第七話 王は何に支えられる
翌日の午後六時。
俺と九条澄玲は、《地殻演習区》第五層へ向かっていた。
《地殻演習区》は、帝都神律大学の地下に造られた大規模戦闘・災害研究施設だ。
ただし、普通の地下施設ではない。
大学都市の地下へ巨大な空洞を掘ったのではなく、地殻そのものへ空間拡張型の命題を適用し、本来存在しない容積を作り出している。
第一層は、一般的な土木・地盤実験用。
第二層は、地震や地滑りを再現する災害演習用。
第三層から下は、強力な地質操作型能力者の訓練区域となる。
俺たちが指定された第五層は、第四種以上の命題を想定した高負荷区域だった。
「新入生が立ち入っていい場所なのか?」
地下へ向かう昇降機の中で、俺は尋ねた。
「獅堂剛毅が使用許可を取得しています」
澄玲は端末から目を上げずに答える。
「申請目的は、《公開査問》へ向けた対戦者間の能力情報共有」
「相手を地下深くへ呼び出す目的としては、かなり怪しいけどな」
「申請書には、傷害および殺害の意図はないと明記されています」
「書けば信用できるのか?」
「虚偽申告が判明した場合、停学に加えて研究施設の利用資格を失います」
「それなら、少しは信用できるか」
「彼にとって、停学より施設利用禁止の方が重大でしょう」
この大学では、規則の効かせ方まで研究者向けだった。
昇降機の表示が、地下四階を越える。
地下十階。
五十階。
二百階。
実際の深度を示しているわけではない。
《地殻演習区》は、物理的な位置よりも地層同士の関係を利用して区分されている。
つまり第五層とは、地表から数えて五番目に深い場所という意味ではない。
五番目に強固な「地面」として定義された領域。
案内資料には、そう書かれていた。
「地面の強さまで階層化されているのか」
「一般的な地盤強度とは異なります」
澄玲が説明する。
「《地殻演習区》では、それぞれの層に異なる存在強度が設定されています」
「存在強度?」
「その物体が、どれだけ確実にそこへ存在しているかを示す指標です」
俺は昇降機の壁へ手を触れる。
冷たい金属。
普通の壁と違いは感じない。
「物は、存在するか存在しないかの二択じゃないのか?」
「通常の環境では、そう扱って問題ありません。しかし《大公理崩壊》以降、同じ物体でも存在の安定性に差が生じることが確認されています」
「幽霊みたいに薄い存在があるってことか?」
「近いですが、正確ではありません」
澄玲は端末へ二つの立方体を表示した。
「片方は、誰が見ても同じ位置に存在する物体。もう片方は、観測者によって位置や形状が変化する物体」
一方の立方体は動かない。
もう一方は、見る角度によって球体や三角錐へ変化する。
「後者は、存在が弱い?」
「存在の定義が不安定です。外部から別の法則を与えられた際、容易に変形や消失を起こします」
「第五層は、逆に存在が強い」
「はい。通常の爆発や物理攻撃では、ほとんど形状を変えられません」
澄玲は表示を閉じる。
「獅堂剛毅の命題がどこまで強固な地面を支配できるか。その試験にも使われているのでしょう」
昇降機が停止した。
扉の上に、警告文が表示される。
――《地殻演習区》第五層。
――区域内における地形、重力方向、空間座標の変動に注意してください。
――現在の下方向が、安全な地面へ通じるとは限りません。
「最後の注意書き、怖すぎるだろ」
「この区域では基本事項です」
扉が開いた。
◇
その先には、荒野が広がっていた。
地下施設とは思えない。
頭上には、赤黒い空。
地平線の果てまで続く大地。
遠方では、山脈がゆっくりと形を変えている。
岩の山が沈み。
代わりに別の山が地中から現れる。
まるで地面そのものが呼吸しているようだった。
入口付近に設置された案内板には、現在の演習環境が表示されている。
――模擬惑星環境、第五地殻型。
――重力加速度、地球標準値。
――地殻厚、可変。
――生命反応、三。
「三人?」
俺と澄玲。
そして、獅堂。
そう思った瞬間。
俺たちの背後で、昇降機の扉が閉じた。
生命反応の表示が変化する。
――生命反応、四。
「増えた?」
振り返る。
誰もいない。
「観測誤差でしょうか」
澄玲が端末を操作する。
「この区域の存在強度は高いはずだろ」
「だからこそ、通常なら誤差は生じにくい」
「誰かいる?」
「現時点では判断できません」
澄玲は周囲の走査を続けた。
だが、四人目の位置は表示されない。
「獅堂との約束が先です」
「放っておいていいのか?」
「不明な反応を無計画に追跡する方が危険です。帰還経路を記録しつつ進みましょう」
俺たちは荒野の中央へ向かった。
約束の場所は、入口から北へ二キロメートル。
地平線の先に、一本の巨大な岩柱が見える。
高さは数百メートル。
岩柱の上には、人影が立っていた。
「来たか!」
大地を震わせる声。
獅堂剛毅が、遥か上空から俺たちを見下ろしている。
「わざわざ高い場所で待つ必要があるのか!」
俺が叫ぶ。
「俺が上で、お前が下だと分かりやすいだろ!」
「子供か!」
「視覚的な表現は重要です」
澄玲が言った。
「肯定するな!」
獅堂が右足を踏み鳴らす。
岩柱の側面から、階段がせり出した。
数百段はある。
「登ってこい!」
「昇降機くらい作れないのか!」
「自分の足で来い!」
俺は階段を見上げる。
「能力を見せると言って呼び出した相手に、最初にやらせることが階段登りか?」
「持久力の測定も兼ねているのでしょう」
「絶対、そこまで考えてない」
◇
頂上へ到着した頃には、夕方になっていた。
模擬環境に本当の太陽は存在しない。
それでも空は時間に応じて色を変え、現在は赤い光が地平線を染めている。
「遅い」
獅堂は岩柱の中央で腕を組んでいた。
「階段を作った本人が言うな」
「敵が用意した道を疑いもせず登る。戦闘なら失格だな」
「事前に罠の有無は確認しました」
澄玲が答える。
「途中の七百二十三段目だけ強度が低く設定されていました」
俺は獅堂を見る。
「罠を仕掛けてたのか」
「足元への注意力を見ただけだ」
「俺、普通に踏んだぞ」
「九条が支えたから落ちなかっただろ」
「やっぱり罠じゃないか!」
獅堂は悪びれない。
「安心しろ。落ちても死なない」
「この大学で、その言葉ほど信用できないものはない」
俺は岩柱の頂上を見回した。
直径は百メートルほど。
中央には、古びた石碑が立っている。
石碑の表面には、多数の人名が刻まれていた。
「これは?」
「俺の故郷の死者だ」
獅堂の声から、ふざけた調子が消えた。
俺は改めて石碑を見る。
数百人。
いや。
裏側まで含めれば、千人を超えているかもしれない。
「六年前」
獅堂は石碑へ背を向けたまま言う。
「東北地方の山間部で、第四級法則災害が発生した」
澄玲が端末へ記録を表示する。
「《逆位地殻災害》」
「知ってるのか」
「公開記録だけです」
澄玲は俺にも見えるように画面を向けた。
映像には、一つの町が映っている。
山に囲まれた小さな町。
次の瞬間。
山が空へ落ちた。
大地が上下を失い。
地面に立っていた建物も、人間も、川も。
あらゆるものが別々の方向へ落下していく。
「局所的に重力方向が分裂した災害です」
澄玲が説明する。
「場所によって下方向が異なり、地表そのものが複数方向へ崩壊した」
「救助隊が来たのは、発生から三日後だ」
獅堂が続ける。
「近づくための地面がなかったからな」
映像の中で、町は崩れていく。
道路が空へ伸び。
家屋が山腹へ落下し。
人間が、互いに異なる方向へ消えていく。
「俺は十二歳だった」
「どうやって生き残った」
「足元の地面に、しがみついていた」
獅堂は石碑の前へ立つ。
「家が壊れた。家族も、友達も、近所の奴らも落ちていった」
その口調は淡々としている。
だからこそ。
当時の光景を何度も繰り返し思い出してきたことが伝わった。
「父親は、俺の腕を掴んでいた」
獅堂が右腕を見る。
「だが、地面が二つに割れた」
獅堂の足元。
父親の足元。
それぞれに別の下が生まれた。
「俺は地面へ残った。父親は空へ落ちた」
「助けられなかったのか」
「十二歳の腕力で、何ができる」
獅堂が俺を睨む。
怒っているのは、俺に対してではない。
六年前の自分へ。
どうすることもできなかった少年へ。
「俺は叫んだ」
獅堂の拳が震える。
「落ちるな。俺が支える。絶対に放さない」
だが、指が離れた。
父親の身体は、空へ向かって落ちていった。
「その瞬間、俺の命題が発現した」
石碑の周囲で、大地が震える。
「我を支えるものは、我が礎である」
獅堂の足元から、金色の線が広がる。
岩柱。
荒野。
遠方の山脈。
視界に入るすべての地面が、同時に低い振動音を上げる。
「我が礎より上に立つ者は、我が支配を受ける」
赤黒い空に、巨大な岩盤が現れる。
地面が空へ浮かんだのではない。
空そのものが、岩の大地として定義されている。
「我が支配下において、上下は我が意志により定まる」
世界が反転した。
俺たちの立っていた岩柱が、横向きになる。
遠方の山々が空へ向かって落下する。
しかし獅堂だけは動かない。
彼が立つ面だけが、世界の基準として残っている。
「第四種命題――万象は我が礎」
金色の線が空と大地を覆う。
「俺が立っている限り、誰も落とさない」
昨日まで聞いた能力説明とは違った。
俺は、獅堂が他者を支配したいから地面を操るのだと思っていた。
自分より下へ置く。
自分が頂点へ立つ。
それがあいつの思想だと。
だが。
「誰も落とさないための能力……」
「勘違いするな」
獅堂が低く言う。
「俺は慈善家じゃない」
「なら、どういう意味だ」
「俺の上にいる奴は、俺が支える」
獅堂は自分の足元を指す。
「だが支える以上、勝手なことはさせない。どこへ立つか。どこへ落ちるか。全部、俺が決める」
「支えることと、支配することが同じなのか」
「責任を取るっていうのは、そういうことだ」
「違う」
思わず言葉が出た。
「何?」
「誰かを支えることと、その人間の行き先を決めることは同じじゃない」
「綺麗事だな」
獅堂の声が冷たくなる。
「好きにさせて、落ちたらどうする」
「それは――」
「自由に飛ばせました。結果、死にました。それで納得できるのか?」
答えられない。
灯が「世界の外で待っている」と書き残した夜。
俺は何も知らなかった。
灯が何をしようとしているのか。
どこへ行こうとしているのか。
俺は聞くことさえできなかった。
もし知っていたら、止めただろう。
妹の意志を無視してでも。
「お前も同じだろ」
獅堂が言う。
「妹を助けるために、この大学へ来た」
「どうしてそれを知っている」
「《公開査問》の提出資料に書いてあった」
「どこまで公開されるんだ、この大学は」
「お前は妹に聞いたのか」
獅堂の言葉に、俺は黙る。
「助けてほしいのか。放っておいてほしいのか。今のお前に来てほしいのか」
「灯は、助けたいなら自分を殺せと言った」
「それで?」
「意味を調べてる」
「本人の言葉どおりに殺す気はない」
「当たり前だ」
「どうしてだ」
「妹だからだ!」
声が荒れた。
「灯が自分を殺せと言っても、そのまま従えるわけがない!」
「つまり、お前も相手の答えを認めない」
「それとこれは違う」
「どこが?」
獅堂の金色の瞳が、俺を射抜く。
「妹が間違った方向へ進もうとしている。だから自分が正しい場所へ連れ戻す」
「俺はそんなこと――」
「してるだろ」
否定できなかった。
灯を救う。
その言葉の中で。
俺は、灯が救われることを望んでいると決めつけている。
彼女がどこにいるのか。
何になっているのか。
何を望んでいるのかも分からないのに。
「俺の命題と、お前の行動は同じだ」
獅堂は言う。
「相手が何を望もうが、自分の正しいと思う場所へ立たせる」
「俺は灯を支配したいわけじゃない」
「俺だって、誰かを苦しめたいわけじゃない」
金色の線が脈打つ。
「二度と、俺の手から誰かを落としたくないだけだ」
◇
しばらく。
誰も言葉を発しなかった。
赤い空の下。
獅堂の作り出した複数の大地が、あらゆる方向に浮かんでいる。
どの大地が上なのか。
どれが下なのか。
獅堂以外には分からない。
「獅堂剛毅」
澄玲が沈黙を破る。
「質問してもよろしいですか」
「何だ」
「六年前、あなたは父親を救えなかった」
「ああ」
「しかし、あなた自身は地面にしがみついて生存した」
「それがどうした」
「あなたにとって、地面は救済ですか。それとも罪悪感ですか」
獅堂の目が鋭くなる。
「何が言いたい」
「あなたの命題には、二つの思想が含まれています」
澄玲の端末に、能力構造が表示される。
――我が立つ地は、我を支える。
――我が支配する地は、他者を支える。
「一つは、誰かを支えたいという願い」
もう一つの文章が浮かぶ。
――我が礎より上に立つ者は、我が支配を受ける。
「もう一つは、自分より上に立つ者を許さないという思想」
「何が矛盾している」
「支えるだけなら、上下関係を固定する必要はありません」
獅堂の周囲で、空気が震える。
「黙れ」
「他者があなたより上に存在することを、なぜ拒絶するのですか」
「黙れと言った」
「九条」
俺が止める。
だが澄玲は引かなかった。
「あなたは、父親を支えられなかったのではない」
「――やめろ」
「父親に支えられていた自分だけが、生き残った」
岩柱全体が激しく揺れた。
「やめろ!」
獅堂の叫びと同時に、金色の線が爆発的に広がった。
空中に浮かんでいた大地が、すべて俺たちへ向かって落下を始める。
「九条!」
「退避経路を算出します!」
澄玲の瞳に白い数式が走る。
「私の命題は――世界は解を持つ!」
空中に白い足場が連続して出現する。
「黒瀬零、こちらへ!」
澄玲が跳ぶ。
俺も後を追おうとした。
だが。
白い足場へ足を置く直前、動きを止める。
これは澄玲が作った解答。
俺を支える地面。
今の獅堂の支配下で、使えるのか。
「早く!」
巨大な岩盤が頭上から迫っている。
迷っている時間はない。
俺は白い足場へ跳んだ。
足が触れる。
その瞬間。
「俺の上に立つな!」
獅堂の叫び。
白い足場が金色に染まった。
「私の解へ干渉した?」
澄玲の表情が変わる。
白い足場は、物質ではない。
問題に対する実行可能な解法を、一時的な経路として可視化したもの。
それでも。
俺たちを支えている以上。
獅堂にとっては地面になる。
「落ちろ!」
足場の上下が反転する。
俺と澄玲の身体が、空へ向かって投げ出された。
「未証明!」
俺は自分と澄玲の落下を止めようとする。
だが。
停止したのは、俺だけだった。
澄玲の身体はそのまま空へ落ちていく。
「九条!」
「問題ありません!」
澄玲は空中で身体を回転させる。
新たな白い足場を作り、その側面へ着地した。
彼女にとっては、その面が正しい経路。
しかし獅堂の金色の線が、再び足場へ侵入する。
「何度作っても同じだ!」
白い足場が崩壊する。
澄玲の身体が、再び投げ出された。
巨大な岩盤が迫る。
俺は能力を終わらせる。
身体が新しい下方向へ落下する。
「不定墜道!」
近くを通過する岩片を殴る。
反作用で方向転換。
次の落下。
瞬間的に未証明を発動。
別の岩を蹴る。
終了。
落下。
停止。
選択。
俺は複数の落下をつなぎ、澄玲へ向かう。
「黒瀬零、私を掴まないでください!」
「この状況で何を言ってる!」
「私を支えれば、あなたが地面として認識される可能性があります!」
確かに。
俺が澄玲を抱えれば。
俺は彼女を支えるものになる。
獅堂の万象は我が礎は、人間さえ地面として支配できるかもしれない。
だが、このままでは岩盤へ衝突する。
「それでも掴む!」
「合理的ではありません!」
「見捨てる方が合理的なのか!」
俺は澄玲の腕を掴んだ。
その瞬間。
金色の線が、俺の右腕へ走る。
「やっぱりな」
獅堂の声が響く。
「誰かを支えるなら、そいつの地面になる!」
俺の右腕が動かなくなる。
澄玲を掴んだ腕から、身体全体へ金色の亀裂が広がる。
上下。
位置。
俺と澄玲の関係。
すべてが獅堂によって固定されていく。
「黒瀬零、手を放してください!」
「嫌だ!」
「このままでは、二人とも支配されます!」
「だからって、放せるか!」
六年前。
獅堂は父親の腕を掴んだ。
そして放した。
今。
俺は澄玲の腕を掴んでいる。
同じ状況。
手を放せば、自分だけは自由になれる。
だが。
「俺は放さない!」
「なら、お前も俺と同じだ!」
獅堂が叫ぶ。
「自分の手で相手を支える! 自分が正しい場所へ連れていく! それ以外の何がある!」
「違う!」
「何が違う!」
巨大な岩盤が、目の前まで迫る。
俺は澄玲を掴んだまま、右手へ力を込めた。
「未証明!」
衝突という《結論》が止まる。
岩盤が眼前で静止した。
猶予は短い。
俺は澄玲を支えている。
それは事実だ。
だが。
支えることと。
相手の行き先を決めることは、本当に同じなのか。
「九条!」
「はい!」
「どこへ行きたい!」
澄玲が一瞬、目を見開いた。
「質問の意図は?」
「説明してる時間はない! 俺が決めるんじゃない!」
俺は彼女の腕を掴んでいる。
だが、引っ張らない。
「お前が行き先を決めろ!」
澄玲の瞳に数式が走る。
静止した岩盤。
周囲の岩片。
獅堂の支配領域。
俺たちの速度と位置。
無数の条件から、一つの経路が導き出される。
「右下、二十七度!」
「分かった!」
「三・二メートル先の岩片を蹴ってください! その後、私を左方向へ放す!」
「放していいのか!」
「私が決めました!」
その言葉。
自分で選んだ行き先。
「行くぞ!」
俺は能力を終了する。
岩盤が動き出す。
右下へ落下。
指定された岩片を蹴る。
反作用で、俺たちの身体が左上へ飛ぶ。
澄玲の腕を放す。
彼女は自分で選んだ方向へ身体を投げ出し、空中に新しい白い足場を作る。
今度の足場は、俺たち二人を支える一本道ではない。
一瞬だけ触れ。
次の足場へ移る。
立つためではない。
進むための解。
「世界は解を持つ!」
白い足場が連続して現れる。
獅堂が支配するより早く。
澄玲は触れた瞬間に足場を消し、次の解へ移動する。
俺も彼女の経路へ合わせ、不定墜道を繰り返す。
支え続けない。
位置を固定しない。
互いの行き先を決めない。
それでも。
同じ方向へ進む。
「何だ、それは……」
獅堂が呟く。
「支えるなら、支配するはずだ」
「違う」
俺は落下をつなぎながら答える。
「支えるっていうのは、相手を自分の上へ乗せることじゃない」
「なら、何だ!」
「相手が自分で選んだ場所へ行けるように、手を貸すことだ!」
獅堂の表情が歪む。
「綺麗事だ!」
「そうかもしれない!」
俺は否定しない。
「自分で選ばせた結果、相手が失敗するかもしれない!」
「ああ!」
「死ぬかもしれない!」
「それでも!」
澄玲の作った白い足場を拳で叩く。
反作用で、俺の身体が獅堂へ向かう。
「相手の人生まで、俺が正しいと証明することはできない!」
獅堂が両足を踏みしめる。
周囲の大地が、巨大な城壁へ変化する。
「なら、俺が証明する!」
空を覆う岩の王城。
その中心に、獅堂が立つ。
「俺がすべてを支配すれば、誰も間違った場所へ落ちない!」
無数の岩槍が放たれる。
「万象は我が礎!」
岩槍の一本一本が、それぞれ異なる下方向を作る。
俺の身体が同時に複数方向へ引かれた。
右。
左。
上。
下。
どこへ落ちるべきか、身体そのものが引き裂かれそうになる。
「黒瀬零!」
澄玲が叫ぶ。
「解が定まりません!」
獅堂が作り出した重力方向が多すぎる。
どの《結論》を選んでも、別の方向が否定する。
俺の未証明でも、すべてを同時に保留すれば精神が耐えられない。
「これが俺の本気だ!」
獅堂の声が大地全体から響く。
「多重地平王国!」
固有技。
無数の地面を同時に成立させ。
それぞれの地面を基準とした異なる上下方向を、対象へ押しつける。
人間の身体は一つ。
だが、同時に複数の方向へ落下させられる。
防御も回避もできない。
身体を引き裂かれる。
「未証明!」
俺は、すべての落下を止めた。
頭の中で、何かが砕ける音がした。
「ぐっ……!」
視界が白く染まる。
鼻から血が流れる。
多すぎる。
右へ落ちる。
左へ落ちる。
上へ落ちる。
下へ落ちる。
何十もの《結論》が、同時に俺を引き裂こうとしている。
それらすべてへ異議を唱える。
精神が持たない。
「黒瀬零、解除してください!」
「解除したら死ぬ!」
「このままでも自己境界が崩壊します!」
澄玲の声が遠い。
俺は自分がどこにいるのか分からなくなっていく。
右にいる。
左にいる。
上にいる。
下にいる。
すべての位置が同時に正しい。
黒瀬零という一人の人間が、複数へ分裂していく。
――地に立つ者は、世界に位置を与えられる。
学生証に表示された言葉。
――地を持たぬ者は、自らの位置を証明しなければならない。
世界が俺の位置を複数与えるなら。
俺自身が、自分の位置を選ばなければならない。
どこへ行きたい。
俺は。
「獅堂の前だ」
右でも。
左でも。
上でも。
下でもない。
俺が行くべき場所。
対立する命題の使い手。
獅堂剛毅の正面。
「俺は、そこにいる!」
途切れた円環の紋様が、右手から全身へ広がる。
複数の落下方向。
そのすべてを否定するのではない。
獅堂の前へ到達するために必要な力だけを選ぶ。
右方向の落下を前進へ。
上方向の落下を加速へ。
左方向の落下を姿勢制御へ。
下方向の落下を踏み込みへ。
互いに矛盾していた力を、一つの《結論》へまとめる。
「終われ!」
未証明を解除する。
保留されていた複数の落下が、一斉に俺の身体へ戻った。
だが、もう引き裂かれない。
すべての力が、同じ場所へ向いている。
獅堂の正面へ。
俺の身体が消えた。
そう見えるほどの速度で、空間を横切る。
「何――」
獅堂が反応するより早く。
俺の拳が、あいつの顔の寸前で停止した。
「……どうして止めた」
獅堂が尋ねる。
俺は拳を下ろす。
「今日は《公開査問》じゃない」
「俺を倒せたと思ってるのか」
「今の一撃なら当たってた」
「防げた」
「なら、本番で証明しろ」
獅堂が俺を睨む。
金色の線が揺れている。
だが。
攻撃は来なかった。
周囲に浮かんでいた大地が、ゆっくりと元の位置へ戻っていく。
赤い空。
荒野。
石碑のある岩柱。
世界が、正常な上下を取り戻す。
「今の技は何だ」
澄玲が俺の隣へ降り立つ。
「複数の落下方向を、一つの目的地へ統合していました」
「分からない」
「私も完全には理解できていません」
「九条でも?」
「現象を記録しただけです。理論化には時間が必要です」
獅堂が俺を見る。
「名前は」
「まだない」
「ならつけろ」
「どうしてお前が気にする」
「《公開査問》で、名無しの技に負けたら格好がつかない」
「負ける前提か?」
「お前が負けたとき、技名くらいは墓標に刻んでやる」
「物騒な気遣いだな」
俺は、先ほどの感覚を思い出す。
複数の場所。
複数の下。
複数の《結論》。
そのすべてから、自分の位置を選んだ。
「自証座標」
澄玲が言った。
「また勝手に命名したな」
「現象の特徴を簡潔に表現しています」
「俺がどこにいるかを、自分で証明する座標……」
悪くない。
「仮称として採用する」
「正式名称にすればいいだろ」
獅堂が言う。
「お前まで乗るな」
◇
訓練が終わり。
俺たちは石碑の前に立っていた。
「どうして、ここへ呼んだ」
俺が尋ねる。
「俺の能力を理解したかったんだろ」
「記録映像を見せるだけでもよかったはずだ」
「映像じゃ分からない」
獅堂は、石碑に刻まれた名前を見つめる。
「命題が何をできるかと、なぜ生まれたかは別だ」
「俺に勝つための情報を教えてよかったのか?」
「知ったところで、俺の正しさは変わらない」
獅堂は迷いなく答える。
「《公開査問》は、互いの命題を理解した上で行うものだ」
「それでも、自分の弱点まで見せる必要はない」
「弱点?」
獅堂の眉が動く。
「お前は父親に支えられていた自分だけが生き残ったことを、今も許せていない」
「それが、俺の能力の弱点だと?」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「でも、お前が他人を自分より下へ置くのは、責任感だけじゃない」
獅堂は黙っている。
「誰かに支えられる側へ戻るのが、怖いんじゃないのか」
「……勝手に決めるな」
「違うなら、本番で証明しろ」
さっき言われた言葉を返す。
獅堂は、しばらく俺を睨んだ。
やがて。
小さく笑った。
「気に入らない」
「俺もだ」
「三日後――いや、もう二日後か」
獅堂が右手を差し出す。
「《公開査問》で、どちらの命題が正しいか証明する」
俺は、その手を見る。
握れば。
一瞬とはいえ、相手に支えられる。
そんな考えが頭をよぎった。
だが。
俺は獅堂の手を握った。
「正しい方が勝つとは限らないらしいぞ」
「なら、勝った上で正しさも証明する」
「欲張りだな」
「王だからな」
「自称だろ」
互いに手を離す。
そのとき。
灯の学生証が赤く光った。
――対立命題の理解を確認。
――第二証明、進行度。
――五八パーセント。
「一気に上がった」
「戦闘技術だけではなく、獅堂剛毅の思想を理解したことが評価されたのでしょう」
澄玲が言う。
新しい文章が浮かぶ。
――反証とは、対立する《結論》を消去することではない。
――その《前提》を理解し、より広い《結論》によって包摂せよ。
「包摂?」
「相手の答えを完全に否定するのではなく、その答えを含んだ上で別の《結論》を示すことです」
獅堂が学生証を見る。
「俺の命題を否定するだけじゃ、試験には合格できないってことか」
「お前を倒しながら、お前の考えも救えと?」
「余計なお世話だ」
「同感だ」
俺たちの声が重なる。
澄玲が端末へ記録する。
「対戦者間の心理的類似性を確認」
「記録するな」
「するな!」
再び声が重なった。
◇
《地殻演習区》第五層を出る頃には、夜になっていた。
昇降機へ向かう俺たちの背後で、生命反応の表示が浮かんでいる。
――生命反応、三。
「最初は四と表示されていた」
俺が言う。
「現在は正常値です」
「結局、誰かいたのか?」
「観測機器の誤作動であった可能性も残っています」
「存在強度が高いから、誤差は起きにくいと言ってなかったか」
「起きにくいことと、起きないことは異なります」
澄玲は周囲を見回す。
「ただし、警戒は必要です」
昇降機の扉が開く。
俺たちは中へ入った。
扉が閉じる直前。
荒野の向こうで、何かが動いた。
「待て」
「どうしました?」
「今、誰か――」
扉が閉じる。
昇降機が上昇を始める。
「戻りますか」
俺は少し迷った。
生命反応は三。
それでも。
誰かが石碑の横に立っていた。
黒い服。
顔は見えない。
左胸に、穴が開いているように見えた。
「……いや」
目の錯覚かもしれない。
訓練の疲労も残っている。
「今は帰ろう」
「分かりました」
表示が切り替わる。
第五層。
第四層。
第三層。
昇降機が地上へ近づいていく。
その間。
俺は気づかなかった。
自分の胸元。
服の下。
心臓の真上に。
黒い円形の痣が浮かび始めていることに。
◇
《地殻演習区》第五層。
俺たちが去った後。
獅堂は一人で石碑の前に立っていた。
「出てこい」
返事はない。
「最初から見てたんだろ」
荒野の生命反応表示は、三。
この場には獅堂一人しかいない。
それでも。
石碑の裏から、黒衣の人物が姿を現した。
顔は白い仮面に覆われている。
胸元には、十三枚の翼を持つ紋章。
「帝都神律大学の学生じゃないな」
獅堂が両足を踏みしめる。
金色の線が大地へ広がる。
「何者だ」
黒衣の人物は答えない。
ただ。
獅堂が立つ地面へ視線を落とした。
『強固な《前提》を確認』
男とも女とも判別できない声。
『対立命題、万象は我が礎』
「俺の能力を知っている?」
『第二証明に利用可能』
「黒瀬の試験を作った奴か」
黒衣の人物が、初めて獅堂を見る。
『黒瀬零は二日後に死亡する』
「何?」
『その《結論》を覆すため、あなたの命題が必要となる』
「意味が分からない」
『あなたは彼を支えよ』
獅堂の表情が険しくなる。
「俺が、あいつを?」
『ただし』
黒衣の人物の身体が、影のように崩れ始める。
『彼が望む場所へ立たせてはならない』
「待て!」
獅堂が地面を隆起させる。
岩の壁が黒衣の人物を囲む。
「何を知っている!」
壁が閉じる。
だが。
その内側には誰もいなかった。
代わりに、地面へ一行の文字が刻まれている。
――黒瀬零の死を阻止した場合、第二証明は失敗する。
獅堂は、その文章を見下ろした。
「死なせても失敗」
拳を握る。
「助けても失敗だと?」
地面へ刻まれた文字は、答えない。
ただ最後に。
新しい一文が浮かび上がった。
――証明とは、唯一の正解を選ぶ行為である。
獅堂は長い間、その言葉を見つめていた。
やがて。
地面を踏み鳴らす。
文字が岩ごと砕け散った。
「気に入らねえ」
獅堂の金色の瞳が、怒りに燃える。
「誰かが決めた正解へ従うのは、王じゃない」
誰もいない荒野で。
彼は一人、宣言した。
「黒瀬零を死なせず、試験にも勝たせる」
金色の線が、《地殻演習区》第五層全域へ広がった。
「それが不可能だっていうなら――」
地平線の山々が、一斉に立ち上がる。
「俺たち二人で、その《結論》を潰す」




