彼の証言
その晩、宿の部屋で、私は母への手紙を書いた。
母は、私がまだ子どものころに死んだ。以来、私はときどき、出さない手紙を書く。書いて、たたんで、束のいちばん下に入れる。読み返しはしない。
今日は、事実から書いた。
――騎士のレント様が、私は二十二回死んだと言いました。証明はできません。でも、これまで彼の言ったことは、全部当たっています。
そこまで書いて、ペンが止まった。
家に残っている母は、マイヤー男爵の妻で、三人の娘の母だ。それだけだった。母が、告示の立て札に小声で文句をつける人で、知らない言葉を見つけると辞書を引く人だったことを、書き残そうとしているのは、たぶん私だけだ。父も姉たちも、そういう母を、覚えていないわけではない。ただ、書き留めてはいない。
二十二人の私を覚えているのも、彼一人だ。
誰か一人の頭の中にしかない人生、というものが、急に、こわくなった。手紙には、そのことを書いた。声に出しては言えなかったし、対照表の欄にも入らなかった。
書き終えて、たたんで、束の下へ入れた。明日からは、事実として扱う。確かめられる分だけ、確かめる。
翌日、私はまず、いつもの仕事をした。今月届いた教区簿の受入確認。外装、綴じ、記載の様式をあらためる。
静区に隣接する教区の簿が、ひとつ、様式から外れていた。規定では「身元不明者一名」と書けば済む欄に、その教区の司祭は、聞き取った通称、推定した年齢、埋葬した場所まで書き入れていた。一人ずつ。
署名は、ヨナス・ケルバー。壁のそばの貧民街を受け持つ司祭だ、と目録にあった。
私は、そのことを頭の隅に留めて、確認を終えた。
終業後、閲覧室で、私は罫を引いた紙をアーベルの前に置いた。欄は三つ。確認済みの事実。彼の証言。現時点の推測。
「あなたの知っていることを、この三つに分けます」
「全部、本当のことです」彼は言った。
「本当かどうかではなく、私が確かめられるかどうかで分けています」私は言った。「確かめられないことを、確かめたことにしないためです」
彼は、しばらく紙を見ていた。自分の五年半が、真ん中の細い欄に移されていくのを、見ているのだとわかった。それでも、彼は「わかりました」と言った。
確認済みの欄には、この周で確かめたことだけを書いた。私の夢は、王都へ来る前から続いている。命令書を読んだ夕方、彼が指を握り込むのを見た。そのとき部屋は寒くなかった。彼が打った拍子は、私の夢の拍子と一致した。命令書と対応表に、救援の拒否と、記録の改竄が残っている。
証言の欄は、彼に書かせた。命令書を読んだ夜から、彼も同じ夢を見ていて、そのころから寒気がする。現在は二十三周目。過去二十二周で、私は記念祭の日没に死んだ。移住した周でも、治療を受けた周でも、その日時は動かなかった。静区について神殿へ相談したが、記録の開示も、調査への協力も得られなかった。
「ここ、直します」彼はそう言って、「治療を受けた周」の下に、細く書き足した。「相談した薬師の診察と、受けた治癒師の施術。全部を試したわけではないので」
以前、彼の一覧を受け取ったとき、私が言ったのと同じ区別だった。試した方法と、試していない方法は、別だ。彼は、証言の欄の下に、自分の名を書いた。
訊いておくべきことが、もう一つあった。
「私は、どう死んだんですか」
彼は、少しだけ間を置いた。
「同じではありません。部屋から一歩も出さなかった周は、日没に意識を失って、そのまま呼吸が止まりました。移動中に、転落した周もあります。火事に巻き込まれた周も。場所と状況が変われば、死に方も変わりました。ただ、時刻だけは、同じでした」
「その前に、何か」
「俺がそばにいた周では、寒い、と言いました。遠くで、二つずつ音がする、と。日没の直前までは、話せました」
「毎回、そばにいたんですか」
彼が答えるまでに、少し時間がかかった。
「いいえ」
私は、証言の欄に二行足した。見届けた周では、寒気と、二つずつの音と、日没での意識の途切れがあった。死の外形は、周によって違う。
推測の欄には、四つ書いた。呪い、あるいは古い術式かもしれない。原本を読むことと、症状に関係があるかもしれない。静区の死者と、夢に関係があるかもしれない。そして、いまアーベルに出ている寒気と拍子が、彼がこれまで見てきた前触れと、同じものかもしれない。
「過去周は、どこまで行きましたか」私は訊いた。
「治療と移住は、早い周で。神殿への相談も。それから、俺一人で、公開の記録を調べました。避難完了の告示が怪しい、というところまでは行った」彼は言った。「非公開区画には、一度も入れていません」
私は、対照表と、実家の私文書のことを考えた。
「今回は、もう、そのどれより先にいます」
「はい」彼は言った。少し、間があった。「二十二回、どこにも届かなかった場所です」
「一つ、決めておきたいことがあります」私は続けた。「過去の私から、今回の私を予測しないでください」
「では、過去に同じことがあっても、黙っていたほうがいいですか」
「いいえ。推測だと明記して、教えてください」
「『前はこうだった』まで」
「はい。『だから、こうしろ』はなしです」
彼が、短く息で笑った。声には出さない笑い方だった。「五年半、誰にもそんな言い方をされたことはありません」
彼はうなずいた。私は、三欄の紙のいちばん上に、それを書いた。過去の記憶を封じない。事実と証言と推測を分ける。命令には、使わない。
「症状のことです」私は言った。「二人とも、古い原本を読んだあとから、同じ夢を見ている。あなたには、寒気も出た。体の病だけでは、説明がつきにくい。古い術式が関わっていないか、まず安全な方法で調べます」
「それは、神殿の領分です」彼は言った。「そして、神殿は行き止まりです。俺が、それを知っています」
「神殿という組織と、そこにいる一人の人間は、別です」私は言った。
私は、今朝の教区簿のことを話した。規則が求めていない名前を、一人ずつ書き入れる司祭がいる。組織より先に、一人の死者を見る人らしい。
「古い弔いの作法について、相談する価値はあります。術式を読めるかどうかは、会えばわかります」
「神殿の人間ですよ」
「教区簿に、規則が求めない名前を書く人です」私は言った。「私たちの探している人かどうかは、会ってみないと」
持っていくものも決めた。普通紙の翻刻。夢と寒気の記録。原本の紙質と印の説明。原本そのものは、持っていかない。あなたが命令書で症状を得たのなら、同じことを、初対面の相手にさせるわけにはいかない。
最初に頼むのは、一つだけ。こういう症状を起こす術式が、あるのかどうか。あるなら、原本に触れずに調べる方法があるかどうか。
これは館の業務記録には綴じない。私個人の調査控えとして、封筒へ入れることにした。
紙の下に、私の名を書いた。
その隣へ、アーベルが自分の名を書いた。
これまで彼の中にしかなかった五年半に、初めて、二人分の筆跡が並んだ。
期限――記念祭の日没まで、あと四十九日。




