前夜
看板は小さい。ジョンソン宇宙センターから10キロほど離れた、ベレールの裏通りにある赤レンガの建物の扉の上に取り付けられている。二つの名前が並んでいる。トビーノ。スミエ。二つの間に、ヘイズが歩道からの距離では識別できない小さなシンボル ― パスタの様式化かもしれないし、日本語の音節かもしれない。彼は近づく。垂直な線で二分された円だ。半分はオーカー色、もう半分は白。
午後7時50分。彼を運んできた業務用車両は2分前に走り去った。23時に迎えに来るよう指示してある。彼は最初に到着したいと頼んでいた。実際に最初である。他の5人は別々に到着する ― 警備上の取り決めで、打ち上げまで公の場所への集団到着は禁じられている。
扉を押す。頭上で小さな金属の鈴が、軽く鳴る。中は暖かい光、十数卓のテーブル、クリーム色の壁。壁には40センチ離して二つのものが掛けられている。左に北斎の版画、神奈川沖浪裏 ― ヘイズはその有名な絵だけは見覚えがある。右にトスカーナの田園の写真、孤独な糸杉の下のひまわり畑。
カウンターの後ろにいる男はイタリア人だ。50代前半、ごま塩の髪、白いエプロン、片手をレジに置いている。ヘイズが入ってくるのを見て、控えめに微笑む。
(英語で)
「コロネル。早いですね。」
「こんばんは、トビーノさん。」
「マルコ、と呼んでください。妻は奥にいます。奥の個室を用意してあります。それまでに何か召し上がりますか?」
「水だけで結構です。」
トビーノは主室を抜けてヘイズを案内する。客の入っているテーブルは少ない。黙々と食事をしている老夫婦。3人の若いエンジニア ― ヘイズは彼らがテーブルの上に外して置いているJSCのバッジから誰か判別する。本を読みながら一人で食事をしている女性。誰もヘイズを見ない。ヘイズはそれに気づく ― トビーノが恐らく店内の客に事前に知らせて、控えめにするよう頼んだのだろう。あるいはそうでないかもしれない。ヒューストンは、ただ単に人が振り向かない街なのかもしれない。
奥の個室は小さな部屋だ。6人がけ、濃い色の木の長方形のテーブル。テーブルの上に和紙の提灯、明かりは弱めにされている。砂色の壁。装飾は一つだけ ― 壁にくぼみが切られていて、その中に松の小枝が一本置いてある。ヘイズは松を1秒間見る。理解しないが、理解する必要がないことは理解する。扉から最も遠い側、テーブルの上座に座る。
トビーノが水を持ってくる。常温ではなく氷入り、厚いガラスの小さなコップに。
「今夜はコースをご提案します」と言う。「5皿。どなたか召し上がれないものがあれば、先に教えてください。それ以外は、私を信頼してください。あなた方も、私を信頼してください。」
「結構です。」
トビーノは出て行く。ヘイズは3分間、独りで残る。
フェッラーロが最初に到着する。時間どおり、軍人らしく。紺色のセーター、ジーンズ、軽いジャケットを着ている。ヘイズは彼を私服で見るのは初めてだ ― 飛行服、センターのポロシャツ、ときどき午後のシャツしか見たことがない。セーターは彼に似合っている。
「コマンダー。」
「少佐。どこでも好きな席に。」
フェッラーロはヘイズの正面、テーブルの反対側に座る。手を木の上に置く。喋らない。
アイヤーとチェン・ウェイが2分後、一緒に到着する。ヘイズはすぐに気づく ― 二人は同じ車で来た。同じ入り口からセンターに上がってこなければ、警備が許可しなかったはずだ。それは、二人が一緒に乗ることを合意したことを意味する。プロトコルの外で少なくとも少し話していることを意味する。ヘイズは自分自身にもコメントせずに、それを記録する。
アイヤーはヘイズの右に座る。チェン・ウェイはフェッラーロの右に座る。互いを見る。頷く。
タナカがさらに3分後に到着する。軽いコート、ヘイズが知ってから初めて、髪を下ろしている。ヘイズの左に、アイヤーの正面に座る。
ミハイロワは20時5分に到着する。5分の遅刻。詫びない。白いシャツ、黒いジャケット、化粧なし。フェッラーロの左、チェン・ウェイの正面に座る ― 残った最後の席であり、誰の顔も見ずにその席を取る。
6人がテーブルに着いた。
ヘイズはタナカを見る。彼女は彼を見る。彼が頭を1度傾ける。彼女が頷く。
「今夜は食事をする」とヘイズ。「演説なし。乾杯なし。食事をするだけだ。」
「分かりました」とフェッラーロ。
2秒後にトビーノがドアをノックする。50代の日本人女性とともに入ってくる。清潔なエプロン、結い上げた髪。おそらくスミエ。
「こんばんは」とスミエ、低い声、強い訛り。「酒からお持ちします。誰か召し上がる方は?」
「ウォッカを、お願いします。ストレートで。1杯だけ。」ミハイロワが最初に話す。
タナカは冷酒を頼む。フェッラーロはキャンティのグラスを。アイヤーは炭酸水を。ヘイズはアメリカのビールを。チェン・ウェイは熱い番茶を。
スミエが頷き、出て行く。トビーノも続く。
10秒の沈黙。アイヤーが最初に話す。
「君が話していた本を読んだよ」とチェン・ウェイに。
「どの?」
「タルシス地方の地質の本だ。読み終えた?」
「3週間前に。」
「地殻のアイソスタシーの章が気に入った。オリンポス山とヘラス盆地の負荷の差が、これほど不均衡だと考えたことがなかった。」
「片方は標高22キロメートル。もう片方は深さ8キロメートル。合計30キロメートルの差。地球上の最大差は約20キロメートル。」
ミハイロワが介入する。「差は幾何学的なだけじゃないわ。組成的でもある。ヘラス盆地は硫酸塩が豊富。オリンポス山の山頂はそうではない。つまり、惑星の最近の歴史における液体水の通過は選択的だったということ。」
チェン・ウェイ「そしてそれは、我々が単一の原因に帰したい過程が、この惑星では空間的に分離している、ということでもある。オリンポス山の山頂での形成は、ヘラスで活発な過程によって引き起こされることはありえない。地質学的に独立した環境だ。」
「風成輸送を除けば」とミハイロワ。
「風成輸送を除けば」とチェン・ウェイ。
ヘイズは聴く。すべてを理解しているわけではないが、会話が技術的であって個人的ではないと認識するには十分理解している。それが彼らの一緒にいる流儀だ。それを受け入れる。
スミエが飲み物を持って戻ってくる。一つずつ置いていく。ミハイロワのグラスに到着すると、非常に低い声で何かをロシア語で言う。ミハイロワが驚いて目を上げ、一音節で応じる。スミエは微笑み、出て行く。
「彼女が何と言ったか分かった?」とタナカが訊く。
「ええ。」
「何と?」
「幸運を、と。」
「ロシア語で?」
「ロシア語で。Удачи. たぶん誰かに教わったのね。」
ミハイロワはウォッカを取り、小さな一口を飲み、戻す。ヘイズは気づく ― 彼女の手は震えていない。震えるかもしれないと思っていた。震えない。
最初の皿が到着する。生のマグロのタルタル、新しいトスカーナのオリーブオイル、柚子を一削り、その下に小さなトスカーナのパンを焼いたもの。トビーノは各皿の中央にそれを置く。コメントなしに。
ヘイズは柚子を食べたことがない。タナカを横目で見て、自分が真似できるように彼女が自分の分をどう食べるか確認する。タナカはその視線を捉える。1度頷き、フォークの背でパンの一片を切り、そこにマグロとオイルを少量乗せ、口へ運ぶ。ヘイズが真似する。味は良い。彼は緊張を解く。
ミハイロワは速く、職業的に食べる。フェッラーロはゆっくり、味わって。アイヤーは黙って、注意深く。チェン・ウェイは小さな一口ずつ、それぞれを長く噛む。タナカはほとんど止まっている ― 食べ物を口に運び、噛み、フォークを置き、酒の小さな一口を飲み、再開する。テーブルに居続けるために食べる人。
「マルコはピサ出身だ」とフェッラーロがある時点で、沈黙の合間に言う。誰か特定の人に話しているようには見えない。
「君は?」とアイヤー。
「シエナ。」
「二つに違いはあるのか?」
「80キロ。4世紀にわたる戦争。違う料理。違う方言。それ以外は同じだ。」
タナカが微笑む。今夜最初の微笑みだ。
スミエとトビーノが一緒に戻ってくる。スミエは鰹節の出汁と生姜のタリオリーニの湯気の立つ大皿を運ぶ。トビーノはパルメザンチーズのおろし金を持ってくる。両方をテーブルの中央に置く。スミエがゆっくり、各椀に出汁を注ぎ始める。トビーノが説明する。
「パスタはイタリア風で、今朝家で打ったものです。出汁は日本式、8時間の煮込み。パルメザンはお好みで。妻は反対。私は賛成。皆さんで決めてください。」
ミハイロワが今夜初めて笑う。短い、素直な笑い。笑うとは思っていなかった女性の笑い。
「皆さんで決めてください」とミハイロワが繰り返す。「いい夫のセリフね。」
「ありがとうございます」とトビーノ。
スミエは注ぎ続ける。フェッラーロの椀に到着したとき、彼はほぼ自分自身に向かってイタリア語で言う。
(イタリア語で)
「マルコ、ピサ出身。」
トビーノが彼を見る。頷く。
「シエナ出身でしたよね?」
「はい。」
「いつか妻にシエナへ行ってほしいんです。トルトゥーカ(カメのコントラーダ)に連れて行ってあげるんですが。」
「来てください。父が待っていますから。」
「お父様はまだシエナに?」
「ずっと住んでいます。」
「私の家族は2039年にピサを離れました。父は水利技師でしたが、ガルベストン港のためにこちらに来ました。私はここで生まれました。でも2、3年に1度は行きます。」
「行くときはシエナにも寄ってください。」
「寄ります。」
(英語で)
トビーノが微笑む。ミハイロワの隣におろし金を置く。ミハイロワは問いかけるように彼を見る。
「妻は反対」とトビーノが繰り返す、「ですが少し欲しければ、私は何も言いません。」
ミハイロワはおろし金を取る。自分の出汁の上に薄いパルメザンを削る。彼女の左にいるスミエは、見ないふりをする。トビーノは出て行く。
タリオリーニはほぼ2分間、沈黙の中で食べられる。ヘイズはこのようなものを食べたことがない。パスタはイタリアの手を裏切らない、出汁は名づけられない何かだ。彼は大きなスプーンで椀から飲む ― スミエは彼がアメリカ人なのを見て、箸では苦労するだろうと察していたようだ。
皿の中盤、ミハイロワは足元のバッグの中で自分のタブレットが振動するのを感じる。身を屈めて取り出し、膝の上で見る。ヘイズは彼女の右の頬にタブレットの光が反射するのだけ見える。彼女は15秒、おそらく20秒読む。唇が1度動く ― 完全な微笑みではない、口角の上方への小さな弛緩。それからタブレットをバッグに戻し、ジッパーを閉め、姿勢を戻す。食事を再開する。
誰も尋ねない。誰もコメントしない。
ヘイズは普通より2秒長く彼女を見る。それから自分の皿を見る。
次の皿はサフランのリゾットに出汁、前面にスモークしたウナギの小片を焼いたもの。トビーノは説明なしに供する。皆が食べる。とても美味しい。
「お米も日本のですか?」とアイヤー。
「カルナローリ」とトビーノ。「イタリアの。サフランはイランの。出汁は日本の。ウナギはテキサスのコンロー湖からのものです。」
「あなたは、どこでこんなふうに料理することを学ばれたのですか?」
「スミエは家で。私はあちこちで。一緒に10年間、できるだけ間違いを少なくしようと試みてきました。」
タナカはヘイズが見たことのない表情でトビーノを見る。賞賛ではない。承認だ。タナカが頷く、1度、短く。
トビーノは出て行く。
リゾットとデザートの間に、小さな皿がある。5種類の小さな生野菜のマリネ、それぞれ違う技法 ― イタリア風のピクルス、日本式の塩漬け、地中海風のマリネ。5つの違う色。トビーノはテーブルの中央にそれを置く、皆で分ける小さなサラダ。
「野菜です」と言う。「デザートの前に少し休むために。」
トビーノは出て行く。
アイヤーが赤いカブを取り、食べる。
「思い出があるんだ」と彼。声は平坦、注意を引かない。「私が幼かったとき、バンガロールで。母が物語を読んでくれた。月へ行きたい王女がいた。紙の梯子を作っていた。1日1段ずつ昇っていく。梯子が壊れると、新しいのを作る。昇る。壊れる。昇る。そうやって続ける。物語の終わりに、母は王女が月に到達するかどうかを言わなかった。」
間。
「何年も」とアイヤーが続ける、「私は母が物語を終えないのは疲れているからだと思っていた。10歳になったとき、終わりを教えてくれと頼んだ。母は終わりはあれよと答えた。」
誰もコメントしない。ミハイロワは2秒間アイヤーを見る。チェン・ウェイは自分の皿を見る。フェッラーロは最後の指1本分のキャンティを自分のグラスに注ぐ。ヘイズは何も言わない。
デザートが到着する。エクストラバージン・オリーブオイルのジェラートと、表面に塩の小さな結晶をまぶした餅。スミエが初めて説明する。
「餅は日本。ジェラートはイタリア。塩はフランス、ブルターニュからのもの。マルコと私はこのデザートが存在しうるかどうか1年間議論しました。今は議論しません。」
微笑む。出て行く。
餅を3分で食べる。誰も話さない。
食べ終わると、ミハイロワは短く立ち上がり、トイレへ向かう。5分間戻らない。戻ってきたとき、顔を洗ってある。座る。
トビーノはコーヒーと茶を持って入ってくる。ヘイズはエスプレッソを取る。タナカは煎茶を。ミハイロワはグラッパを頼む。トビーノはどのグラッパかを訊かずにグラスを持ってくる。古いフリウリのグラッパ、ある蒸留所のもので、ミハイロワは味わうときに驚いて名前を口にする。
「はい」とトビーノ。「父にフリウリの友人がいて、彼が送ってくれていました。亡くなった後も、送り続けてもらっていました。今でも同じ蒸留所ですが、友人の息子が送ってくれています。途切れないもの。」
「途切れないもの」とミハイロワが繰り返す。
特定の話題なしに、さらに20分間テーブルに残る。天気の話(ヒューストンの湿気)、交通の話(新しい高速道路ができてから悪化したこと)、アイヤーが2週間前に見て悪くないと思った映画の話(誰も見ていない)。平坦な、普通の会話、何も話す必要がないほど互いに会っている6人の人々。
22時47分、ヘイズが時計を見る。頷く。立ち上がる。
「行こう。」
全員が立ち上がる。
トビーノが入り口まで見送る。各人と握手する。ヘイズには、最後に、ただこう言う:「ご来店ありがとうございました。」
「こちらこそ、トビーノさん。」
「マルコ。」
「ありがとう、マルコ。」
スミエは夫の隣に立つ。小さなお辞儀で挨拶する。
ヒューストンの湿った夜の中へ出る。業務用車両が通りの反対側で待っている。乗り込む。フェッラーロは車が遠ざかる間、窓越しに店を見る。ヘイズはそれを横目で見る。
トビーノとスミエの看板は、11秒後に角の向こうへ消える。
クールーで7日間。健康診断。上昇シミュレーション。スーツの最終調整。義務的な48時間の衛生隔離。打ち上げ当日に放送される、3分ずつの事前録画インタビューのセッション。ロケットは3日目から発射台に立っている。ヘイズは毎朝自分の部屋の窓からそれを見る。
7月17日の夜、6人はESA技術センターの食堂で一緒に食事をする。トマトソースのパスタ、ローストチキン、火の通った野菜。32分で食べる。
ミハイロワが一度笑う、ヘイズには笑いどころが分からないアイヤーの冗談に。
タナカはチキンの半分を残す。
フェッラーロは話さず、食べる。
チェン・ウェイは全部食べ終える。
ヘイズはチキンを食べ終える。野菜の半分を残す。
21時14分には全員が自分の部屋にいる。
7月18日午前3時47分。ヘイズの部屋、クールーのESA技術居住棟8階、赤道森林に向かう北西の眺め。
ヘイズは25分前から目が覚めている。
起き上がる。前日支給されたジャージのズボンを履く ― 飛行服ではなく、打ち上げの朝のための普通の作業服。Tシャツとジャージのまま部屋を出る。廊下の照明は、彼の動きで点灯し、20パーセントに抑えられている。
廊下の奥に向かってゆっくり歩く。タナカの部屋の前を通る、右側最初のドア。ドアの隙間の下から、黄色い光。タナカは起きている。
ヘイズはノックしない。続ける。
アイヤーの部屋の前。暗い。
チェン・ウェイの部屋の前。暗い。
フェッラーロの部屋の前。ドアの下から黄色い光。フェッラーロは起きている。
ヘイズはノックしない。続ける。
ミハイロワの部屋の前、廊下の奥。暗い。
ヘイズは1度微笑む、独りで、空っぽの廊下で。ミハイロワは眠っている。
自分の部屋に向かって戻る。ドアの前をもう一度通る。タナカ、起きている。フェッラーロ、起きている。ミハイロワ、眠っている。アイヤーとチェン・ウェイ、眠っている。
3人が目覚めている、3つの心理。彼は記録する。コメントしない。
自分の部屋に入る。後ろでドアを閉める。窓に近づく。ブラインドを30センチ持ち上げる。
東の空はまだ黒い。ここからロケットは見えない ― 森の縁の向こう、北に8キロのところにある。だがヘイズは閉まったガラスを通して、低いモーターの音が聞こえる。前日午後のブリーフィングで主任エンジニアが言っていた、液体推進剤の充填を完了する補給ポンプだ。一晩中作動しているだろうと。
ヘイズは音の方を見る。ロケットは見えない。そこにあることを知っている。
4分間、窓の前にとどまる。
それから振り向く。自分の部屋の明かりがまだ点いている。消す。
「Good morning」と空っぽの部屋に向かって言う。
出る。




