ヒストリアの価値
静かだった。
夜の帳が下り、ルーメンが去った部屋は身を捩ると寝台が軋む音を正確に捉えるほど、些細な音を容易く拾い上げていた。
ヒストリアは瞼をぎゅっと閉じて震える身体を抱きしめる。脳裏にへばり付いた男達の声を忘れようとしたが、乱暴で、粗雑で、礼儀もない彼らの言葉は剥がれることがなかった。
もしもルーメンやあの男……ベリルがいなければ、今頃どうなっていただろう。
想像するのも恐ろしく、身の毛がよだつ思いに頭を振った。
貴族でなくなった自分がこんなボロ屋でひとり生きるということは、そういうことなのだ。誰を頼り、誰を扉の中へ招き入れるか見極め自己責任で考え続けなければならない。
これまで自分が選んできた物事というのは、いかに陳腐だったか……安全な場所で、既に選別された洗練されたものの中から指を刺すのは簡単だ。いや、安全だということすら驕りで、根底から間違っていたのだ。
身分が与える権威は揺るぎないものではなかった。
本当にただの記号で、それは永久保証の代名詞ではなかったのだ。だからこんな場所に居る。
ルーメンは言った。大聖女の印は記号に過ぎないと。その言葉の真意が、理解できるような気がした。
信じたくないが、きっと他のことにも当てはまるのだ。生きている限り無縁のものだと考えていた平民に成り下がり、ある感情に辿り着く。
罪人で平民という記号を得たが、それだけがヒストリアをヒストリアたらしめるなど納得いかない。
夜が長いとこれほどまでに感じたのは初めてだった。
ーーーー翌日。ルーメンが現れたのは、まだ空が白みはじめたばかりの肌寒さが辛い時間だった。
浅い眠りを何度も繰り返しベッドから出るのも再び眠りにつくのももどかしくなっていた頃、土が擦れる音が聞こえたのだ。
足音だと気付き、なんとなくそれがルーメンだと思ったが、足音の主はノックするわけでも声を掛けるでもなく突如止んだ。
「ルーメン?」
扉の向こうに問いかけると「起きていたのか?」と返事があった。知っている声に安堵し開くと、扉の傍に腰を下ろしていたルーメンの姿があった。
「先に名を出して問いかけるのは良くないな。俺のふりをした偽物かもしれない」
そう言って立ち上がっては土を払った。
「そうね……気をつけわ」
早朝の外気が鼻を掠め、そわそわとした気持ちで頷くと、ルーメンは軽く小首を傾ける。
「妙にしおらしいな」
「っ……、私だっていろいろと気づいたのよ……!」
部屋に迎え入れたあと、ヒストリアは息をつき続けた。
「真実がどうあれ、私は追放された罪人の女、そうでしょう……ここではたったひと呼吸するだけで、税金を払うように細心の注意を払い続けなきゃならない。だけど何をどう注意すればいいか分からないから……あんたが言ったことは、一応、忘れないようにしようと思ったのよ」
ヒストリアは長い夜の末に辿り着いた言葉を勢いで吐き出した。自覚しなければいけない己の立場。そして、唯一ヒストリア自身に価値を見出し、手を差し伸べてくれた人。
少なくとも自分の身を守るため”今“選ぶべきはルーメンなのだ。
その考えに至らしめた昨夜の出来事が脳裏によぎり、心臓が強く打ち響くのを身体の奥で感じる。その不快感に俯き、勢い任せに訴えた。
「だから恐ろしかったのよ……!あんたは慰めもしないで出て行くし……」
思わず出た言葉は、本音だった。
またあの時もように『まさか慰めて欲しかったのか?』などと言われるかと身構えたが、しかしルーメンはヒストリアの目の前に佇んだまま、虚を突かれたように戸惑いがちに眉根を寄せていた。
「……それは、悪かった。あの後のことだ、男の俺が同じ空間に居るのは嫌だろうと考えて配慮したつもりだったが、逆に君を不安にさせたのか……そうか……」
先ほどまでヒストリアの中にあった気恥ずかしさは、初めて見るルーメンの考え込む真剣な表情によって次第に鳴りをひそめてゆく。
ルーメンの考えは一見筋が通っているが、感情を考慮しているようで実のところ感情を挟んでいない。そこには特別だとか例外だとか、そういったものがないのだ。
焦っていたことが馬鹿らしくなり、はぁ、と長い息をついた。
「……別に、もう良いわよ。あんたって意外とそういう情緒は鈍いのね」
それからの日々。建築資材が揃うまでの期間、ヒストリアは毎日訪れるルーメンと共に、食事をし、掃除や洗濯、そして皿洗いをするようになった。
生まれて初めての皿洗いは慣れない作業に何度も落とした。幸い、邸で使っているような陶磁器と違い、木製のため割れることはない。ヒストリアはこれまで皿は美しく磨かれていることが当たり前だと考えていた。万が一にも欠けを見つければ決まってこう言う。
「私になら見つからないと思ったの?馬鹿にしないでちょうだい!」
そして酷く責め立てたあとは扇子で頬を叩いた。
大聖女の印が出現してから、父のいないところで使用人から嫌がらせを受けるようになり、その度に姉が「嫉妬なのよ……ヒストリアにも私と同じ対応をするよう注意しておくわ」と庇うため、自分は嫌われていて姉だけが好かれているのだと信じていたのだ。
「お父様に遠慮せず、あなたが直接気持ちを伝えても良いのよ、だってただの令嬢じゃないもの。あなたは大聖女になるのだから威厳を持って対応していいの。ヒストリアを軽んじることなんて許されないわ」
そんな風に言われれば、姉の言い方が妙に気になって、自分は軽んじられていたのかと使用人に対して疑念を抱くようになった。そして相手を強く非難し、辞めさせることを学んだ。威厳を保つため、感情のままに扇子で初めて人を叩いた時は後悔したが、その腹いせか毒物をスープに仕込まれ、口にする前に気づいたヒストリアは怒り狂った。制裁として犯人と思われるメイドに毒を口にさせ、フランドール家から追放し、自分を軽んじる言動を察知すると全て跳ねつけるようになっていった。
それが日常になったころ、裏で姉が糸を引いていたと知る事になるのだが、その時にはもうどうしようもなかった。自分と姉の立場は固まっていたのだ。
『傲慢でヒステリックない妹と、女神のように慈悲深い姉』
ヒストリアにはどうすることも出来なくなっていた。これまでの自分の言動が作り上げたものは、姉の扇動で引き起こされたものと訴えるには説得力がまるでない状況だと、それぐらいは分かっていたのだ。
むしろ警戒心は高まり、全てが自分を陥れるための布石のように思え、軽んじられているような行動が見受けられれば、確かめることなく一方的に決めつけ強い威嚇行動に出た。
その一つが皿にも現れていたが、自分で洗って気づくことがある。使ったり洗っていれば欠けることがあってもおかしくないのだと。意図的かもしれないが、偶然だったのかもしれない、後者を鑑みる勇気を持てなかったことを今更ながらにヒストリアは悔いた。
食事だけはルーメンが作ってくれている。手伝うと申し出たが「まだ早い。いっぺんに全て覚えようとしなくていい」と言われたのだ。
ヒストリアは食事中、気になっていたことを口にした。
「ねぇ、料理している時に使ってるあの角砂糖みたいなもの、あれは流通しているものなの?」
ルーメンはスプーンを置くとローブの中から小瓶を取り出した。
近くで見ると切り出された石のように滑らかで、砂糖よりも温かな乳白色をしている。
「いや、これは魔法でミルクを固体にしてから圧縮したものだ」
「圧縮……?ミルクを?」
「認識としては塩と同じようなものだと思えばいい。塩を作るときは海水から水分を抜く。その方法は煮たり天日干しにしたりだが、要するにその原理でミルクから余分な水分を飛ばして作るんだ。初めは粉状のものを使っていたが俺が調理にするぶんには不向きで、最終的にこの形になった」
滑らかに説明された言葉を脳内に描いたあと、ルーメンが「目分量というのが苦手なんだ」と告げるので、確かにそういう気質がありそうだとヒストリアは頷いた。
「料理は誰から教わったの?」
「……師匠だ。だがあの人は目分量で測って失敗するからな、美味い時と失敗した時の落差が激しかった。だからこうやって一人分として固形状にしてしまった方が、水量さえ間違えなければ同じ味が作れるから便利なんだ」
ルーメンの声音には喜色が滲んでいた。
「じゃあ水は……?汲みに行った様子がないけれど何かしているの?」
ふと視線を水瓶に移す。それはルーメンが訪れるたびにいつも水嵩が増しているのだ。
「あぁ、魔法だ。収縮して保存した水を元の量に戻している。君は魔法使いが万能だと思っているようだが、使える魔法には個性がある。俺の魔法は拡張と収縮に関与する力だ」
「どういうこと?もっと分かりやすく言ってちょうだい」
「たとえば火の気のないところから炎を生み出すことなどは出来ない。水もそうだ。逆に一粒でも素材があれば増やしたり加工することができる。君の服のようにな」
なるほど、とヒストリアは独り言ちた。
ワンピースを贈られた時、小さな葉に向けてルーメンが何かささやいていたのはそういうことだったのだ。
「たとえば天候を操作する魔法を扱う者もいれば、動物に姿を変える力を持つ者もいるという。魔法には個性がある。当然制約もある」
「だから万能じゃないってことね……そういうの、普通の人は知ってるの?」
「魔法に個性があることはな。扉を開いた災禍の魔法使いは、繋ぐ力を持っていたという」
「繋ぐ……それって、異界と繋がっているというのは本当なの?瘴気はそこから出てるって……」
聖書の一説にあった文章を思い出す。
口にすれば背信者と指をさされるため一度も口にしたことはなかったが、これまでヒストリアはどこか作り話のように感じて疑っていた。
「昔の話だからな、どこまで正確か怪しいがきっとそうだろう。そして繋ぐ力を持った魔法使いはこの世にもう居ない。そして閉じる力を持った魔法使いの存在も聞いたことがない、だから瘴気は蔓延り続ける」
確かに魔法使いが万能ならば、瘴気を生み出す扉も彼らによって閉じさせればよかったのだ。それが出来ないから瘴気は存在するのだ。しかし対抗する聖女はいる。
そしてルーメンは言っていた。
『瘴気の研究をしているが聖女に試してみたいことがある』と。
「ねぇ、私は最終的に自分で生活できるようになって、生きるために働いてお金を得ないといけないのよね」
「そうだな」
「だったら私、あんたのところで働くのは駄目かしら?」
ヒストリアは思いついたことを口にした。
「正直言って平民に頭を下げて仕事をもらうのはまっぴらごめんよ。でも、……ルーメンなら、……」良いという話ではないが、この先の事を考えればマシな選択だと考えたのだ。
何より信用できる唯一の存在なのだから。
「研究に協力するということか?」
「そうね……痛いのは嫌だけど、あなたが要求することには応えようと思うわ。私には価値があるんでしょう?」
以前ルーメンに要求した対価とは違う。今度はヒストリア自身が生きるため。
そのための提案だった。
「この前は復讐に加担しろと言ったが、かなり小さな対価になったな……まぁ、いい。君が協力してくれるというなら俺の研究も捗るだろう」
ヒストリアの前に手が差し出された。
ルーメンの、ごつごつとした大きな手だ。そっと握り返しヒストリアは眉根を下げた。
厄介な相手に出会ってしまった。絶望していたヒストリアに、ルーメンは希望を持ってやってきたのだ。与えられた水と、ヒストリアに価値があるという言葉は紛れもなく希望だった。
あの瞬間、死にたいと打ちひしがれていた絶望はあっけなく砕かれていたのかもしれない。
「助手になるなら他にもいろいろ覚えてもらいたい事がある」
ヒストリアは短く微笑んだ。
今度は掴む手を間違えないようにしたい。




