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抗う者

静かになった部屋でヒストリアはルーメンと共に皿を拭いていた。

一人で片付けると言ったが、ルーメンが二人でした方が早いと言って譲らなかったのだ。

その姿を監視するかの如く仔猫はルーメンに注意深く視線を向けていた。


「そういえば、ベリルと何を話していたの?」

双子に絵本を読み聞かせている間、話し込んでいたベリルの表情に険しいものがあったのを思い出し訊ねると、ルーメンはややあって口を開いた。

「……行商人から聞いた話らしいが、ドラゴンを目撃したという情報がいくつかあるらしい」

「ドラゴン?シルドバーニュ西部の山脈に縄張りがあるのよね。たしか、……」

隣接するアルタイル国との国境に聳えるワルム山脈。その山にはドラゴンが棲むという。

個体数がおよそ五体も満たない、世界的にも絶滅種の生き物だ。白金の鱗を持ち大きな翼で空を悠々と飛行する。温厚で長寿だが繫殖能力が低く、山で大型の獣を狩って生きている。

こちらから危害を加えなければ人間を襲うことはないので、ワルム山脈は暗黙の不可侵領域にもなっていた。


「あぁ。だが目撃者の話を繋ぎ合わせると、どうやらこっちに向かって飛行していたらしい」

「ここは北部よ。変ね……その話、本当なの?」

「分からない。目撃情報が少ないから信憑性は薄い」

「ふーん……じゃあ、見間違えたのかもしれないのね」

ワルム山脈のドラゴンに限らず、滅多なことがない限りドラゴンが縄張りから出ることはない。

「あぁ。夜間の目撃ばかりで雨も降っていたからな。もし本当なら既にどこかで報告が上がっているだろうが、しかしそれもないらしい……」

ある文献では、地脈から瘴気の噴出が起きるひと月ほど前に、ドラゴンが巣穴を移動していたという記述も読んだが、もしベリルの情報が本当だとすると天変地異の前触れなのだろうか。


このシルドバーニュの聖女達による結界の袂が一体どこなのか、その境界に揺らぎがないとは言い切れない。

ルーメンもヒストリアもこの地に来てからずっと見ていたのだ。結界の袂がその時々によって変わることを。銀色にきらめきく結界は薄いレースが風で揺れるように波を打っている。

ワルム山脈のドラゴン巣穴に結界が届いていないのならば、異界の門が開かれた時のように瘴気が噴出したとしてもおかしくはない。

だが、今さらそんな事が起きるのだろうか。不可解な出来事にヒストリアは首を傾げた。


「不思議ね……突然消えたってこと?」

「そうなるな……ドラゴンが突然消えるなど普通はあり得ない」

刹那、訝しむ視線を何故かルーメンは仔猫へと流した。

「きっと彼らが見たのはドラゴンじゃない……そう推定したとしても、目的が分からない」

「……どういう意味?」

不安気な視線でルーメンを見据える。そして拭き終えた皿を置いてから身に着けていたエプロンを外し仔猫を腕に抱いた。

ルーメンは仔猫に対し、何か腹に落ちないことがあるのかもしれない。


「いや……なんでもない」

事実を述べても確証のないことを語らない性格は相変わらずで、ルーメンは言葉を止めると首を振った。まだ結論が出ていないというのが、その一言で分かったが、歯切れの悪さはヒストリアを不安にさせた。

「そう……もし何か分かったら教えてちょうだい。私も気になるわ」

「あぁ。もちろんだ」

ルーメンは静かに頷いたが、ヒストリアは悩まし気に眉尻を下げた。

先ほどの視線と言葉が気になったのだ。

もしかすると仔猫に疑念が向けられているかもしれないと。


まさかこの仔猫がドラゴンだとでも言うのだろうか。つやつやとした青い瞳でヒストリアを見つめる仔猫はどこをとってもただの猫にしか見えない。


「それより聞いてちょうだい。この猫、あなたが用意してくれたバスケットでちっとも眠らないのよ!」

荒唐無稽な妄想を拭うように、ヒストリアは話題を変えることにした。

実際、ここ最近の悩みだったのだ。仔猫はヒストリアを親猫とでも思っているのか、とにかく傍に寄りたがり隙あらば膝の上や肩に乗る。

煩わしく思うが、昼間ならばそれでもいい。問題は夜だった。

寝る時にベッドに潜り込まれるのだけはどうにも慣れず、困っていたのである。ヒストリアの使っているベッドは固くて狭い。薄っぺらい布はルーメンが厚手のものに取り換えてくれたが、生き物を気にして優雅に眠るほどの場所ではない。


そこでヒストリアは小さなバスケットを貰って、そこに布を敷き詰めたのだ。仔猫専用の寝床である。

しかしせっかく用意したものは、まるで使われた試しがない。

思い出すとぐったりとして、椅子に座っては柄にもなく机へと突っ伏した。王都と違って人の目がないので四六時中背を正す必要がないぶん、気が抜けるとそうしてしまうのだ。特に、新しい木材の香りが立つこのテーブルは癒しの魔法でもあるのじゃないかと思うほど心地よかった。


「それだけ君の元が安心するんだろう」

一方のルーメンはヒストリアの苦労する姿をやはり気に入っているようで、軽く受け流すかのように淡々と告げる。顔を上げて不貞腐れた面持ちで見遣れば、カップが一つテーブルに置かれた。


ホットミルクだった。

甘い香りが鼻腔を通り、一口飲むと、ささやかな甘みが身体に染みわたる。

「……でも、圧し潰したら危ないじゃない?」

「なるほど。心配しているのか」

「そんな大層なものじゃないわ。近くに居たら睡眠の質が落ちるから、そういう意味よ」

「だったら君達もここに移り住めばいい。今より広いし寝心地もいいだろう。個室で鍵もかけられる」

とりとめのない文句を口にしていると提案されヒストリアは思わず顔が真っ赤になった。


「そっ……それは駄目!そういう意味で愚痴ったわけじゃないのよ!」

考えてみれば今のボロ家に文句を言っているように取れたと思うと羞恥が沸き上がったのだ。

全くそんなつもりがなかったヒストリアは首を左右に揺らし掌を見せるように片手をルーメンへと突き出す。

「あなたに悪いし、私は一度拒否したでしょう……駄目よ」

「気にすることはない。出会って直ぐの相手だった」

これだけ同じ時間を共に過ごして、寝床だけ別の家というのは不思議な生活だと理解していたが、しかし完全に好意に甘えるのは些かヒストリアの矜持が許さなかった。

そしてなにより、拠点に拘るのはバツの悪さ以上に、もう一つ理由があったからだ。これはルーメンの手を取ってから少しずつ形を成していったヒストリアの生きる目的になりつつあった。


「でも、……いいの。私ね、あの家で暮らして幸せになるの。ここに追いやった奴らを見返してやるのよ。あなたの助手になったし、今日はベリル達を招いたし、ボロ小屋でも楽しく生きてますけど何か?って」

ひとり辺境の地に送られて、右も左も分からないヒストリアが野垂れ死ぬことを望んだ者達へのささやかな復讐なのだ。思い通りにはさせない。それが今のヒストリアに出来ることなのだ。

ルーメンの研究を聖女として手伝えるようにはなっていないが、しかしそれもいずれ成してみせると心に決めていた。


「幸せに……そうか。……この生活を楽しめているなら何よりだ」

ヒストリアの言葉を聞きルーメンは瞳を大きく瞠ったあと深く頷いた。

「まぁね。それにもし私の力が必要になっても助けてあげないって決めてるの。死ねって言われたも同然なんだから、それが私なりの復讐よ」

「それでいいのか?手足を切り落とさなくても?」

揶揄するような視線と共にルーメンが投げかけてくる。

「あれは本心だけど……いいのよ!」

以前、捲し立てるようにルーメンに横柄な態度で命令しようとしていた言葉が脳裏によみがえり、ヒストリアは思わず顔を背けた。

「悔しいし今も憎んでるけど。でも今はどうしようもないじゃない」


それから一息ついて、冷静に、自分に言い聞かせるように告げた。

「ヒストリア?」

「………分かってるのよ。雑に追放された意味も、ここで学んで薄々気付いたわ。私を公に断罪すると大聖女の信仰が深いシルドバーニュでは体裁が悪い……だから私の存在を消してから、王都に都合のいい作り話を流して納めようとしている」

山のように積まれた聖女に関する本や各国の歴史について学び、この土地で暮らし始め導き出した答えだった。


シルドバーニュほど聖女信仰の強い国は他にない。大聖女の後継者となろう者が、現大聖女を害そうなど前代未聞である。

聖女という権威を揺るがすうえに、平民出身の大聖女を害したというのがなにより事態を複雑化させる。冤罪といえど、もしも明るみになれば貴族に対する民衆の反発が一気に高まりシルドバーニュは大きく揺れることだろう。


自分の考えを口にしていると、ルーメンが真剣な眼差しでじっと見つめてきていることに気付いた。

「……なに?」

気まずいほどに熱烈としたものを感じさせるので、剣呑な面持ちで問えばルーメンは小さく零した。

「いや……随分と思慮深くなったものだと驚いただけだ」

「どういう意味よ!?」

食い入るように指摘したが、あっさりと無視され、その代わりに物々しい雰囲気を醸しながらルーメンは言った。

「……しかし君の推察は当たっているだろうな。この辺境にも噂が回ってきている」

「噂……?」

「どうやら君は、病気で長くないことになっているらしい」


それは次の大聖女になるはずだったヒストリアが重い感染症に罹患し余命幾ばくもないという話だった。どうやら本当に適当な話で誤魔化し、ヒストリアを存在しないものにしたいらしい。

「でも王妃様が退任されたらどうするつもりなのかしらね。あの人、まだ現役だけど退任したがってたわ……私以外に大聖女の聖印を持つ聖女なんていないのに、結界はどうなるの?」

「この国は聖女が多いからな…大聖女が誕生するまでは、聖力の高い聖女を王都に集めて繋ぎの体制を取るようだ」

「そんなこと出来るの?」

「他の国はそうしている。大聖女が途切れないのはシルドバーニュぐらいだからな」

ルーメンの説明は、理屈としては問題のないように思えた。

新たな大聖女候補が誕生するまで聖力の高い聖女を優先して王都に集め練度の高い高位の聖力で結界の核を守る。


しかし、唯一、ヒストリアの心を激しく揺さぶる名が上がり、その瞬間絶句した。

聖女らの取り纏め役としてエリザベート・フランドールが大聖女代理の地位を賜ったというのだ。

「ヒストリア、大丈夫か?」

ルーメンの声は遠く、ヒストリアはぶつぶつと呟いていた。


「お姉様が大聖女代理って、あの女…………やっぱり、無理……許せない……」

エリザベートは奉仕活動と称して孤児院に寄付するなど、民衆との距離が近く人気が高い。ヒストリアよりも大聖女らしいと言われてきた姉が、代理といえどついに大聖女の地位を得たというのだ。

「……でも、私は聖力のコントロールができない役立たずだったし、国にとっては良かったのかもしれないわ……ヒステリックで、嫌われ者だったものっ!」

王都の貴族らは国の方針が明確になったことで、さぞかし喜んだところだろう。

卑屈な考えが頭に浮かび、それはまた一つ、さらにまた一つと止めどなく沸き上がってくる。わなわなと声が震えた。


ヒストリアは辺境で幸せになると自分に言い聞かせていたが、しかし姉に立場を取って代わられたという現実を目の当たりにし、ガツンと何かで殴られたような衝撃を受けたのだ。

胸の奥でぞわぞわと不愉快な感情が蠢き気持ちが悪い。

「ヒストリア……」

「なによっ?いいのよ、別に。私はここで、そこそこ幸せで、ルーメンがいるしちゃんと生活できてる……」

目頭が熱くなり、無意識に向かい合うルーメンの手に縋っていた。

片手を強く握り締めヒストリアは乞うようにして訴えた。


「そうでしょ?わたし料理も出来るようになった!掃除も、猫の世話だって!仕事はルーメン頼りだけど、でもまわりから死ねって思われてるのに、死んでない!これってすごい事でしょう?ねぇ!褒めてよルーメン」

ヒストリアは唇を噛んだ。


少しは幸せだと感じれるようになったはずなのに、姉の名前たった一つで狼狽え、胸の奥に押し込めていたものが溢れ出す。

そんな自分の脆い感情に戸惑っていた。

「あなたが立ち止まらせてくれたから、自分の立場を受け入れて、そのうえで生きてる!ざまぁみろっ!あんた達の望みと逆のことをしてやったわ!そう言ってやりたい……!」

激しく心臓を掴んで揺らすほど悔しく思うのはなぜなのか。


「……私、ちゃんと抗ってる!そうよね?」

顔を歪めて訴えている子の姿を、目の前のルーメンには一体どのように映っているのだろうか。

項垂れて、掴んだ手に額を擦りつけながらヒストリアは悲痛の声を上げた。


「……ねぇ、ルーメン……わたし、生きてていいのかな……?」

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