確かめられたから、六人を除外した。
六人は、もともと名のあった百九十四人の側にいた。百九十四から六を引いた百八十八人と、今回名を取り戻した十二人。合わせて、二百人。
給水記録からわかったのは、告示のあとも水が送られていたことまでだった。三十二世帯という申請からも、人数は出せなかった。二百六人を一人ずつ追い、区域外で生きていた六人を除いて、初めて残った数が、二百だった。二百人が静区で死亡した、と一行で断定するには、まだ足りない。
その日から四日かけた作業のあいだ、アーベルは、覚醒中の叩音を一度申告し、自分から席を外した。戻ると、記録票を提出した。私は受け取り、三欄の控えへ挟んだ。
四日のあいだ、彼は倒れなかった。ただ、記念祭までの日数は減り、症状記録は一枚増えた。残り十四日という数字と、新しい記録票が、同じ机の上にあった。
新しい対照表には、元の記載を消さずに並べた。
元の欄には、「助手一名」「奉公人一名」「引取児一名」などの記載を残した。その隣には、十二人それぞれの名と、封鎖当日にいた家か教区、そして偽の避難者名簿で与えられていた誤った所属を並べた。
二百六人のうち、後年の生存記録へ線がつながった者は、六人。線が静区の内側で止まった者は、二百人。
今は、二百人ぶんの行が、それぞれの名を持ったまま、封鎖後の生存記録へつながらずに止まっている。
記念祭まで、あと十四日。




