第六章 もう一人の俺
雨音が、やけに遠く聞こえた。
路地の奥。
赤色灯の滲む闇の中に、
“俺”が立っている。
黒いパーカー。
濡れた髪。
同じ顔。
同じ声。
鏡じゃない。
そいつは確かに、自分の意思で笑っていた。
「……誰だ、お前」
喉が震える。
そいつは首を傾げた。
「それ、七回目も聞かれた」
背筋が凍る。
警察の足音が近づいている。
だが誰も、こいつに気づいていない。
まるで俺にしか見えていないみたいだった。
「幻覚……」
「違う」
そいつは静かに言う。
「俺は、お前だ」
「ふざけんな」
「正確には、“残ったほう”」
意味が分からない。
だが、そいつの目を見た瞬間、
俺の脳裏にまた記憶が流れ込む。
白い実験室。
カナメ。
巨大なモニター。
そして——二人の俺。
「……っ」
頭痛。
そいつは苦笑する。
「思い出したか?」
「ありえない……」
「カナメは、一人の人格を複製した」
雨が頬を打つ。
「人間は死ぬ瞬間、
脳内情報が爆発的に活性化する」
そいつは自分のこめかみを指差した。
「カナメはそこに目をつけた」
断片的に繋がる。
電極。
叫び声。
薬。
『人格保存実験』
「お前……コピーなのか」
「半分正解」
そいつは笑う。
「俺たちはどっちも本物だ」
気持ち悪い。
吐き気がした。
「じゃあ……なんで」
「カナメは、お前を二つに割った」
そいつは自分の胸を叩く。
「善性と」
次に、俺を指差す。
「悪性に」
呼吸が止まる。
「嘘だ……」
「じゃあ聞くけど」
そいつの目が細くなる。
「お前、本当に人を殺した時の快感を感じなかったか?」
言葉が詰まる。
感じた。
一瞬だけ。
あの感覚を。
そいつは笑う。
「それ、俺の記憶だよ」
頭が割れそうだった。
「お前は、“優しいレン”だ」
「……」
「で、俺は」
そいつは口元を歪める。
「壊れたほう」
雨が強くなる。
パトカーの光が滲む。
俺は後退した。
「ありえねぇ……」
「でも面白いよな」
そいつは楽しそうだった。
「人間って、
優しさだけでも、
悪意だけでも、
まともに生きられない」
「黙れ」
「お前、ユキを守りたいんだろ?」
胸が痛む。
「でも俺は違う」
そいつの笑みが深くなる。
「俺は、カナメを殺したい」
殺気。
一瞬で空気が変わった。
本能が警告する。
こいつは危険だ。
俺自身なのに。
「お前は何なんだ……」
「だから言ってるだろ」
そいつはゆっくり歩み寄る。
「お前だよ」
その時。
警察が路地へ雪崩れ込んできた。
「いたぞ!!」
刑事たちの怒号。
銃口。
ライト。
だが。
「……え?」
若い刑事が困惑する。
「一人……?」
俺は振り返る。
そこにはもう、
“もう一人の俺”はいなかった。
幻だったみたいに。
「動くな!!」
刑事たちが俺を囲む。
俺は動けなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
その時。
倒れているユキを見た若い刑事が顔色を変える。
「警部! 女性が撃たれてます!」
中年警部が近づいてくる。
さっき霊安室で倒れていた男とは別人だ。
鋭い目。
白髪混じり。
そして。
俺を見る目が妙だった。
恐怖でも怒りでもない。
“確認”する目。
「……霧島レン」
低い声。
「本当に生き返ったのか」
その言葉に、空気が止まる。
俺は顔を上げる。
「お前も知ってるのか」
警部は答えない。
代わりに、ユキの遺体を見下ろし、
小さく舌打ちした。
「間に合わなかったか」
その反応に違和感が走る。
まるで。
最初から全部知っていたみたいな。
「……あんた、誰だ」
警部は数秒黙った後、
静かに警察手帳を見せた。
「公安特別調査室。
橘誠司」
公安。
嫌な予感がした。
橘は周囲の刑事たちへ言う。
「霧島の身柄は公安が引き取る」
「しかし——」
「命令だ」
有無を言わせない声だった。
刑事たちは黙る。
橘は俺へ近づく。
そして、誰にも聞こえない声で囁いた。
「お前が八回目なら、時間がない」
心臓が止まりそうになる。
橘の目は真剣だった。
「九回目に入る前に、
カナメを止めろ」
その瞬間。
俺の脳裏に、
ユキの最後の言葉が蘇る。
『今度こそ終わらせて』
だが俺はまだ知らなかった。
“九回目”が、
今までとまったく違う地獄だということを。




