第八話 死者の出席を世界は認めない
朝六時四十二分。
学生寮の自室から出ようとした俺は、扉に拒絶された。
電子音とともに、赤い警告文が表示される。
――認証失敗。
――当該居住者は死亡しているため、室外への退出権限がありません。
「……何だこれ」
もう一度、学生証を認証盤へかざす。
――認証失敗。
――死亡者による不正利用の可能性を検出。
――大学保安局へ通報します。
「本人だよ!」
扉へ向かって叫んでも、機械は答えない。
死亡者が部屋の内側から反論する事例は、想定されていないらしい。
俺は構内端末を取り出す。
学生情報を開く。
――氏名、黒瀬零。
――所属、法則災害学群一年。
――在籍状況、死亡。
――死亡時刻、本日十八時四十三分。
俺は画面を見つめた。
「本日?」
今は午前六時四十三分。
死亡時刻までは、およそ十二時間。
まだ死んでいない。
なのに、大学の記録では既に死者として処理されている。
端末が震えた。
九条澄玲からの着信。
『黒瀬零。現在、どこにいますか』
「自分の部屋に閉じ込められてる」
『外出してください。緊急です』
「死亡者には退出権限がないらしい」
数秒の沈黙。
『理解不能です』
「俺もだよ」
『窓は?』
カーテンを開ける。
学生寮の十二階。
地上までは四十メートル以上ある。
「開くけど」
『そこから出てください』
「お前、俺を助けたいのか殺したいのか、どっちなんだ」
『不定墜道の実地運用に適した高さです』
「朝から実験扱いするな」
『死亡予定時刻まで十二時間を切っています。通常の避難経路へこだわる合理性はありません』
「今、死亡予定時刻って言ったか?」
窓の外。
隣の建物の屋上に、銀色の髪が見えた。
澄玲が立っている。
片手に端末。
もう片方の手には、白い板状の物体。
「どうしてそこにいる」
『あなたの学生情報が、午前六時三十分に死亡へ変更されました』
澄玲が白い板を空中へ投げる。
それは落下せず、俺の窓へ向かって水平に移動した。
『《未定義現象研究室》へ急ぎます。飛び降りてください』
「言い方を変えろ!」
『窓から退出してください』
「ほとんど変わってない!」
廊下側の扉からは出られない。
保安局へ通報までされている。
選択肢はなかった。
俺は窓枠へ足をかける。
「朝一番から、やることじゃないだろ……」
『三秒後、寮の外壁清掃装置が通過します』
「それを先に言え!」
窓から跳ぶ。
身体が重力へ引かれる。
冷たい朝の風。
下には、通学途中の学生たち。
何人かが俺に気づき、上を見た。
「未証明!」
落下という《結論》が停止する。
身体が空中で止まる。
外壁を移動していた清掃装置が接近した。
回転するブラシを避け、その側面を蹴る。
反作用で隣の建物へ移動。
澄玲が作った白い板へ手を触れる。
それは立つための足場ではない。
目的地までの経路を一瞬だけ成立させた、世界は解を持つの解答だ。
俺は板を押し、方向を変える。
「終われ」
未証明を終了。
別方向への落下が始まる。
空中で再発動。
次の白い板へ接触。
方向転換。
終了。
数回の落下をつなぎ、屋上へ着地する。
「成功です」
澄玲が端末へ記録する。
「朝の挨拶より先に記録を取るな」
「おはようございます」
「順番が逆だ」
澄玲は俺の顔ではなく、胸元を見ていた。
「黒瀬零。上着を開いてください」
「いきなり何を言ってる」
「心臓付近に異常な法則反応があります」
昨日、《地殻演習区》第五層から帰ってきた後。
胸に違和感はあった。
だが、訓練の疲労だと思っていた。
上着のボタンを外す。
シャツ越しにも分かる。
左胸。
心臓の真上に、黒い円形の痣が浮かんでいる。
「昨日より大きくなってる」
「昨日から存在したのですか」
「小さな痣だと思ってた」
「なぜ報告しなかったのですか」
「打撲だと思ったからだ」
「空中戦闘後に原因不明の痣を発見したなら、報告すべきです」
「母親みたいなこと言うな」
「あなたの母親ではありません」
「分かってる」
澄玲は端末を痣へ向ける。
測定値が次々と表示された。
体温、正常。
血圧、正常。
心拍数、正常。
組織損傷、なし。
しかし。
――生存状態、不明。
「不明?」
「生体反応は正常です。ただし、存在判定上は死亡状態として処理されています」
「生きてるのに死んでる?」
「正確には、肉体は生存していますが、黒瀬零という人物へ死亡という《結論》が割り当てられている」
澄玲は俺の胸元を見つめる。
「この痣は傷ではありません」
「なら何だ」
「死因です」
◇
俺たちは《未定義現象研究室》へ急いだ。
問題は、大学のシステムが俺を死亡者として扱うことだけではなかった。
食堂へ入ろうとすれば、自動扉が開かない。
通学用の無人車両へ乗ろうとすれば、
――死亡者には運賃が発生しません。
と表示され、車両そのものが俺を認識しない。
自動販売機へ学生証をかざせば、
――故人への飲料販売は、大学倫理規定により制限されています。
「どんな倫理規定だよ」
「死者への商業的搾取を防ぐ規則でしょうか」
「飲み物一本だぞ」
「死後に契約を結ばせる悪質な商法が過去に存在しました」
「この大学、変な事件が多すぎないか?」
結局、澄玲が二人分の飲料を購入した。
俺が受け取ろうとすると、容器の自動所有権認証が反応する。
――譲渡先が存在しません。
「飲み物すら受け取れないのか」
「手動設定へ切り替えます」
澄玲が容器の認証機能を無効化した。
「借り一つだな」
「百三十円です」
「細かいな」
「返却してください」
研究室へ入ると、神代緋月と天城朔夜が待っていた。
緋月の前には、俺の死亡情報が大きく表示されている。
「来たわね」
「教授は知ってたんですか」
「昨日の時点で、死亡可能性の提示を受けていた」
「どうして教えなかった」
声が強くなる。
緋月は俺から目を逸らさない。
「提示されたのは、確定未来ではなかった」
「今日の死亡時刻まで出てる」
「だから今、伝えるつもりだった」
「記録が先に伝えてきたけどな」
「その点は謝罪する」
予想外の言葉だった。
緋月は言い訳をしなかった。
「重大な危険情報を本人へ伝える時期を、私の判断で遅らせた。研究倫理上、正しい対応ではなかった」
「研究倫理」
天城先輩が甘いパンの袋を開けながら言う。
「教授、そういうところだけは妙に真面目ですからね」
「そういうところだけ、とは何」
「他が雑だとは言ってません」
「言っているのと同じよ」
普段なら笑えるやり取りだ。
今はそんな気分になれない。
「俺は本当に死ぬのか」
「現在の予測では、本日十八時四十三分に死亡する」
緋月が答える。
「確率は?」
「確率という形式では測定できない」
「どういう意味ですか」
澄玲が尋ねる。
天城先輩が画面を切り替えた。
複数の未来予測が表示される。
未来予測といっても、占いや予言ではない。
現在の法則、因果関係、人物の行動傾向を基に、成立しうる未来を計算したものだ。
通常は、無数の可能性が枝分かれして表示される。
大学へ行く未来。
寮に残る未来。
《公開査問》へ参加する未来。
参加しない未来。
だが。
どの枝も、最後は同じ一文へつながっていた。
――十八時四十三分、黒瀬零死亡。
「行動に関係なく、結果が同じ?」
「正確には、行動を変えるたびに死因が変化します」
天城先輩が一つの未来を開く。
――十八時四十三分、心停止。
別の未来。
――十八時四十三分、頭部損傷。
さらに別の未来。
――十八時四十三分、存在情報消失。
――十八時四十三分、過去改変による出生取消。
――十八時四十三分、観測不能化。
「何だよ、これ」
「死ぬ原因が決まっているのではありません」
澄玲が画面を見ながら呟く。
「死ぬという《結論》が先にあり、それを成立させる原因が後から選ばれている」
「その通り」
緋月が頷く。
「通常の因果関係は、原因が先にあり、結果が後に生じる」
彼女が空中へ一本の線を描く。
刃が振り下ろされる。
心臓が傷つく。
人間が死亡する。
「しかし、現在のあなたには逆の現象が起きている」
線が反転する。
人間が死亡する。
その結果を正当化するため、心停止や事故、存在消失といった原因が過去へ向かって形成される。
「《結論遡及》」
緋月は現象名を表示した。
「確定した《結論》が、自らを成立させる《前提》と《論証》を過去側へ生成する法則災害よ」
「俺が死ぬと決まっているから、大学の記録も先に死亡扱いへ変わった?」
「ええ。死亡という《結論》に現実を合わせるため、周辺情報から修正が始まっている」
「それが、この痣」
俺は左胸へ触れる。
「《終端痕》と呼ばれる現象に近い」
天城先輩が言う。
「肉体的な傷ではなく、結末が身体に浮かび上がったものです」
「近い?」
「完全には一致しません。通常の《終端痕》は、本人の死亡原因を示します。心臓病なら心臓。斬首なら首。焼死なら全身」
天城先輩は俺の胸へ視線を向ける。
「でも、黒瀬君の痣は死因を示していない」
「何を示している」
「中心点です」
「中心?」
「黒瀬零という人物が、どこから死亡へ書き換えられているか。その起点です」
心臓ではない。
魂でもない。
俺という人物の中心。
痣はそこへ付けられた印だという。
「消せないのか」
「教授の万象校正で試しました」
緋月が眼帯へ触れる。
「結果は?」
「失敗した」
彼女の能力は、観測された矛盾を、既存の法則や記録に基づいて最も整合的な状態へ修正する。
しかし現在。
記録上の俺は死亡している。
肉体だけが生きている。
「私の万象校正から見れば、矛盾しているのはあなたの生存側よ」
「痣を消そうとすれば」
「あなたの身体が死亡状態へ校正される」
「役に立たない能力だな」
「あなたを殺さないために使わなかった。感謝しなさい」
「冗談だよ」
「面白くない」
緋月は本気で不機嫌そうだった。
「未証明は?」
俺は尋ねる。
「死という《結論》を保留する」
「試す価値はあります」
澄玲が言う。
「ただし、現時点では死が発生していません。黒瀬零が認識すべき確定直前の《結論》が存在しない」
「死亡時刻にならないと使えない?」
「おそらく」
十八時四十三分。
あと十一時間。
「それまでに、別の《結論》を用意する必要がある」
緋月が言う。
「あなたが死なないというだけでは不十分よ」
「なぜですか」
「未証明は、結果を無条件に消す力ではない」
別の実現可能な《結論》を作り。
俺自身がそこへ到達する。
「死ぬ代わりに、生きる」
「それでは単なる反対語よ」
緋月が否定した。
「何をもって生存とするのか。死亡へ至る《論証》を、どのように別の《論証》へ置き換えるのか。それを定義しなければならない」
「死因は、その場で変わるんだろ」
「だから難しい」
天城先輩が言う。
「心停止を防いでも、頭上から隕石が落ちるかもしれない。隕石を避けても、過去が書き換わるかもしれない」
「全部に対策はできない」
「原因を相手にしてはいけない」
澄玲が小さく呟く。
「死という《結論》そのものへ、別の解釈を与える必要があります」
「死を別の意味にする?」
「現時点では仮説です」
俺は灯の学生証を取り出した。
《第二証明》の進行度は五八パーセント。
画面を開いた瞬間。
新しい文字が表示された。
――本日十八時四十三分。
――黒瀬零は死ななければならない。
「試験の一部か」
「可能性が高い」
緋月が言う。
「続きがあります」
澄玲が画面を指す。
――黒瀬零の死を否定してはならない。
――黒瀬零の死を受容してはならない。
「また矛盾した条件か」
「死を否定しても失敗。受け入れても失敗」
天城先輩がパンを咀嚼しながら画面を見る。
「厄介ですね」
「先輩、こんな状況でも食べるんですね」
「糖分は思考に必要です」
「それ、昨日教授も言ってたな」
「研究者にとって糖分は燃料です」
「燃費が悪そうだ」
俺は学生証の文章を見つめる。
死を否定してはならない。
死を受容してはならない。
つまり。
死なずに逃げるだけでも駄目。
素直に死んでも駄目。
別の答えを作れ。
そういう試験だ。
◇
午前十時。
俺は講義へ出席した。
「本当に行くのですか」
講義棟の前で、澄玲が尋ねた。
「必修だ」
「死亡予定日に単位を気にする必要がありますか」
「死ぬと決まったわけじゃない」
「大学の記録上は既に死亡しています」
「だからこそ出席する」
学生証を講義室の認証盤へかざす。
――認証失敗。
――死亡者は履修登録できません。
「先生に直接言う」
扉を手で開ける。
中では《命題基礎論Ⅰ》の講義が始まるところだった。
昨日と同じ白髪交じりの教授。
俺を見ると、眉を上げる。
「黒瀬君」
「出席しに来ました」
「名簿では、君は死亡となっている」
「生きてます」
「見れば分かる」
教授は端末を操作する。
「しかし、大学システム上、死者へ出席点を与えることはできない」
「そこを何とか」
「規則は規則だ」
「俺、ここにいるんですけど」
「存在と履修資格は別問題だ」
大学は人命より単位制度の方が強いらしい。
講義室の学生たちがざわつく。
「あいつ、今日死ぬって表示されてる奴だろ」
「どうして講義に来てるんだ」
「死ぬ前に出席回数を稼ぎたいんじゃないか?」
「死んだら単位いらないだろ」
「大学院へ行くなら必要かも」
死後に進学する予定はない。
教授はしばらく俺を見た後、黒板へ一文を書いた。
――黒瀬零は講義へ出席している。
「諸君」
教授が講義室全体へ呼びかける。
「本日の題材が自分から歩いてきた」
「俺を教材にしないでください」
「命題研究では、現物を観察できる機会を逃すな」
「本人の同意は?」
「今から取る」
教授は俺を見る。
「同意するかね」
「断ったら?」
「欠席扱いだ」
「既に死亡扱いじゃないですか」
「では、死亡欠席だ」
「何が違うんだ」
「理由欄が異なる」
どうでもいい。
「……同意します」
「よろしい」
教授は黒板へ、もう一文を表示した。
――黒瀬零は死亡している。
二つの文章が並ぶ。
黒瀬零は講義へ出席している。
黒瀬零は死亡している。
「現在、この二つは大学記録上、同時に真である」
一人の学生が手を挙げる。
「矛盾しているなら、どちらかが誤りでは?」
「古典論理ではそうなる」
教授が答える。
「一つの命題と、その否定が同時に成立すれば、論理体系全体が破綻する。これを爆発原理と呼ぶ」
空中に式が表示される。
ある命題が真。
同じ命題が偽。
その矛盾を許せば、無関係なあらゆる《結論》さえ導ける。
「しかし、《大公理崩壊》以降、現実は必ずしも単一の論理体系へ従わない」
教授は二つの文章の間へ線を引く。
「矛盾が存在しても、世界全体が崩壊しないように扱う論理を、矛盾許容論理という」
「黒瀬君は、生きていて死亡している?」
「現時点では、そう扱う方が現実に近い」
教授の視線が俺へ向く。
「黒瀬君。君は自分が生きていると証明できるか」
「ここで話しています」
「会話を行う死体が存在しないと、証明できるか」
「心臓が動いています」
「心臓が動くことを、生存の必要十分条件と定義できるか」
「できません」
「では、記憶があることは?」
「記憶を持つ死者が存在しないとは言えない」
「その通り」
教授は黒板へ大きく書く。
生存とは何か。
「人間は、生と死を明確な二択として扱いたがる。だが、その境界は思うほど単純ではない」
心停止していても、蘇生可能なら生きているのか。
脳機能が停止した人間を、生者と呼ぶのか。
肉体が消えても、記憶や人格が保存されていれば存在しているのか。
全員から忘れられた人間は、世界に存在していたと言えるのか。
灯。
俺は妹のことを考える。
記録から消え。
他人の記憶から消え。
肉体がどこにあるのかも分からない。
それでも俺は、灯が存在していると思っている。
「死とは、単に生命活動が停止することではない」
教授が言う。
「誰かを死者として確定するためには、その人物が今後、新しい行為を選択しないと判断される必要がある」
「行為を選択しない?」
「死者は、新しい答えを出さない」
その言葉が胸に残った。
「残された記録は変化しない。過去の行動も変わらない。他者の中に残る印象も、本人の意思では更新されない」
死とは。
身体の停止ではなく。
選択が終わること。
「だから社会は、死者を確定した存在として扱う」
教授が俺を指す。
「現在の君には、未来の選択が存在しないと世界が判断し始めている」
大学の記録が俺を死者にした。
扉が俺を認識しない。
飲み物の所有者になれない。
それらはすべて。
俺がこれ以上、何も選べない存在として処理されているから。
「なら」
俺は口を開く。
「十八時四十三分以降も、何かを選べばいい」
教授の目が細くなる。
「それを、どのように証明する?」
「その時になってから考えます」
「零点の回答だ」
「厳しいな」
「だが」
教授は黒板の文章を消した。
「研究課題としては悪くない」
◇
午後三時。
《未定義現象研究室》では、死亡時刻へ向けた準備が進んでいた。
場所は、《法則検証室》。
室内の物理的な危険物は、すべて撤去。
壁、床、天井には、緋月の万象校正を補助する整合性固定装置が設置されている。
俺は中央の椅子へ座っていた。
「動くなよ」
天城先輩が胸へ複数の測定端子を貼りつける。
「死因が変化するなら、止まっている意味はありますか」
「少なくとも転倒死の可能性は減る」
「椅子が爆発するかもしれない」
「縁起でもないこと言わないでください」
「可能性の話です」
「九条さん、今日はいつも以上に容赦ないですね」
「黒瀬零が楽観的すぎます」
「楽観してるわけじゃない」
俺は胸の《終端痕》を見る。
朝より大きくなっている。
黒い円は、直径五センチほど。
中心には、針のような白い点。
死亡時刻が近づくにつれ、点が拡大している。
机の上には、灯の学生証。
進行度は五八パーセントのまま。
「獅堂は?」
俺が尋ねる。
「連絡していません」
澄玲が答える。
「どうして」
「明日の《公開査問》の対戦相手です。あなたの能力情報を過剰に提供すべきではありません」
「昨日は一緒に訓練しただろ」
「あれは相互の命題理解を目的とした正式な情報共有です」
「俺が死んだら査問も中止だ」
「だからといって、対戦者を危険な未定義現象へ巻き込む理由にはなりません」
研究室の扉が大きな音を立てて開いた。
「勝手に決めるな!」
獅堂剛毅が入ってきた。
「どうしてここが分かった」
「教授に聞いた」
獅堂の後ろで、緋月が片手を上げる。
「情報管理は?」
澄玲が責めるように言う。
「獅堂剛毅も関係者よ」
「明日の対戦相手です」
「黒瀬零が死亡すれば、《公開査問》の研究計画そのものが消滅する」
「研究計画を理由にするのか」
俺が言う。
「大学では最も通りやすい理由よ」
緋月は悪びれない。
獅堂が俺の胸元を見る。
「本当に出たのか」
「何か知ってるのか?」
獅堂は答えない。
「昨日、《地殻演習区》第五層で誰かに会ったな」
俺が尋ねると、獅堂の表情が僅かに動いた。
「どうして分かる」
「生命反応が四人だった。帰る時には三人へ戻ってた」
「黒い服を着た、仮面の奴だ」
「何を言われた」
「お前が今日死ぬ」
「それだけか?」
獅堂は拳を握る。
「俺がお前を助ければ、《第二証明》は失敗する」
研究室の空気が止まった。
「助けるなと言われた?」
「正確には、俺にお前を支えろと言った」
「矛盾しています」
澄玲が言う。
「続きがある」
獅堂は俺を見る。
「お前が望む場所へ立たせるな、とも言われた」
「黒瀬零を支えながら、本人が選んだ場所へ到達させない」
「地面と同じだ」
俺は言う。
獅堂の万象は我が礎。
他者を支える。
しかし、その位置と行き先は獅堂が決める。
「試験は、私たちの能力と思想を利用しています」
澄玲が分析する。
「黒瀬零は、自ら《結論》を選ぶ。獅堂剛毅は、他者の位置を定める。その対立を再現しようとしている」
「黒瀬を助ければ失敗。死なせても失敗」
天城先輩が呟く。
「獅堂君へも二択を押しつけているわけか」
「俺は従わない」
獅堂が即答した。
「助ければ試験に失敗するぞ」
「お前を死なせれば、明日の査問で勝てない」
「理由はそれだけか?」
「それで十分だ」
獅堂は俺から目を逸らさない。
「俺は、お前を倒すためにここへいる。顔も知らない奴が決めた《結論》へ、お前を渡す気はない」
単純で。
乱暴で。
どこまでも獅堂らしい答えだった。
「なら、協力してもらう」
「命令するな」
「俺が決めた場所へ立たせてくれるか」
「断る」
「さっき助けるって言っただろ」
「お前の言うことへ従うとは言ってない」
「面倒な奴だな!」
「お前にだけは言われたくない!」
「二人とも静かにしてください」
澄玲が言う。
「死亡まで三時間を切っています」
◇
午後六時三十分。
死亡時刻まで十三分。
室内に設置された時計が、一秒ずつ数字を減らしていく。
《終端痕》は、左胸全体を覆うほど拡大していた。
白い点も、硬貨ほどの大きさになっている。
心拍数は正常。
呼吸も正常。
だが。
大学の記録から、俺に関する情報が少しずつ消え始めている。
履修履歴。
入学試験の記録。
寮の居住情報。
写真。
俺が講義で発言した記録。
朝の授業で教材にされたことさえ、名簿上では「氏名不明の死亡者」と書き換えられていた。
「灯と同じだ」
俺は画面を見ながら呟く。
「何がですか」
「記録から消えていく」
三年前。
灯も、こうやって世界から消えたのだろうか。
最初に情報が変わり。
次に記憶が変わり。
最後に。
存在していたという事実そのものが失われる。
「九条」
「はい」
「俺のことを覚えてるか」
「当然です」
「天城先輩」
「黒瀬零。一年生。危険な命題を持つ後輩」
「教授」
「質問の意図は分かっている」
緋月は答えた。
「現時点では、全員があなたを記憶している」
「獅堂」
「明日、俺に負ける男」
「余計な情報が入ってる」
「事実だ」
少しだけ、呼吸が楽になった。
死亡時刻まで十分。
室内の照明が明滅する。
整合性固定装置が警告音を発した。
「法則圧力、上昇」
天城先輩が叫ぶ。
「《第一宇宙観測環》から、逆方向の観測が来ています!」
「遮断して」
緋月が命じる。
「できません! 観測経路が黒瀬君本人へ固定されています!」
黒い月。
巨大な目。
あの外側の何かが。
再び俺を見ている。
死亡時刻まで八分。
床へ影が落ちた。
人型の影。
俺のものではない。
室内の中央。
誰も立っていない場所から、黒い血が流れ始める。
「来るぞ」
獅堂が両足を踏みしめた。
金色の線が床へ広がる。
「万象は我が礎!」
床が隆起し、黒い血を囲う。
だが。
血は岩の内側を通り抜けた。
「物質ではない」
澄玲の瞳に数式が浮かぶ。
「《終端痕》と同じ。《結論》が先に投影されています!」
血の中から、腕が現れる。
続いて。
頭。
胸。
脚。
一人の人間が、床からゆっくりと立ち上がる。
黒瀬零。
俺と同じ顔。
同じ身長。
同じ服。
ただし。
左胸には大きな穴が開いている。
心臓が存在しない。
「昨日、見た奴だ」
《地殻演習区》第五層。
石碑の横に立っていた人影。
あれは。
未来の俺ではない。
死んだという《結論》を与えられた俺。
「生命反応、四」
澄玲が呟く。
「あの時から、既に存在していた?」
「違う」
緋月が答える。
「存在していたのではない。存在することが決まっていたから、過去の観測へ混入した」
死んだ俺が顔を上げる。
光のない目。
口が動く。
『黒瀬零は死亡した』
声は、俺自身のものだった。
『ゆえに、生存する黒瀬零は誤りである』
室内全体が歪む。
俺の輪郭が薄くなる。
指先が透けていく。
「黒瀬零!」
澄玲が俺の腕を掴もうとする。
だが、手がすり抜けた。
「接触できません!」
「俺が死者側へ書き換わってる」
胸の《終端痕》が脈打つ。
死んだ俺の胸の穴と、位置が一致する。
『訂正を開始する』
死者が、一歩近づく。
俺の心臓が止まった。
痛みはない。
ただ、身体の内側から音が消える。
「心拍停止!」
天城先輩の声。
呼吸ができない。
視界が暗くなる。
まだ十八時四十三分ではない。
時計は。
十八時四十二分、三十四秒。
死という《結論》が、原因を作り始めた。
「万象校正!」
緋月の右目を覆う眼帯の下から、赤い文字が溢れる。
心停止。
生存反応。
死亡記録。
矛盾する情報が、室内を埋め尽くす。
「黒瀬零の生存状態を、現在の生体記録へ校正!」
心臓が一度だけ動く。
強い痛み。
だが、すぐに止まった。
「駄目……!」
緋月の右目から血が流れる。
「死亡側の記録が強すぎる!」
「なら、記録を問題として定義します!」
澄玲の瞳に、白い文字が高速で走る。
「問題――黒瀬零が十八時四十三分以降も選択可能な状態で存在するための経路!」
白い線が空中へ現れる。
俺から。
死んだ俺へ。
そして、時計へ。
だが経路は途中で途切れている。
「解が完成しません!」
「何が足りない!」
「黒瀬零自身の位置が定義できない!」
俺はここにいる。
椅子の上。
研究室の中央。
だが。
同じ部屋に、もう一人の黒瀬零がいる。
生きている俺。
死んでいる俺。
どちらも同じ人物。
世界は、二人を一つへ統合しようとしている。
『黒瀬零は一人である』
死者が言う。
『一人の黒瀬零は死亡している』
論理としては正しい。
俺が黒瀬零であり。
あいつも黒瀬零なら。
死者と俺は同一人物。
ならば俺も死んでいる。
「違う」
声が出ない。
口だけが動く。
死者が、さらに近づく。
時計。
十八時四十二分、五十秒。
残り十秒。
「黒瀬!」
獅堂が叫ぶ。
金色の地面が、俺の足元へ広がる。
「お前の位置を固定する!」
「駄目です!」
澄玲が止める。
「獅堂剛毅が位置を定めれば、黒瀬零自身が選んだ《結論》にならない!」
「このままじゃ死ぬ!」
「しかし試験条件は――」
「試験なんて知るか!」
獅堂が床を踏み鳴らす。
「俺が支える!」
金色の線が俺の身体へ届く。
上下。
位置。
存在。
獅堂の法則が、俺をこの場所へ固定しようとする。
死んだ俺と統合される前に。
俺を生者として立たせる。
だが。
黒衣の人物が言った。
俺が望む場所へ立たせるな。
獅堂が俺の位置を決めれば。
俺は生き残れるかもしれない。
しかし、それは獅堂が選んだ答えだ。
俺自身の証明ではない。
「獅堂……」
声にならない息を吐く。
「俺を……固定するな」
「黙れ! 今は俺に任せろ!」
「違う……」
十八時四十二分、五十六秒。
「立つ場所は……俺が決める」
獅堂の表情が歪む。
「またそれか!」
「頼む」
死者の手が、俺の胸へ近づく。
触れれば。
俺の存在は、死んだ《結論》へ統合される。
「支えてくれ」
「矛盾してるだろうが!」
「場所は俺が選ぶ」
十八時四十二分、五十八秒。
「そこへ行く力を、貸してくれ」
獅堂が目を見開く。
昨日。
俺はあいつへ言った。
支えるとは、相手を自分の上へ乗せることではない。
相手が自分で選んだ場所へ行けるように、手を貸すことだ。
「……気に入らねえ」
獅堂の金色の線が変化する。
俺の位置を固定する力が消える。
代わりに。
俺の背後へ、巨大な地面が現れた。
俺を立たせるためではない。
俺が蹴るための地面。
「立つ場所はお前が決めろ!」
獅堂が叫ぶ。
「だが、二度と落とさねえ!」
十八時四十二分、五十九秒。
死者の手が俺の胸へ触れる。
同時に。
俺は未証明を発動した。
音が消える。
世界が止まる。
死という《結論》。
俺と死者が同一人物であるという判定。
十八時四十三分が成立する瞬間。
すべてが保留された。
だが。
止めただけでは足りない。
別の《結論》。
俺が死を否定せず。
死を受け入れず。
十八時四十三分以降も選択を続ける答え。
目の前に、死んだ俺がいる。
こいつは偽物ではない。
排除すべき敵でもない。
俺が選択を終えた場合に成立する、本物の結末。
なら。
「お前も、黒瀬零だ」
死者の目が僅かに動く。
「俺が死んだ《結論》。俺が何も選ばなかった場合の答え」
死を否定してはいけない。
こいつの存在を、なかったことにしてはいけない。
「でも」
俺は背後の地面へ足をつける。
獅堂が作った。
しかし、俺の位置を決めない地面。
「今、ここで選ぶのは俺だ」
どこにいる。
生者と死者のどちらが本物か。
世界に決めさせない。
俺自身が、自分の座標を定める。
「俺は――明日、獅堂と戦う」
死者には、明日がない。
「その後も、灯を探す」
死者には、選択がない。
「講義にも出る」
教授の顔が脳裏に浮かぶ。
「死亡欠席なんて、認めるか」
俺は地面を蹴った。
止まった世界の中。
死者へ向かって進む。
逃げるのではない。
消すのでもない。
その胸へ、右手を当てる。
「お前の死は、俺の可能性だ」
死を受け入れる。
しかし。
「可能性は、《結論》じゃない」
死を受容しない。
俺は死者の胸の穴から、黒い円環を引き抜いた。
それは俺の《終端痕》と同じ形。
死という《結論》を成立させる中心。
「俺がどこにいるかは、俺が選ぶ」
右手の途切れた円環が輝く。
「自証座標!」
死者の座標。
生者の座標。
二つへ分かれていた黒瀬零の位置が、再定義される。
死んだ俺は、過去でも未来でもない。
俺が選ばなかった結末として。
俺の外側へ置かれる。
「お前は、俺だ」
死者の身体が崩れ始める。
「だから、お前の死も背負う」
黒い粒子が俺の右腕へ集まる。
「それでも俺は、生きる方を選ぶ」
世界へ音が戻る。
時計が動いた。
十八時四十三分。
俺の心臓が。
一度。
強く脈打つ。
死者の身体が、黒い光となって消滅した。
胸の《終端痕》が砕ける。
俺は獅堂の作った地面を蹴り。
白い経路へ落ちた。
澄玲の世界は解を持つが、俺を受け止めるのではなく、進む方向だけを示している。
俺はその経路を滑り。
自分の足で。
研究室の床へ着地した。
時計は。
十八時四十三分、三秒。
「心拍、再開!」
天城先輩の声。
「生体反応、正常!」
「存在判定は?」
緋月が尋ねる。
澄玲が端末を見る。
「生存」
一秒。
二秒。
三秒。
記録は変わらない。
「黒瀬零、生存です」
全身から力が抜けた。
膝をつきそうになる。
だが。
床へ手をつく前に、獅堂が肩を掴んだ。
「立て」
「支配する気か?」
「倒れる場所を選ばせてやってる」
「それは支配だろ」
「うるせえ。明日まで寝るな」
「無茶を言うな」
俺は笑った。
生きている。
笑える。
新しい言葉を選べる。
それだけで。
今は十分だった。
◇
灯の学生証が光る。
――黒瀬零の死亡を確認。
「何?」
表示を見た全員が固まる。
続いて。
――黒瀬零の生存を確認。
二つの文章が同時に並ぶ。
死は否定されていない。
生存も否定されていない。
死んだ可能性を切り捨てず。
それでも、生きる《結論》を選んだ。
――第二証明、進行度。
――八二パーセント。
「合格ではないのか」
俺が言う。
「まだ条件が残っているのでしょう」
澄玲が答える。
新たな文章が浮かぶ。
――自らの位置を証明した。
――次に、自らの勝利を証明せよ。
――明日、《公開査問》を執行する。
ついに。
獅堂との戦い。
第二証明の最後の課題。
「待っていろ」
獅堂が言った。
「何を」
「今日は協力した」
「そうだな」
「だから明日は手加減しない」
「最初から期待してない」
「お前を地面へ叩き落とす」
「試験条件を忘れたのか」
地面へ一度も立たずに勝利する。
「だから叩き落とすんだ」
「性格悪いな」
「対策だ」
獅堂は拳を差し出す。
「今日のお前は、死者から逃げなかった」
「逃げても追ってきただろ」
「明日は俺からも逃げるな」
俺も拳を上げる。
「お前こそ、途中で地面に引きこもるなよ」
拳と拳がぶつかる。
明日。
俺は初めて、自分の命題を公の場で証明する。
◇
深夜。
帝都神律大学の中央部。
《第一宇宙観測環》の最上部で、白髪の学長が黒い月を見上げていた。
背後には、神代緋月。
「黒瀬零は死亡を越えた」
学長が言う。
「死亡を否定したのではありません」
緋月が答える。
「自分が死亡する可能性を、自分の外側へ定義し直した」
「死者を切り捨てず、生者を選んだ」
「ええ」
「それは、かつて第零学部が求めた解答に近い」
緋月の表情が険しくなる。
「黒瀬灯も、同じことを?」
学長は答えない。
黒い月の表面に、巨大な眼が開く。
その瞳へ。
新しい文字が浮かんだ。
――未証明命題、第二段階へ移行。
――対象は、自らの死を外部化した。
――自己と《結論》の分離を確認。
――観測価値、上昇。
「試験ではない」
緋月が呟く。
「やはり、零を育てている」
「誰が?」
「分かりません」
黒い月の奥。
数え切れないほどの扉が開いていく。
一つの扉につき、一つの宇宙。
一つの宇宙につき、異なる黒瀬零。
獅堂に敗北した零。
灯を見つけられなかった零。
帝都神律大学へ入学しなかった零。
既に世界を滅ぼした零。
無数の可能性が、同時に眼を開く。
「ですが」
緋月は右目の眼帯を押さえた。
「観測している何者かは、零がどの《結論》を選ぶのかを知りたがっている」
学長が静かに尋ねる。
「なぜだと思う」
「自分では、答えを選べないから」
その瞬間。
すべての扉の向こうから。
同じ少女の声が響いた。
『明日の査問で、お兄ちゃんは初めて世界を殺す』
黒瀬灯の声。
しかし。
その言葉を発した無数の灯たちは。
誰一人として、同じ表情をしていなかった。




