弔われぬ側
その日の仕事を始める前に、私はドルン女史に確かめた。
「あの命令書を開けたとき、どこまで読みましたか」
「日付、署名、印。本文は読んでいないわ」
「寒気や、変わった夢は」
「ない。どうして」
私は、あの文書を読んだ二人に、重なる症状が出ている、とだけ話した。呪いだとは言わなかった。ただ、安全が確かめられるまで、原文と翻刻の意味を照らす作業は止めたい、と頼んだ。
「根拠は、まだ推測ね」
「はい。ただ、間違っていた場合より、正しかった場合の損害のほうが大きい」
ドルン女史は、命令書を封のできる保存箱へ戻した。閲覧記録をつけ、当面は新しい者に本文を読ませない、と決めた。翻刻には、「作成者による仮翻刻・原文との意味照合は未了」と書き添えた。
症状のことは、それ以上詮索しなかった。ドルン女史に寒気も夢もない、というのは、今のところ、私たちの持っている数少ない手掛かりの一つだった。少なくとも、原本を開いて認証点をあらためただけでは、彼女には何も起きていない。触れるだけで必ず起きるものではないのかもしれない。ただ、一人の例だけでは、そこまでしか言えなかった。
その日の終業後、私たちは貧民街へ行った。記念祭まで、あと四十八日。前の日に新しい手順を決めて、翌日には次の相手を訪ねられた。少なくとも、紙だけ作って満足はしていない。
教会は、静区の壁から、通りをひとつ隔てたところにあった。小さくて、石が古い。あの壁のそばに来るのは、外周の設備を確かめに行って以来だった。板でふさがれた小窓の跡は、こちら側からも同じように見えた。昼のうちに、訪ねたいと使いを立てておいた。
中に入ると、焦げた匂いがした。奥の竈で、何かを黒くしたらしい。
ヨナス・ケルバーは、その匂いの中で、寝台の老人に水を飲ませていた。四十をいくつか過ぎた男だった。私たちを見て、「少し待ってください」と言い、老人の口もとを拭いてから、こちらを向いた。
「文書館の方だと、言付けが」
「照合係のリーゼ・マイヤーです。今月の教区簿の受入確認を、私がしました」
「では、あの書き方に、何か」
「規定では『身元不明者一名』で足ります。あなたは、通称も、年頃も、埋めた場所も書いていました。理由をうかがいたくて」
ヨナスは、少し考えた。
「あとから捜しに来る人がいるんです」やがて彼は言った。「息子が帰らない、姉が出ていったきりだ、と。名前がわからなくても、呼ばれていた名と、年頃と、どこに埋めたかがあれば、『その人かもしれません』と答えられる。『わかりません』としか言えないのは、こたえます」
連れのことを、私は「レント様。王都騎士団の」と紹介した。アーベルは、戸口の近くに立ったまま、会釈した。
「静区のことで、うかがいたいことがあります」私は言った。
「静区」ヨナスの声が、少し低くなった。「あそこのことは、話せる人が少ない」
「以前、神殿には相談しました」アーベルが言った。
「どなたに」
「中央の、記録局です」
「では、弔いをする人間には、話していませんね」ヨナスは言った。「記録局と、弔いをする者は、別の建物にいます」
私は、持ってきたものを机に並べた。普通紙の翻刻。夢と、寒気の、日付つきの記録。原本の紙質と、押された印の形を書き写した紙。
「原本は、持ってきていません」
「賢明です」ヨナスは翻刻を手に取った。
アーベルが、夢のことを話した。両側から壁の迫る路地。突き当たりの手前で、道が二つに割れる。分かれ目に、蓋をした井戸。誰かが板を、二つずつ、間を置いて叩いている。
「それは、いつからですか。お二人、それぞれ」
「私は、王都へ来る前から」
「俺は、その翻刻のもとを読んだ夜からです」
ヨナスが読んでいる途中で、寝台の老人が名前を呼んだ。彼は「はい」と答えて立ち、棚から蜜の壺を下ろし、白湯に溶いて飲ませた。それから、何事もなかったように戻ってきて、翻刻の続きを読んだ。詫びも、説明もなかった。教区簿の書き方と、同じ手つきだった。
「翻刻だけでは、断定できません」やがて彼は言った。「原本の本文を読まずに、紙や墨に術式があるかを調べる方法が要ります。私一人ではできませんが、中央になら、それができる者がいる」
私は、それを書いた。
「言えることは、いくつかあります」ヨナスは続けた。「まず、同じ夢を見ている。それだけなら、術式の証拠にはなりません」
「なぜですか」
「レント様は、ご自分が夢を見る前に、あなたから内容を聞いている。聞いたものが夢に出た可能性を、まだ除けない」
私は、それも書き足した。
「ただ、原本を読んだ夜から始まって、寒気も同じ時期に出た。その順序には、調べる価値があります。文書を通して働く術式だという可能性はある」
「九十年前に取り残された者が、この夢に関わっている――そう、お考えなんですね」
「可能性として」私は言った。
「なら、もう一つ、分けて考えてください。死者に由来する現象でも、死者自身が望んで起こしているとは限りません。生きた者の術式に縛られて、使われている、ということがあります」
「私たちに、何が起きているかは」
「まだ、わかりません」彼は言った。「ただ、三人目を増やして確かめることだけは、してはいけない。その原本を、新しい人に読ませないように」
「調べるには」私は訊いた。
「赤斑病のころ、防疫で閉じる区画には、神殿が境を聖別する決まりがありました。病だけでなく、死者や穢れを、外へ出さないためです」ヨナスは言った。「静区にも、それはされたはずです。どんな術式だったかは、封鎖時の聖別の記録と、当時の弔いの作法を、照らさないとわかりません」
「その記録は」
「中央にあります」ヨナスは、少し口ごもった。「借りるなら、まず神殿の中の手順で確かめたい。私一人で、すぐに出せるものではありません」
私は、書いたことを読み返した。翻刻では断定できない。文書を通して働く術式かもしれない。死者が出ても、死者が術者とは限らない。封鎖時の聖別の記録がいる。
立ち上がろうとしたとき、ヨナスが訊いた。
「その夢の中で、あなたがたは、壁の外にいるのですか」
私は、答えようとして、口を閉じた。
一度も、確かめたことがなかった。




