仔猫はヒストリアの傍を離れない
夕食後の皿洗いを終え、ヒストリアがエプロンを外していた時、隣に立っていたルーメンが手を拭いながらおもむろに口を開いた。
「……名前はつけないのか?」
ルーメンの視線の先にはヒストリアの肩にしがみつくようにして乗っている子猫の姿がある。
この子猫はヒストリアが保護して以降、片時も傍を離れようとしなかった。
勉強しようと本を開けば当たり前のように膝に乗り、薬草の片づけをしていれば近くでじっと見つめ、調理や皿洗いに至っては軽やかな身のこなしで何度も駆け上ってくるため引き剝がすことに根負けし好きにさせていたのだ。
そして今日も当然のように皿を片付ける姿を肩の上から見つめており、ルーメンの問いかけに反応してヒストリアの答えを気にするかの如く耳に擦り寄り「にゃぁん」と鳴いた。
「名前なんてつけたら飼ってるみたいじゃない」
灰色の短い毛がむず痒く、ちらりと視線を流し眉根を寄せるとルーメンまでこちらを見ているのが分かった。
「違うのか?」
「言ったでしょう。出て行くまで世話してあげるだけよ」
「……なるほど。責任感があるのは悪くない」
ルーメンの低い声音にはどこか喜色を孕んでいる。
座りが悪くヒストリアは平静を装い咳払いしたあと、エプロンを畳み、いつも座る椅子の背に掛け置きながら付け加えるように言った。
「あなたは簡単に名前をつけたりするみたいだけど、私は違うの……」
言いながら、ふと影が落ちて振り返る。視線を上げれば、いつの間にか背後に居たルーメンの黄金色の瞳と重なる。骨ばった手がヒストリアの左手を掴み聖印があったはずの傷跡を撫でた。
「安易に預けた名じゃない」
「え?」
「君に提案した偽名は俺にとって大切な名だ。安易に預けたわけじゃない」
「そ、そう……」
まるでこの先も庇護下に置くと宣言するかのような言葉だった。真摯に訂正を入れようとする言葉は耳障りがよく、一方でルーメンに対しそれほどまでに影響を与えた人物はどんな人間だったのか、ヒストリアの中で興味が生まれた。
「君だから渡したんだ」
「分かったってば!」
ヒストリアは耳が赤くなるのを隠すように俯きルーメンの手を払う。
すると突然、肩に乗っていた子猫が毛を逆立て、ルーメンに対して「フーッ!」と唸り始めた。
「ちょっと、どうしたの?」
聞き慣れない威嚇の声を上げる子猫に当惑し、ヒストリアはややあってから腕の中に収めた。
しかし子猫はルーメンに向かって唸り続けていた。
「……君を困らせたからご主人様を苛めてると思われたのかもな」
ルーメンはさして驚いた様子もなく、小さく鼻を鳴らすとヒストリアから離れて言った。
そして回り込んでからヒストリアの向かいにある食卓用の椅子に腰を掛ける。肩肘をつき、今度ははっきりと面白がって子猫を眺めていた。
「まだ怒っているな。俺はご主人様に何もしないぞ」
ふっ、と笑い宥めているが、子猫は知ったことかと歯を剝きだしていた。
「……変な猫。ご主人様って、まるで犬みたい」小さな身体で守ろうとするなど、猫の本能として在り合えるのだろうかとヒストリアは疑問に思う。猫は気紛れ、犬は従順。そういったざっくりとしたイメージを漏らす。
「猫でも威嚇行動をとる時はあるらしい。仲間意識だったり、つまるところ家族と認めている場合にそういうことも起こる」
「私が、この子の家族……?」
「その子猫にとってはそうなんだろう。そして俺は悪者だ」
すっかり懐いてしまった腕の中の子猫に視線を落とす。単純な動物の本能をヒストリアは少しだけ羨ましく感じた。食事を与えて腹を満たし、身体を洗い、雨に打たれないよう屋根のある場所を提供する。保護されたことを素直に喜び、初めに見つけたのがヒストリアだったというだけで、たった数日で懐いた。
もしかするとこの先ヒストリアが居なくなることはないと信じてさえいるのではないだろうか。
自分も似たようなものだが、しかしそう単純にもいかないのが現状だ。安心すると同時に欲深くなるのだから。
「あなたは何でも知ってるのね」
「いや。実際は知らないことの方が多い……さぁ、そろそろ戻った方がいい。明日は森に入るから朝が早いぞ」
「そうね、森は遠いもの」
翌日、日が昇ってすぐに朝食をとったヒストリア達は森へと向かった。
国境の端にある辺鄙な場所から薬草が生息している森の入口までは徒歩で二時間ほどかかる。
長く歩くことになるため流石に子猫は留守番させようとしたが、そんなヒストリアの想いを無視して子猫はしがみついてきたので結局連れていくことになった。
いずれにせよ、ルーメンは子猫の同伴を駄目だとは言わなかったので今日もべったりとくっつかれている。溜息をつくヒストリアに対しルーメンの理知的な視線が一瞬和らいだ気がした。
初めて森へ出かけた時は散々だった。歩き疲れ、履物が擦れたり、虫に眉を顰めたり葉っぱで指を怪我するなど、とにかくヒストリアにとって森は脅威だった。
しかし同時に経験したことのない感覚を覚えていた。
疲れと裏腹にこみ上げてくるその感情をすぐに認めたくはなかったが、紛れもなくそれは爽快感だったのだ。厚い本を読み切ったあとのあの達成感に似た、身体を酷使したあとの大自然は王都で靴を汚したことのないヒストリアに大いなるものを与えた。
森には動物もいて、それを遠目で見るのも気に入った。目が合い、お互い観察しあう静かな時間は貴重なものだ。快と不快を同時に経験する森は、ルーメンがいなければ一度の経験で十分だとも思っただろう。しかしルーメンが傍にいて、時折話しかけてくれて、さまざまなことを教えてくれる時間はいつだってヒストリアの中で育ち始めた森への興味を後押ししてくれるのだ。
今回も同じ道のりを、いつもと同じ時間をかけて辿り着いた。
子猫は楽だ。ずっとヒストリアに乗っていたのだ。さらに到着したことが分かったのか、二人の雰囲気を察し地面へ飛び降りる姿には舌を巻かれた。
ルーメンの指示で日陰の多い木々が茂った場所まで少し移動する際中、子猫は付き従うようにヒストリアの足元を歩く。立ち止まるルーメンが荷物を下ろし、ヒストリアを見た。
「この辺りで採取をしよう。今日探すのは……」
「ママリ草でしょう?」
家を出る前に説明されていた薬草となる植物の名を遮るように言えば、ルーメンは頷き、魔法で小さくしていた図鑑を一冊取り出した。
「あぁ。この図のようにギザギザと尖った形の葉と棘のついた茎が特徴だ。色は光沢感のある深緑、いいか」
ページをめくり植物の絵が載っている場所を指しながらルーメンが言うことに深く頷いた。
「三度目だから覚えてるわよ。このママリ草と、あとはバッコの根を乾燥させて煎じたものが風邪に効くんでしょう?」
「その通りだ。棘に気を付けて採取してくれ」
「あなたといると瘴気の研究をしてるというより薬師なんじゃないかって思う時があるわ」
互いに背を向け屈み、別々の場所を見ながらヒストリアは声を掛けた。ひんやりとした木の根元に生えているというママリ草を見落とさないように目を凝らす。
「今はそれでいい」
「信頼を築くため、なのよね」
「そうだ」
一つ見つけてヒストリアは持ってきていたハサミで摘んだ。ルーメン曰く、また伸びるから抜かずに切ってくれという注意を受けていたのだ。別の場所を探し、ヒストリアがママリ草を探す姿を子猫は暫く眺めていたが、途中から花を見つけては叩くなどして遊び始めていた。
「でも何で薬草なの?」
採取用の籠に入れながらヒストリアが問う。
「ベリルが言っていた。この土地は空気が淀んでいると」
「瘴気の影響ってこと?」
「いいや。瘴気は結界で遮断されている。淀んでいるというのは、雰囲気のことだ」
ルーメンの言葉の意味を測り兼ねてヒストリアは首を傾げた。
「……暗いってことかしら?」
「まぁ、そうだな。ここには生きていくための最低限のものはあるが、それだけだ」
「そうなの?」
ヒストリアはまだ村の事をよく分かっていない。未だ積極的に関わっていないからだ。
ルーメンについて助手という名目で手伝いをしているが、新築祝い以降、関わる機会もなく、稀にルーメンについて村へ行っても村人達から警戒されている様子が窺えた。
「若い世代が少ないうえに村を出たがっているし、ベリルがまとめている他所から居ついた者達も安息さえ得ているがそれまでだ。村を発展させようといった先の事を考える人間がなかなかいない。それをベリルは問題視している」
「……つまり、ベリルは村を良くしたいの?」
意外な人物の想いにヒストリアは確認するように訊いた。
「あぁ。彼の言葉を借りるなら、生きていて楽しい場所にしたいそうだ。ヒストリア、村の空気を良くするためには何が一番大切か分かるか?」
ルーメンが採取の手を止めヒストリアを振り返った。
「お金かしら……?税収も厳しいわけだから、お金があれば暮らしは楽になるわ」
少し間を置いてから理由を述べるとルーメンは短く頷いた。
「そうだな。なら金を生み出すために必要なのは?」
「そうね……ここは貴族が好むような観光地じゃないから、特産品とか?ルキリュ領の中心地で売り出せるようなものを作れば発展するわ。都会に出せるものが必要よ。王城に献上されればもっと良いわ」
「それも必要だな。その前の段階はどうだ?特産品を作るためには何が要る?」
「人手と、アイディアかしら……分かったわ!この地区で調合した薬草を特産品にするってことね」
手元の薬草と問いが繋がり、ヒストリアはやや食い気味にルーメンの隣へ移動した。遊んでいた子猫もヒストリアの移動に併せて跳ねるように並んだ。
しかし返ってきたのは答えはヒストリアの予想を裏切った。
「いいや。一番大切なのは健康だ」
えっ、と思わず声を漏らす。
「健康?なにそれ、そんなの普通のことじゃない」
正解を突き止めたと考えていた矢先にどこにでもありそうな解が返ってきたことに、ヒストリアの声は不満気なものとなった。
「普通か……」ルーメンは呟いたあとヒストリアを見遣る。
「その普通が難しい。貴族は豊富な食材で栄養価の高いものを自然と食べれているが、他はそうじゃない。こんな辺境ならなおさらだ。知識がなければ、食べれればそれでよし、ともするだろう」
「……食べれたらいい、じゃいけないの?」
「なんとなく気分が悪い、風邪をひいてるが重症じゃない、イライラする、痛みはあるが傷があるわけでもない。そういう小さな負の積み重ねが精神に影響するんだ」
精神に影響と聞いて、ヒストリアは思い返した。
ここに追放されて飲まず食わずとなった数日間が一瞬過ったのだ。
「……大きな怪我をしたり、熱が出れば対応するだろうが、それほどでないからと勝手に判断してしまうような、そういう不調が溜まっていくと前向きな気持ちは沈下してしまう。長期的な眼で見れば健康でいることが空気の淀みを消すことに繋がるはずだ」
ルーメンの持論を聞いたヒストリアは心当たりがあった。どういう方法を取ったのか結局教えてもらえていないが、ヒストリアはルーメンに回復してもらい、そしてその後に食事を与えられた。水と食事で荒んだ心が滑らかになったのは確かである。
「じゃあ、薬草は村の人たちの健康のため?」
「あぁ。気軽に買えて、日々の暮らしを少しでも楽にするものとして安価で卸している」
ルーメン曰く、効能が確かな薬草を集め、スープに入れたりハーブティーとして日常的に使用できるようにと考えているらしい。
「……回りくどいけど、実感はあるからあなたの持論は理解したわ。命が守られている安心があると、違うものね」
「にゃぁ」
ヒストリアが笑みを零して言えば呼応するように目の前に飛び出し子猫が鳴いた。
青い目はらんらんとしている。
「あなたもそう思う?ならルーメンに感謝しなさい、私があなたにご飯をあげれるのはこの人のおかげよ」
手を伸ばし、子猫を撫でる。
手触りの良い毛並みを楽しんでいれば、ルーメンも子猫に触れようと手を伸ばしてきたが、その指先が届く前に子猫はツンとした顔で避けるようにしてヒストリアの後ろへ回り込んでしまった。
「……まだ怒っているらしい」
ぼそりと零すルーメンは珍しく困惑の色が混ざっており、それが面白くヒストリアは肩を揺らした。




