結界という糸口
ヒストリアはエリザベートから受け取った時計を握り締めていた。
時を静かに刻む懐中時計の音が波打つように静かに空気を揺らす。
フランドール侯爵家の紋章の入ったこの時計を、たった一度だけヒストリアは触れた日を思い出していた。
確かその時は、母の形見をどうしても見たいと我儘を言って父に強請り、無理やり姉から取り上げてもらった気がする。
エリザベートは父に従ったが、ヒストリアがべたべたと触って眺めている間、張り付けた笑みの奥でじっとりとした感情が向けられていた。
嫌だった、などという安易な言葉では片付けられない不快と苛立ちが混じるものだった。
まさかエリザベート自ら貸そうとする日が来るとは。
ふと、アリアがヒストリアの手元を見て言った。
「当主に受け継がれる時計ですか……エリザベート様がいつも大切に持っていたものですね……」
「知っているの?」
どうやらアリアの方がヒストリアよりもよほどこの時計の価値を知っているのかもしれない。
アリアは頷き、それから静かに言った。
「はい。エリザベート様がそれを持ち出す時はいつも弱音を吐いていたので……印象に残っています。きっと私が聞いてないと思っていたのでしょう」
ユリアンが以前、洗脳されていても意識は浮上すると言っていたのをヒストリアは思い出した。
外に向けて吐き出せないことをこの姉妹には吐露していたのか。
「姉が、弱音……エリザベートが……」
追放されてからというもの、ヒストリアは怒涛の如く雪崩れ込む自分の知らないエリザベートの一面に覆いつくされている真っ只中だ。
零れた言葉は違和感からというよりも、また知らないことを見つけたという意味合いだった。
「変ですか?」
アリアの純粋な問いに、ヒストリアは首を振った。
「いえ。今まで姉は鋼の心を持っているのじゃないかとすら思っていたから……最近驚かされることばかりなのよ……」
「……そうでしたか……――私もエリザベート様のように寂しくなった時は母の指輪をよく握っていました」
誰でもそういう時はあるのだと、そう言いたげなニュアンスで紡がれた。
刹那、ヒストリアは瞬き、あっと小さな声が出た。
「指輪といえば、失くしてしまったとユリアンが言っていたわ……戻ったら一緒に探しましょう」
しかし提案したものの返事はない。
代わりにアリアは無言のまま驚いた表情を浮かべていた。
「……なに?」
「いえ……その、……ルーメンの影響でしょうか」
「え……?」
唐突に出てきた名に、ドキリと胸が鳴る。
「以前と少し違う雰囲気ですので……」
”少し”というのが言葉を濁すためのように用いられているような気もしたが、アリアは表情を和らげたあとヒストリアに向かって続けた。
「彼は新たな視点を与えてくれる人ですよね」
そうに違いないと見抜いている言葉は、共感者を得た人間の喜びのような温度が感じられたが、ヒストリアはどこか胸がざわついてしまう。
特別に世話を焼かれたのは自分だけじゃない。
経験があるから紡がれる言葉だと気付いてしまったからだ。
「――でもまさか、ヒストリア様と一緒に現れるとは思いもしませんでした。ルーメンは困った事があれば助けるなんて私達に言ってたので……きっとユリアンは本気にしてしまったんでしょうね……それで、ヒストリア様まで巻き込んでしまっている……違いますか?」
アリアは理性的な瞳を少しだけ揺らし、ヒストリアに訊ねた。
自分を助けにきた二人を見て悟ったのだろう。自責の念ともとれる物憂げな表情だった。
アリアの中ではきっと様々な憶測が飛び交っている。
「被害者のあなたを巻き込むべきじゃなかったのに、私達のせいで……」
「違うわ。ロイドは私の義兄よ、あなた達にしたことを知って許しておけない」
「ではエリザベート様のことは……?」
舵を切るようにいきなり問われ、ヒストリアは僅かに目を見開いた。
それから眉を歪め溜息を零す。
「許せるほど、まだ知らないし……というか、姉妹揃ってエリザベート、エリザベートって。捕らわれていたくせに好きなの?」
どうもこの姉妹はエリザベートに対して肩を持つ傾向が伺える。
ヒストリアはわざと視線を眇めては首を軽く傾げた。
するとアリアは顔を曇らせて声のトーンを落とす。
「いえ。そういうつもりでは……でも、とても一言で表現できるようなものではありません……」
重い声は、ヒストリアの胸に落ちた。
今のヒストリアもまたエリザベートに対する感情はとても一言では言い表せない。
しかし今はその姉を頼っている。
自分たちに出来るのは情報を整理して待つ事だ。
「ーーアリア、ユリアンがいまどこにいるか分かる?」
「はい。試してみます」
アリアが両手を広げると探知魔法が目の前で展開される。
ヒストリアの頭上には光の粒が集まり巨大な地図が現れた。
「あそこね……」
王城まではまだからは遠い。
その暫くのち、ヒストリアは目を瞠った。
ユリアンの印が動いていないのだ。
「ほとんど動いてないわ……一体何が起きているの……」
その答えは、不幸にもヒストリア達の作戦をなし崩しにする衝撃のものだった。
――ーー明朝。もどかしい感情を抱えながらヒストリアはアリアと共にエリザベートを待っていた。
幸いにもあれからロイドが現れる事はない。おそらくエリザベートが意識を逸らしているのだろう。
だが、悠長には構えていられない。
一刻も早くエリザベートに自分たちの作戦は不可能だと伝えなければならないのだ。
ユリアンの印はあれからまた動き始めたが、王都近郊に入る手前で再び止まってしまった。
婚姻の儀までに間に合うなど保証がない。
一刻も早くこの地下牢から出ていかなければ。
そんな不安を感じ始めていた頃、静かに地下牢の扉が開いた。
そこにはエリザベートの姿はなく、険しい表情のラキュウス辺境伯ただ一人。
「……大丈夫ですかっ!?」
「遅くなってすまない……」
脚を引き摺りながら、階段を降りてきたラキュウスは事、の顛末をヒストリア達に伝えた。
浄化石を求めた神殿の真意。
そして急襲時に幻覚の魔法使いが現れ、魔法使いが神殿の聖騎士や聖女の身体を使って怪物を造り上げたこと。
証拠は押さえたが、ラキュウス辺境伯しか辿りつけなかったこと。
その怪物が形態を変えドラゴンのような姿で猛追してきたこと。
「今はユリアンがニッカと共に怪物が王都に入らないよう、食い止めてくれている……幻覚の魔法使いもそこに居る」
アリアは苦し気に眉根を寄せた。
「私は一度降ろされ、城を目指した……だが、そうか…ルーメンが……」
生唾を呑み、剣呑な瞳で床を見据えるラキュウスは唇を噛みしめたあと重い息を吐きだした。
「でもベリルの言うように浄化石を使えばルーメンの洗脳も解けてロイドも抑えられますよね……」
ヒストリアの表情は、声の勢いが落ち。
「いや。そう簡単な話ではない……」
硬い声でラキュウスは首を振った。
「ロイドの脅し、それだけなら君の聖力でねじ伏せることも可能だろう。それに浄化石もある」
「だったら……」
「ヒストリア。ルーメンの魔法の特性を思い出してくれ」
「縮小と拡張魔法……」
「そうだ。つまり力を拡張しさらに引き出すことが出来るように、その反対も可能というわけだ」
「そんな……」
「予測の域に過ぎないが、洗脳解除は抵抗される。ユリアンが居れば回避も接近も対応しやすかったが……地上からとなると……覚悟しておいた方がいい……」
ルーメンと真っ向から戦う事になり得ない。
ラキュウスの口振りはそう言いたげだった。
「私たちがロイドを出し抜くためには、二つの条件を揃える必要があるだろう……一つ、ユリアン達が幻覚の魔法使いを食い止めている間に行なうこと」
「二つ目は、ロイドとルーメンに気取られず、一気に洗脳と聖者の力を浄化することだ。だが君の祈りは対象に近いほど強い作用が働くのだろう?そこをどうするか……」
エリザベート曰く、ロイドが命令の重ねがけが可能となっている今、流動的な対処が可能な相手に真っ向から挑むのは下策だ。
ヒストリアは途方に暮れ、言葉に迷っていた。
祈りには助走が必要。すぐに発動出来るものではない。
そしてラキュウスの言う通り、祈りは相手が近いほど強い影響を与える。
ルーメンの傍に行く必要があるが、ルーメンを侍らせているであろうロイドに阻止される。
例の『自害させる』という言葉だって、命令として未到達であるという仮説を検証するような時間すら与えられないかもしれない。
その場に沈黙が落ちた。
「……ところでヒストリア嬢。君の姉はハープを弾くのか?」
行き詰まった答えに彷徨う沈黙を割るようにラキュウスが訊ねた。
「はい……確かシェリル王女とは、それがきっかけで友人関係になったと記憶していますが……何か関係しているのですか?」
「君の姉がハープを習得するようになったのは、神殿が勧めたからだとベリルが言っていた。事付かってきたが、何か心あたりはあるか?私には何が言いたかったのかよく分からないのだが……」
突破口があるのではないかと、ラキュウスは思い出したのだろう。
確かにディート地区を離れる前、ヒストリアはベリルに姉の事を教えてくれと頼んでいた。
ベリルは直感の男だ。
姉から聞いた話で神殿と関係していることならば、なにかヒストリア達に益を齎すと感じ託したのだろう。
だが、直ぐに思い当たることはない。
神殿が姉に勧めた、よくよく考えてみればおかしな話だ……なぜ勧めたのだろう。
「――――ヒストリア様、辺境伯様…よろしいでしょうか?先ほどの話で確信しました」
それまで黙っていたアリアが食い入るように言った。
「エリザベート様が言っていました。自分は日陰の存在でいいからイクシス様から本当のことが知りたいと。その意味がようやく理解できました……」
「日陰の存在……?」
「はい。おそらく神殿は、エリザベート様の体質を利用し、イクシス様の聖力を補っていたのです……もはやイクシス様では結界を維持できない、けれどハープの音色は溢れて消える聖力を束ねるのでは?…――」
エリザベートはヒストリアと同等、いやそれ以上の聖力を生み出す力を持ちながらも体質的にそれを溜めることが出来なかった。
ゆえに聖印が現れなかったのだろうと言われている。
印のないエリザベートを名目なしに大聖女に据えられないが、しかし聖力の安定しないヒストリアを大聖女として引き継がせるわけにもいかない。
神殿がイクシスの方法をヒストリアに教えなかったのは聖力を変換する技術が必要だったからだろう。
大聖女教育の一つに、たしかそういったものがあった。
つまりそれが出来なかったヒストリアに国の重要な秘密は教えられなかった。
たとえイクシスと同じ技術を習得出来ていたとしても、あの頃のヒストリアなら姉に補ってもらうことなど認めなかっただろうが。
アリアの推察は、ヒストリアにとって希望となるものだった。
「……イクシス様はエリザベートから補った聖力を自分のものに変換して結界に流していたのね……変換は私には出来ないけれど……浄化石なら使うことは出来る……結界はこの国に張り巡らされているから、そうよ……」
考えをまとめるよう口にしながら、ヒストリアは頬を上気させた。
「ラキュウス辺境伯!浄化石と結界を利用すれば一気に浄化できます」




