ヒストリアの知らない世界
自害しようとしたほどに荒んだ気持ちは完全に払拭されたわけではなかったが、朝食を食べながらヒストリアは身の上を話すべきか悩んでいた。
ついこの間まで一つしか選択肢はないと思い込んでいた暗闇に、魔法使いによって別の道を示す光を与えられたことで心が揺らぎはじめていたからだ。
この家に連れられてきた時は、残された食料で空腹を満せども命を繋ぐ行為は余計に心をざわつかせるだけだったが、硬い黒パンも塩気が少しキツい干し肉のソテーも、今この瞬間に口にしているものは腹だけでなく心にも染みわたっていく。
希望、と呼んで良いのか認めるのには迷いがあるが、しかし眩いほどの光でないものの魔法使いの言った”考える”という曖昧な状態を甘受する気持ちにさせたのだ。
しかし結局、追放された理由はまだ言葉には出来なかった。改めて言葉にするには、この身に起きた出来事の記憶を再度なぞらなければならない。そうする勇気がまだなかったのだ。
「……いずれ、私のこと、あんたに話してもいい……」
かろうじて示せたのはその一言で、魔法使いは追求することなく「そうか」とだけ相槌を打った。
「……ちょっと!その髪はなに?と言うか平民を連れて来るって、なにするつもりなのよ」
問い詰めるような聞き方になったのは、魔法使いが朝食の片づけを終えたあとローブを羽織るや否や、村人を連れてくると言って扉に背を向けたからだ。それも一瞬のうちに髪色を燃えるような赤へと変えていたためである。
説明もないまま平民を迎えに出ようとするので、ヒストリアは仔細を求め引き留めていたのだ。
今朝がた「家を建てる」と宣言していたことは覚えていたが、ヒストリアはてっきり魔法を使って造り上げるものだと考えていた。
加えて、そもそも今や侯爵令嬢という肩書も大聖女の印も失って平民落ちした身といえど、彼らと同じ身分の人間となったことを受け入れることは難しく、魔法使いが村人と関わろうとすることにいい気がしなかったのだ。
それに対し表情の乏しい魔法使いは相変わらず彫刻のような顔でヒストリアを見遣った。
「昨日、近隣の村へ行って家を建てるための相談をしていてな。大工仕事に長けた者を紹介してもらえたから彼に現場を見てもらうことにした。気になるならついて来ても構わないが、そんな気にはならないだろう?君はここに居ればいいが、必要があれば紹介する事があるだろうからそのつもりでいてくれ」
滑らかに説明されるが、それは言葉は求めていた答えと異なる。これまで短気だと陰口を叩かれがちだったヒストリアの声は無意識にぴりついていたが仕方がない。ヒストリアの聖力を感知し、瘴気の研究などと常人の領域を超えたことに手を出すなど、妙に頭が回るところが見受けられる男なので質問の意図は容易く伝わるものだと思い込んでいたのだ。
「……そうじゃなくて。私が聞きたいのは、魔法で家を建てるんじゃなかったのってことよ!」
「出来ないこともないが、そうすると怪しまれるからな」
「誰に怪しまれるって言うのよ」
「この地区の者達にだ」
ここまで言って魔法使いは「なるほど」と独り言ちたあと、一呼吸おいて一冊の本を荷袋から取り出した。
「俺のような存在に対する知識が浅いことは想像していたが、予想をはるかに上回っていたようだな。君は平民を嫌っているが魔法使いはそれ以上に嫌われ迫害されている。もし一瞬のうちに家が出現していると普通は警戒されるものだ」
そう言って手渡されたのは聖書で、『Luminous 聖女の起原』と記されていた。
「聖書?読んだことあるわ。馬鹿にしないでちょうだい」
魔法使いに聖書の知識がないと疑われているような気がしてヒストリアは声を潜めた。
シルドバーニュに住むものなら誰もが見聞きしたことのある書物であり、聖書を買えない人間でも教会に行けば説教を聞くことができる。さらに子女であれば三歳の洗礼の儀で必ず聖書の朗読が行われ、当然貴族になれば平民以上に教育の過程に組み込まれるほど聖書は身近な存在だ。
さらに大聖女でもあるヒストリアは聖書を手に取る機会は多かった。というより無理やり覚えさせられた。
「第一章を覚えているか?」
「当たり前じゃない。魔法使いによって異界の門が開かれて、瘴気が地上に蔓延したんでしょう?それに対抗できるのは聖力と呼ばれる特別な力を持つ乙女。違うの?」
「いや、正しい認識だ。だが門は魔法使いによって開かれたと記されているだろう。魔法使いは害悪だと考えたことは?」
「どうして?門を開けたのが魔法使いだったってだけでしょう。例えばその聖書に、王様が開いたって書かれていたら、未来永劫王様を名乗る人は迫害されなきゃいけないの?あんたが私の大聖女の印を記号って言うなら、それこそ聖書の内容だってただの記号だわ」
自らの考えを口にすると、魔法使いは黄金色の瞳を瞠目させたあと、無機質だった面持ちが一瞬だが血色を帯びたかのように柔らかに眦を下げた。
「そう考えるのか……初めてだ」
「なによ……魔法を使えるのは便利だし、平民よりもよっぽど良いわ。おかしい?」
「一般的には、おかしいな。その見方は持っているものの考え方だろう。貴族という血統があり、聖女の頂きでもある君は無意識に自分だけは安全で無関係だと認識している。だが力を持たざる者は、とうてい力の及ばないものに対して恐怖の方が勝る。すると諸悪の根源である魔法使いという存在自体を厭う傾向が強くなるんだ」
否定されたことに対し眉根は寄ったが、小難しいことを言い始めたのでヒストリアは納得するところまで理解が追い付かず、深く考えることを止めにした。
ヒストリアにとって聖書など教育の一環としての暗記物であり、”そんなことがあった”のだと、記憶さえすれど、信仰深く教義への思想を深めようとはしなかった。史実か伝説か怪しいものに対し、深く考えて使命感を得ようという気にならなかったのだ。
そもそも、自分を取り巻くその瞬間の環境がすべてで、長い年月を遡って世界の構造を理解し悪者を突き止めたところで現在進行形で進む世界が覆るわけでない。なにより、権力の頂きに近い存在である自分は世界の起原を否定するよりも享受していたに近いともいえる。
こういう所が聖女らしからぬと散々言われてきたところなのだろうが、もしも周りから優しい言葉をかけられ大切にされていれば、同じように大衆の思想にも興味を持っていたかもしれない。
だがヒストリアは魔法使いと出会った。今まさに平民よりマシな存在だと感じているヒストリアは今まで意識したことのなかった大衆の考えだけをひとまず掻い摘み、同情気味な視線を返した。
「じゃあ、あんたは迫害されてきたの……?だから髪色をその色に?」
「あぁ。警戒されないよう変えている。家の建築に魔法を使わないのも同じ理由だ」
魔法使いは髪色を違う色に変える場合、赤にしかならないらしい。ルーメンの赤は、鳶色の髪を持つ義弟のロイドよりも数段明るい。他の人間に魔法をかける場合は自由に染色できるがどういう原理か一定の色にしか染まらないのだという。平民は焦げた茶色が基本だが、平民との間に貴族が子を設けると貴族の血を濃く引けばそちらに寄り、平民の遺伝子が強ければ鳶色の髪になることがあるのでルーメンの髪色は不自然ではない。
「分かったわ……あんたが原因でこの家を出なくちゃ行けなくなるのも困るし、平民を連れてくるのは好きにして。でも紹介とかは止めてちょうだい。関わりたくないわ……」
概ねの疑問は解消したが、しかし平民と接するには抵抗感の方が強い。
魔法使いから「分かった」と返事があったが、ヒストリアが安堵するよりも先に宥めるように言葉は続いた。
「だが、遅かれ早かれ村人とはいずれ交流していく必要がある。今はこの家に慣れるところから始めればいいが、衣食住を確保するためにこの地で働き収入を得なければならない」
「働く?この私が?面倒見てくれるんじゃないの?」
てっきり今朝のように朝食が用意され、何もせずともこの家で魔法使いが世話してくれるものだと考えはじめていたが、現実はそう甘くないらしい。実験に協力すると言えばヒストリアの扱いは変わるのだろうか。
自分が働く姿を想像できないが安易に返事をすることもできず声は固くなった。
「世話は焼くが君が自活できるようにするためだ。ちなみに確か……君は下級貴族のご落胤で逆恨みから神殿の聖女を害そうとした罪でこの地区に追放されたことになっているらしい」
「誰がそんな……!」
衝撃的な言葉を重ねられヒストリアは絶句した。正規の手続きが行われず王宮で聖印を焼き潰されたのは、ヒストリアが聖女であることを隠したかったからだろうと気付いてはいたが、秘密裏に処理されるにしても酷い作り話だった。
「君を連れてきた兵士達が吹聴して帰ったようだ。ここじゃよそ者は目立つ。余計な詮索をされるより先に情報を与えた方が都合がいいと踏んだのだろう。この地区の酒場では、追放された君が生きてるか死んでいるか賭け事の対象にされているようだ。そろそろ興味本位で近づいてくる者がいるだろうから、俺の外出中は扉を勝手に開けないで欲しい。君が招かなければ開かないように魔法をかけておく」
知らなければ恐怖することもなかった情報をさらりと告げられ、ヒストリアは唇を震わせ怒りと恐怖の混ざった感覚が背筋を這い上ってくるのを覚えた。
やはり平民は野蛮である。
他人の生死を賭け事の対象にするなど到底許されるものではない。まだ権力が残っていれば不届きものは即刻捕らえただろうだが、捕らえるどころか野蛮な連中に何をされるか分からず、魔法使いの忠告には黙って頷くほかなかった。
「大丈夫だ。悪意を持ったものばかりじゃない。だが、女ひとりでは心細いだろう。少し留守にするが待っていてくれ」
そんなヒストリアを心中を見透かしてか、魔法使いの手が伸びてきて長い銀髪の垂れる細い肩にそっと触れた。




