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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第一章 帝都神律大学・入学編

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第七話 王は何に支えられる

 翌日の午後六時。


 俺と九条澄玲は、《地殻演習区》第五層へ向かっていた。


 《地殻演習区》は、帝都神律大学の地下に造られた大規模戦闘・災害研究施設だ。


 ただし、普通の地下施設ではない。


 大学都市の地下へ巨大な空洞を掘ったのではなく、地殻そのものへ空間拡張型の命題(テーゼ)を適用し、本来存在しない容積を作り出している。


 第一層は、一般的な土木・地盤実験用。


 第二層は、地震や地滑りを再現する災害演習用。


 第三層から下は、強力な地質操作型能力者の訓練区域となる。


 俺たちが指定された第五層は、第四種以上の命題(テーゼ)を想定した高負荷区域だった。


「新入生が立ち入っていい場所なのか?」


 地下へ向かう昇降機の中で、俺は尋ねた。


「獅堂剛毅が使用許可を取得しています」


 澄玲は端末から目を上げずに答える。


「申請目的は、《公開査問》へ向けた対戦者間の能力情報共有」


「相手を地下深くへ呼び出す目的としては、かなり怪しいけどな」


「申請書には、傷害および殺害の意図はないと明記されています」


「書けば信用できるのか?」


「虚偽申告が判明した場合、停学に加えて研究施設の利用資格を失います」


「それなら、少しは信用できるか」


「彼にとって、停学より施設利用禁止の方が重大でしょう」


 この大学では、規則の効かせ方まで研究者向けだった。


 昇降機の表示が、地下四階を越える。


 地下十階。


 五十階。


 二百階。


 実際の深度を示しているわけではない。


 《地殻演習区》は、物理的な位置よりも地層同士の関係を利用して区分されている。


 つまり第五層とは、地表から数えて五番目に深い場所という意味ではない。


 五番目に強固な「地面」として定義された領域。


 案内資料には、そう書かれていた。


「地面の強さまで階層化されているのか」


「一般的な地盤強度とは異なります」


 澄玲が説明する。


「《地殻演習区》では、それぞれの層に異なる存在強度が設定されています」


「存在強度?」


「その物体が、どれだけ確実にそこへ存在しているかを示す指標です」


 俺は昇降機の壁へ手を触れる。


 冷たい金属。


 普通の壁と違いは感じない。


「物は、存在するか存在しないかの二択じゃないのか?」


「通常の環境では、そう扱って問題ありません。しかし《大公理崩壊》以降、同じ物体でも存在の安定性に差が生じることが確認されています」


「幽霊みたいに薄い存在があるってことか?」


「近いですが、正確ではありません」


 澄玲は端末へ二つの立方体を表示した。


「片方は、誰が見ても同じ位置に存在する物体。もう片方は、観測者によって位置や形状が変化する物体」


 一方の立方体は動かない。


 もう一方は、見る角度によって球体や三角錐へ変化する。


「後者は、存在が弱い?」


「存在の定義が不安定です。外部から別の法則を与えられた際、容易に変形や消失を起こします」


「第五層は、逆に存在が強い」


「はい。通常の爆発や物理攻撃では、ほとんど形状を変えられません」


 澄玲は表示を閉じる。


「獅堂剛毅の命題(テーゼ)がどこまで強固な地面を支配できるか。その試験にも使われているのでしょう」


 昇降機が停止した。


 扉の上に、警告文が表示される。


 ――《地殻演習区》第五層。


 ――区域内における地形、重力方向、空間座標の変動に注意してください。


 ――現在の下方向が、安全な地面へ通じるとは限りません。


「最後の注意書き、怖すぎるだろ」


「この区域では基本事項です」


 扉が開いた。


 ◇


 その先には、荒野が広がっていた。


 地下施設とは思えない。


 頭上には、赤黒い空。


 地平線の果てまで続く大地。


 遠方では、山脈がゆっくりと形を変えている。


 岩の山が沈み。


 代わりに別の山が地中から現れる。


 まるで地面そのものが呼吸しているようだった。


 入口付近に設置された案内板には、現在の演習環境が表示されている。


 ――模擬惑星環境、第五地殻型。


 ――重力加速度、地球標準値。


 ――地殻厚、可変。


 ――生命反応、三。


「三人?」


 俺と澄玲。


 そして、獅堂。


 そう思った瞬間。


 俺たちの背後で、昇降機の扉が閉じた。


 生命反応の表示が変化する。


 ――生命反応、四。


「増えた?」


 振り返る。


 誰もいない。


「観測誤差でしょうか」


 澄玲が端末を操作する。


「この区域の存在強度は高いはずだろ」


「だからこそ、通常なら誤差は生じにくい」


「誰かいる?」


「現時点では判断できません」


 澄玲は周囲の走査を続けた。


 だが、四人目の位置は表示されない。


「獅堂との約束が先です」


「放っておいていいのか?」


「不明な反応を無計画に追跡する方が危険です。帰還経路を記録しつつ進みましょう」


 俺たちは荒野の中央へ向かった。


 約束の場所は、入口から北へ二キロメートル。


 地平線の先に、一本の巨大な岩柱が見える。


 高さは数百メートル。


 岩柱の上には、人影が立っていた。


「来たか!」


 大地を震わせる声。


 獅堂剛毅が、遥か上空から俺たちを見下ろしている。


「わざわざ高い場所で待つ必要があるのか!」


 俺が叫ぶ。


「俺が上で、お前が下だと分かりやすいだろ!」


「子供か!」


「視覚的な表現は重要です」


 澄玲が言った。


「肯定するな!」


 獅堂が右足を踏み鳴らす。


 岩柱の側面から、階段がせり出した。


 数百段はある。


「登ってこい!」


「昇降機くらい作れないのか!」


「自分の足で来い!」


 俺は階段を見上げる。


「能力を見せると言って呼び出した相手に、最初にやらせることが階段登りか?」


「持久力の測定も兼ねているのでしょう」


「絶対、そこまで考えてない」


 ◇


 頂上へ到着した頃には、夕方になっていた。


 模擬環境に本当の太陽は存在しない。


 それでも空は時間に応じて色を変え、現在は赤い光が地平線を染めている。


「遅い」


 獅堂は岩柱の中央で腕を組んでいた。


「階段を作った本人が言うな」


「敵が用意した道を疑いもせず登る。戦闘なら失格だな」


「事前に罠の有無は確認しました」


 澄玲が答える。


「途中の七百二十三段目だけ強度が低く設定されていました」


 俺は獅堂を見る。


「罠を仕掛けてたのか」


「足元への注意力を見ただけだ」


「俺、普通に踏んだぞ」


「九条が支えたから落ちなかっただろ」


「やっぱり罠じゃないか!」


 獅堂は悪びれない。


「安心しろ。落ちても死なない」


「この大学で、その言葉ほど信用できないものはない」


 俺は岩柱の頂上を見回した。


 直径は百メートルほど。


 中央には、古びた石碑が立っている。


 石碑の表面には、多数の人名が刻まれていた。


「これは?」


「俺の故郷の死者だ」


 獅堂の声から、ふざけた調子が消えた。


 俺は改めて石碑を見る。


 数百人。


 いや。


 裏側まで含めれば、千人を超えているかもしれない。


「六年前」


 獅堂は石碑へ背を向けたまま言う。


「東北地方の山間部で、第四級法則災害が発生した」


 澄玲が端末へ記録を表示する。


「《逆位地殻災害》」


「知ってるのか」


「公開記録だけです」


 澄玲は俺にも見えるように画面を向けた。


 映像には、一つの町が映っている。


 山に囲まれた小さな町。


 次の瞬間。


 山が空へ落ちた。


 大地が上下を失い。


 地面に立っていた建物も、人間も、川も。


 あらゆるものが別々の方向へ落下していく。


「局所的に重力方向が分裂した災害です」


 澄玲が説明する。


「場所によって下方向が異なり、地表そのものが複数方向へ崩壊した」


「救助隊が来たのは、発生から三日後だ」


 獅堂が続ける。


「近づくための地面がなかったからな」


 映像の中で、町は崩れていく。


 道路が空へ伸び。


 家屋が山腹へ落下し。


 人間が、互いに異なる方向へ消えていく。


「俺は十二歳だった」


「どうやって生き残った」


「足元の地面に、しがみついていた」


 獅堂は石碑の前へ立つ。


「家が壊れた。家族も、友達も、近所の奴らも落ちていった」


 その口調は淡々としている。


 だからこそ。


 当時の光景を何度も繰り返し思い出してきたことが伝わった。


「父親は、俺の腕を掴んでいた」


 獅堂が右腕を見る。


「だが、地面が二つに割れた」


 獅堂の足元。


 父親の足元。


 それぞれに別の下が生まれた。


「俺は地面へ残った。父親は空へ落ちた」


「助けられなかったのか」


「十二歳の腕力で、何ができる」


 獅堂が俺を睨む。


 怒っているのは、俺に対してではない。


 六年前の自分へ。


 どうすることもできなかった少年へ。


「俺は叫んだ」


 獅堂の拳が震える。


「落ちるな。俺が支える。絶対に放さない」


 だが、指が離れた。


 父親の身体は、空へ向かって落ちていった。


「その瞬間、俺の命題(テーゼ)が発現した」


 石碑の周囲で、大地が震える。


「我を支えるものは、我が礎である」


 獅堂の足元から、金色の線が広がる。


 岩柱。


 荒野。


 遠方の山脈。


 視界に入るすべての地面が、同時に低い振動音を上げる。


「我が礎より上に立つ者は、我が支配を受ける」


 赤黒い空に、巨大な岩盤が現れる。


 地面が空へ浮かんだのではない。


 空そのものが、岩の大地として定義されている。


「我が支配下において、上下は我が意志により定まる」


 世界が反転した。


 俺たちの立っていた岩柱が、横向きになる。


 遠方の山々が空へ向かって落下する。


 しかし獅堂だけは動かない。


 彼が立つ面だけが、世界の基準として残っている。


「第四種命題(テーゼ)――万象は我が礎(グランド・レガリア)


 金色の線が空と大地を覆う。


「俺が立っている限り、誰も落とさない」


 昨日まで聞いた能力説明とは違った。


 俺は、獅堂が他者を支配したいから地面を操るのだと思っていた。


 自分より下へ置く。


 自分が頂点へ立つ。


 それがあいつの思想だと。


 だが。


「誰も落とさないための能力……」


「勘違いするな」


 獅堂が低く言う。


「俺は慈善家じゃない」


「なら、どういう意味だ」


「俺の上にいる奴は、俺が支える」


 獅堂は自分の足元を指す。


「だが支える以上、勝手なことはさせない。どこへ立つか。どこへ落ちるか。全部、俺が決める」


「支えることと、支配することが同じなのか」


「責任を取るっていうのは、そういうことだ」


「違う」


 思わず言葉が出た。


「何?」


「誰かを支えることと、その人間の行き先を決めることは同じじゃない」


「綺麗事だな」


 獅堂の声が冷たくなる。


「好きにさせて、落ちたらどうする」


「それは――」


「自由に飛ばせました。結果、死にました。それで納得できるのか?」


 答えられない。


 灯が「世界の外で待っている」と書き残した夜。


 俺は何も知らなかった。


 灯が何をしようとしているのか。


 どこへ行こうとしているのか。


 俺は聞くことさえできなかった。


 もし知っていたら、止めただろう。


 妹の意志を無視してでも。


「お前も同じだろ」


 獅堂が言う。


「妹を助けるために、この大学へ来た」


「どうしてそれを知っている」


「《公開査問》の提出資料に書いてあった」


「どこまで公開されるんだ、この大学は」


「お前は妹に聞いたのか」


 獅堂の言葉に、俺は黙る。


「助けてほしいのか。放っておいてほしいのか。今のお前に来てほしいのか」


「灯は、助けたいなら自分を殺せと言った」


「それで?」


「意味を調べてる」


「本人の言葉どおりに殺す気はない」


「当たり前だ」


「どうしてだ」


「妹だからだ!」


 声が荒れた。


「灯が自分を殺せと言っても、そのまま従えるわけがない!」


「つまり、お前も相手の答えを認めない」


「それとこれは違う」


「どこが?」


 獅堂の金色の瞳が、俺を射抜く。


「妹が間違った方向へ進もうとしている。だから自分が正しい場所へ連れ戻す」


「俺はそんなこと――」


「してるだろ」


 否定できなかった。


 灯を救う。


 その言葉の中で。


 俺は、灯が救われることを望んでいると決めつけている。


 彼女がどこにいるのか。


 何になっているのか。


 何を望んでいるのかも分からないのに。


「俺の命題(テーゼ)と、お前の行動は同じだ」


 獅堂は言う。


「相手が何を望もうが、自分の正しいと思う場所へ立たせる」


「俺は灯を支配したいわけじゃない」


「俺だって、誰かを苦しめたいわけじゃない」


 金色の線が脈打つ。


「二度と、俺の手から誰かを落としたくないだけだ」


 ◇


 しばらく。


 誰も言葉を発しなかった。


 赤い空の下。


 獅堂の作り出した複数の大地が、あらゆる方向に浮かんでいる。


 どの大地が上なのか。


 どれが下なのか。


 獅堂以外には分からない。


「獅堂剛毅」


 澄玲が沈黙を破る。


「質問してもよろしいですか」


「何だ」


「六年前、あなたは父親を救えなかった」


「ああ」


「しかし、あなた自身は地面にしがみついて生存した」


「それがどうした」


「あなたにとって、地面は救済ですか。それとも罪悪感ですか」


 獅堂の目が鋭くなる。


「何が言いたい」


「あなたの命題(テーゼ)には、二つの思想が含まれています」


 澄玲の端末に、能力構造が表示される。


 ――我が立つ地は、我を支える。


 ――我が支配する地は、他者を支える。


「一つは、誰かを支えたいという願い」


 もう一つの文章が浮かぶ。


 ――我が礎より上に立つ者は、我が支配を受ける。


「もう一つは、自分より上に立つ者を許さないという思想」


「何が矛盾している」


「支えるだけなら、上下関係を固定する必要はありません」


 獅堂の周囲で、空気が震える。


「黙れ」


「他者があなたより上に存在することを、なぜ拒絶するのですか」


「黙れと言った」


「九条」


 俺が止める。


 だが澄玲は引かなかった。


「あなたは、父親を支えられなかったのではない」


「――やめろ」


「父親に支えられていた自分だけが、生き残った」


 岩柱全体が激しく揺れた。


「やめろ!」


 獅堂の叫びと同時に、金色の線が爆発的に広がった。


 空中に浮かんでいた大地が、すべて俺たちへ向かって落下を始める。


「九条!」


「退避経路を算出します!」


 澄玲の瞳に白い数式が走る。


「私の命題(テーゼ)は――世界は解を持つ(エウレカ)!」


 空中に白い足場が連続して出現する。


「黒瀬零、こちらへ!」


 澄玲が跳ぶ。


 俺も後を追おうとした。


 だが。


 白い足場へ足を置く直前、動きを止める。


 これは澄玲が作った解答。


 俺を支える地面。


 今の獅堂の支配下で、使えるのか。


「早く!」


 巨大な岩盤が頭上から迫っている。


 迷っている時間はない。


 俺は白い足場へ跳んだ。


 足が触れる。


 その瞬間。


「俺の上に立つな!」


 獅堂の叫び。


 白い足場が金色に染まった。


「私の解へ干渉した?」


 澄玲の表情が変わる。


 白い足場は、物質ではない。


 問題に対する実行可能な解法を、一時的な経路として可視化したもの。


 それでも。


 俺たちを支えている以上。


 獅堂にとっては地面になる。


「落ちろ!」


 足場の上下が反転する。


 俺と澄玲の身体が、空へ向かって投げ出された。


未証明(アンプローヴン)!」


 俺は自分と澄玲の落下を止めようとする。


 だが。


 停止したのは、俺だけだった。


 澄玲の身体はそのまま空へ落ちていく。


「九条!」


「問題ありません!」


 澄玲は空中で身体を回転させる。


 新たな白い足場を作り、その側面へ着地した。


 彼女にとっては、その面が正しい経路。


 しかし獅堂の金色の線が、再び足場へ侵入する。


「何度作っても同じだ!」


 白い足場が崩壊する。


 澄玲の身体が、再び投げ出された。


 巨大な岩盤が迫る。


 俺は能力を終わらせる。


 身体が新しい下方向へ落下する。


不定墜道(パラドクス・フォール)!」


 近くを通過する岩片を殴る。


 反作用で方向転換。


 次の落下。


 瞬間的に未証明(アンプローヴン)を発動。


 別の岩を蹴る。


 終了。


 落下。


 停止。


 選択。


 俺は複数の落下をつなぎ、澄玲へ向かう。


「黒瀬零、私を掴まないでください!」


「この状況で何を言ってる!」


「私を支えれば、あなたが地面として認識される可能性があります!」


 確かに。


 俺が澄玲を抱えれば。


 俺は彼女を支えるものになる。


 獅堂の万象は我が礎(グランド・レガリア)は、人間さえ地面として支配できるかもしれない。


 だが、このままでは岩盤へ衝突する。


「それでも掴む!」


「合理的ではありません!」


「見捨てる方が合理的なのか!」


 俺は澄玲の腕を掴んだ。


 その瞬間。


 金色の線が、俺の右腕へ走る。


「やっぱりな」


 獅堂の声が響く。


「誰かを支えるなら、そいつの地面になる!」


 俺の右腕が動かなくなる。


 澄玲を掴んだ腕から、身体全体へ金色の亀裂が広がる。


 上下。


 位置。


 俺と澄玲の関係。


 すべてが獅堂によって固定されていく。


「黒瀬零、手を放してください!」


「嫌だ!」


「このままでは、二人とも支配されます!」


「だからって、放せるか!」


 六年前。


 獅堂は父親の腕を掴んだ。


 そして放した。


 今。


 俺は澄玲の腕を掴んでいる。


 同じ状況。


 手を放せば、自分だけは自由になれる。


 だが。


「俺は放さない!」


「なら、お前も俺と同じだ!」


 獅堂が叫ぶ。


「自分の手で相手を支える! 自分が正しい場所へ連れていく! それ以外の何がある!」


「違う!」


「何が違う!」


 巨大な岩盤が、目の前まで迫る。


 俺は澄玲を掴んだまま、右手へ力を込めた。


未証明(アンプローヴン)!」


 衝突という《結論》が止まる。


 岩盤が眼前で静止した。


 猶予は短い。


 俺は澄玲を支えている。


 それは事実だ。


 だが。


 支えることと。


 相手の行き先を決めることは、本当に同じなのか。


「九条!」


「はい!」


「どこへ行きたい!」


 澄玲が一瞬、目を見開いた。


「質問の意図は?」


「説明してる時間はない! 俺が決めるんじゃない!」


 俺は彼女の腕を掴んでいる。


 だが、引っ張らない。


「お前が行き先を決めろ!」


 澄玲の瞳に数式が走る。


 静止した岩盤。


 周囲の岩片。


 獅堂の支配領域。


 俺たちの速度と位置。


 無数の条件から、一つの経路が導き出される。


「右下、二十七度!」


「分かった!」


「三・二メートル先の岩片を蹴ってください! その後、私を左方向へ放す!」


「放していいのか!」


「私が決めました!」


 その言葉。


 自分で選んだ行き先。


「行くぞ!」


 俺は能力を終了する。


 岩盤が動き出す。


 右下へ落下。


 指定された岩片を蹴る。


 反作用で、俺たちの身体が左上へ飛ぶ。


 澄玲の腕を放す。


 彼女は自分で選んだ方向へ身体を投げ出し、空中に新しい白い足場を作る。


 今度の足場は、俺たち二人を支える一本道ではない。


 一瞬だけ触れ。


 次の足場へ移る。


 立つためではない。


 進むための解。


世界は解を持つ(エウレカ)!」


 白い足場が連続して現れる。


 獅堂が支配するより早く。


 澄玲は触れた瞬間に足場を消し、次の解へ移動する。


 俺も彼女の経路へ合わせ、不定墜道(パラドクス・フォール)を繰り返す。


 支え続けない。


 位置を固定しない。


 互いの行き先を決めない。


 それでも。


 同じ方向へ進む。


「何だ、それは……」


 獅堂が呟く。


「支えるなら、支配するはずだ」


「違う」


 俺は落下をつなぎながら答える。


「支えるっていうのは、相手を自分の上へ乗せることじゃない」


「なら、何だ!」


「相手が自分で選んだ場所へ行けるように、手を貸すことだ!」


 獅堂の表情が歪む。


「綺麗事だ!」


「そうかもしれない!」


 俺は否定しない。


「自分で選ばせた結果、相手が失敗するかもしれない!」


「ああ!」


「死ぬかもしれない!」


「それでも!」


 澄玲の作った白い足場を拳で叩く。


 反作用で、俺の身体が獅堂へ向かう。


「相手の人生まで、俺が正しいと証明することはできない!」


 獅堂が両足を踏みしめる。


 周囲の大地が、巨大な城壁へ変化する。


「なら、俺が証明する!」


 空を覆う岩の王城。


 その中心に、獅堂が立つ。


「俺がすべてを支配すれば、誰も間違った場所へ落ちない!」


 無数の岩槍が放たれる。


万象は我が礎(グランド・レガリア)!」


 岩槍の一本一本が、それぞれ異なる下方向を作る。


 俺の身体が同時に複数方向へ引かれた。


 右。


 左。


 上。


 下。


 どこへ落ちるべきか、身体そのものが引き裂かれそうになる。


「黒瀬零!」


 澄玲が叫ぶ。


「解が定まりません!」


 獅堂が作り出した重力方向が多すぎる。


 どの《結論》を選んでも、別の方向が否定する。


 俺の未証明(アンプローヴン)でも、すべてを同時に保留すれば精神が耐えられない。


「これが俺の本気だ!」


 獅堂の声が大地全体から響く。


多重地平王国(レギオン・グラウンド)!」


 固有技。


 無数の地面を同時に成立させ。


 それぞれの地面を基準とした異なる上下方向を、対象へ押しつける。


 人間の身体は一つ。


 だが、同時に複数の方向へ落下させられる。


 防御も回避もできない。


 身体を引き裂かれる。


未証明(アンプローヴン)!」


 俺は、すべての落下を止めた。


 頭の中で、何かが砕ける音がした。


「ぐっ……!」


 視界が白く染まる。


 鼻から血が流れる。


 多すぎる。


 右へ落ちる。


 左へ落ちる。


 上へ落ちる。


 下へ落ちる。


 何十もの《結論》が、同時に俺を引き裂こうとしている。


 それらすべてへ異議を唱える。


 精神が持たない。


「黒瀬零、解除してください!」


「解除したら死ぬ!」


「このままでも自己境界が崩壊します!」


 澄玲の声が遠い。


 俺は自分がどこにいるのか分からなくなっていく。


 右にいる。


 左にいる。


 上にいる。


 下にいる。


 すべての位置が同時に正しい。


 黒瀬零という一人の人間が、複数へ分裂していく。


 ――地に立つ者は、世界に位置を与えられる。


 学生証に表示された言葉。


 ――地を持たぬ者は、自らの位置を証明しなければならない。


 世界が俺の位置を複数与えるなら。


 俺自身が、自分の位置を選ばなければならない。


 どこへ行きたい。


 俺は。


「獅堂の前だ」


 右でも。


 左でも。


 上でも。


 下でもない。


 俺が行くべき場所。


 対立する命題(テーゼ)の使い手。


 獅堂剛毅の正面。


「俺は、そこにいる!」


 途切れた円環の紋様が、右手から全身へ広がる。


 複数の落下方向。


 そのすべてを否定するのではない。


 獅堂の前へ到達するために必要な力だけを選ぶ。


 右方向の落下を前進へ。


 上方向の落下を加速へ。


 左方向の落下を姿勢制御へ。


 下方向の落下を踏み込みへ。


 互いに矛盾していた力を、一つの《結論》へまとめる。


「終われ!」


 未証明(アンプローヴン)を解除する。


 保留されていた複数の落下が、一斉に俺の身体へ戻った。


 だが、もう引き裂かれない。


 すべての力が、同じ場所へ向いている。


 獅堂の正面へ。


 俺の身体が消えた。


 そう見えるほどの速度で、空間を横切る。


「何――」


 獅堂が反応するより早く。


 俺の拳が、あいつの顔の寸前で停止した。


「……どうして止めた」


 獅堂が尋ねる。


 俺は拳を下ろす。


「今日は《公開査問》じゃない」


「俺を倒せたと思ってるのか」


「今の一撃なら当たってた」


「防げた」


「なら、本番で証明しろ」


 獅堂が俺を睨む。


 金色の線が揺れている。


 だが。


 攻撃は来なかった。


 周囲に浮かんでいた大地が、ゆっくりと元の位置へ戻っていく。


 赤い空。


 荒野。


 石碑のある岩柱。


 世界が、正常な上下を取り戻す。


「今の技は何だ」


 澄玲が俺の隣へ降り立つ。


「複数の落下方向を、一つの目的地へ統合していました」


「分からない」


「私も完全には理解できていません」


「九条でも?」


「現象を記録しただけです。理論化には時間が必要です」


 獅堂が俺を見る。


「名前は」


「まだない」


「ならつけろ」


「どうしてお前が気にする」


「《公開査問》で、名無しの技に負けたら格好がつかない」


「負ける前提か?」


「お前が負けたとき、技名くらいは墓標に刻んでやる」


「物騒な気遣いだな」


 俺は、先ほどの感覚を思い出す。


 複数の場所。


 複数の下。


 複数の《結論》。


 そのすべてから、自分の位置を選んだ。


自証座標(アクシス・エゴ)


 澄玲が言った。


「また勝手に命名したな」


「現象の特徴を簡潔に表現しています」


「俺がどこにいるかを、自分で証明する座標……」


 悪くない。


「仮称として採用する」


「正式名称にすればいいだろ」


 獅堂が言う。


「お前まで乗るな」


 ◇


 訓練が終わり。


 俺たちは石碑の前に立っていた。


「どうして、ここへ呼んだ」


 俺が尋ねる。


「俺の能力を理解したかったんだろ」


「記録映像を見せるだけでもよかったはずだ」


「映像じゃ分からない」


 獅堂は、石碑に刻まれた名前を見つめる。


命題(テーゼ)が何をできるかと、なぜ生まれたかは別だ」


「俺に勝つための情報を教えてよかったのか?」


「知ったところで、俺の正しさは変わらない」


 獅堂は迷いなく答える。


「《公開査問》は、互いの命題(テーゼ)を理解した上で行うものだ」


「それでも、自分の弱点まで見せる必要はない」


「弱点?」


 獅堂の眉が動く。


「お前は父親に支えられていた自分だけが生き残ったことを、今も許せていない」


「それが、俺の能力の弱点だと?」


「分からない」


 俺は正直に答えた。


「でも、お前が他人を自分より下へ置くのは、責任感だけじゃない」


 獅堂は黙っている。


「誰かに支えられる側へ戻るのが、怖いんじゃないのか」


「……勝手に決めるな」


「違うなら、本番で証明しろ」


 さっき言われた言葉を返す。


 獅堂は、しばらく俺を睨んだ。


 やがて。


 小さく笑った。


「気に入らない」


「俺もだ」


「三日後――いや、もう二日後か」


 獅堂が右手を差し出す。


「《公開査問》で、どちらの命題(テーゼ)が正しいか証明する」


 俺は、その手を見る。


 握れば。


 一瞬とはいえ、相手に支えられる。


 そんな考えが頭をよぎった。


 だが。


 俺は獅堂の手を握った。


「正しい方が勝つとは限らないらしいぞ」


「なら、勝った上で正しさも証明する」


「欲張りだな」


「王だからな」


「自称だろ」


 互いに手を離す。


 そのとき。


 灯の学生証が赤く光った。


 ――対立命題(テーゼ)の理解を確認。


 ――第二証明、進行度。


 ――五八パーセント。


「一気に上がった」


「戦闘技術だけではなく、獅堂剛毅の思想を理解したことが評価されたのでしょう」


 澄玲が言う。


 新しい文章が浮かぶ。


 ――反証とは、対立する《結論》を消去することではない。


 ――その《前提》を理解し、より広い《結論》によって包摂せよ。


「包摂?」


「相手の答えを完全に否定するのではなく、その答えを含んだ上で別の《結論》を示すことです」


 獅堂が学生証を見る。


「俺の命題(テーゼ)を否定するだけじゃ、試験には合格できないってことか」


「お前を倒しながら、お前の考えも救えと?」


「余計なお世話だ」


「同感だ」


 俺たちの声が重なる。


 澄玲が端末へ記録する。


「対戦者間の心理的類似性を確認」


「記録するな」


「するな!」


 再び声が重なった。


 ◇


 《地殻演習区》第五層を出る頃には、夜になっていた。


 昇降機へ向かう俺たちの背後で、生命反応の表示が浮かんでいる。


 ――生命反応、三。


「最初は四と表示されていた」


 俺が言う。


「現在は正常値です」


「結局、誰かいたのか?」


「観測機器の誤作動であった可能性も残っています」


「存在強度が高いから、誤差は起きにくいと言ってなかったか」


「起きにくいことと、起きないことは異なります」


 澄玲は周囲を見回す。


「ただし、警戒は必要です」


 昇降機の扉が開く。


 俺たちは中へ入った。


 扉が閉じる直前。


 荒野の向こうで、何かが動いた。


「待て」


「どうしました?」


「今、誰か――」


 扉が閉じる。


 昇降機が上昇を始める。


「戻りますか」


 俺は少し迷った。


 生命反応は三。


 それでも。


 誰かが石碑の横に立っていた。


 黒い服。


 顔は見えない。


 左胸に、穴が開いているように見えた。


「……いや」


 目の錯覚かもしれない。


 訓練の疲労も残っている。


「今は帰ろう」


「分かりました」


 表示が切り替わる。


 第五層。


 第四層。


 第三層。


 昇降機が地上へ近づいていく。


 その間。


 俺は気づかなかった。


 自分の胸元。


 服の下。


 心臓の真上に。


 黒い円形の痣が浮かび始めていることに。


 ◇


 《地殻演習区》第五層。


 俺たちが去った後。


 獅堂は一人で石碑の前に立っていた。


「出てこい」


 返事はない。


「最初から見てたんだろ」


 荒野の生命反応表示は、三。


 この場には獅堂一人しかいない。


 それでも。


 石碑の裏から、黒衣の人物が姿を現した。


 顔は白い仮面に覆われている。


 胸元には、十三枚の翼を持つ紋章。


「帝都神律大学の学生じゃないな」


 獅堂が両足を踏みしめる。


 金色の線が大地へ広がる。


「何者だ」


 黒衣の人物は答えない。


 ただ。


 獅堂が立つ地面へ視線を落とした。


『強固な《前提》を確認』


 男とも女とも判別できない声。


『対立命題(テーゼ)万象は我が礎(グランド・レガリア)


「俺の能力を知っている?」


『第二証明に利用可能』


「黒瀬の試験を作った奴か」


 黒衣の人物が、初めて獅堂を見る。


『黒瀬零は二日後に死亡する』


「何?」


『その《結論》を覆すため、あなたの命題(テーゼ)が必要となる』


「意味が分からない」


『あなたは彼を支えよ』


 獅堂の表情が険しくなる。


「俺が、あいつを?」


『ただし』


 黒衣の人物の身体が、影のように崩れ始める。


『彼が望む場所へ立たせてはならない』


「待て!」


 獅堂が地面を隆起させる。


 岩の壁が黒衣の人物を囲む。


「何を知っている!」


 壁が閉じる。


 だが。


 その内側には誰もいなかった。


 代わりに、地面へ一行の文字が刻まれている。


 ――黒瀬零の死を阻止した場合、第二証明は失敗する。


 獅堂は、その文章を見下ろした。


「死なせても失敗」


 拳を握る。


「助けても失敗だと?」


 地面へ刻まれた文字は、答えない。


 ただ最後に。


 新しい一文が浮かび上がった。


 ――証明とは、唯一の正解を選ぶ行為である。


 獅堂は長い間、その言葉を見つめていた。


 やがて。


 地面を踏み鳴らす。


 文字が岩ごと砕け散った。


「気に入らねえ」


 獅堂の金色の瞳が、怒りに燃える。


「誰かが決めた正解へ従うのは、王じゃない」


 誰もいない荒野で。


 彼は一人、宣言した。


「黒瀬零を死なせず、試験にも勝たせる」


 金色の線が、《地殻演習区》第五層全域へ広がった。


「それが不可能だっていうなら――」


 地平線の山々が、一斉に立ち上がる。


「俺たち二人で、その《結論》を潰す」

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