第六話 二・四秒を捨てろ
翌朝。
俺は、帝都神律大学で初めての講義を受けていた。
「では諸君。命題とは何か」
階段状に座席が並ぶ大講義室。
その最下段で、白髪交じりの教授が黒板へ大きく文字を書いた。
命題。
世界法則。
自己証明。
黒板といっても、実際には空中へ文字や映像を投影する法則表示板だ。
教授が指を動かすたび、書かれた文章が立体的に並び替えられていく。
講義名は《命題基礎論Ⅰ》。
帝都神律大学へ入学した能力者が、所属学部に関係なく履修しなければならない必修科目だった。
「人間の願望が現実になったもの」
前方の学生が答える。
「五十点」
教授は即座に切り捨てた。
「では、世界へ自分の法則を押しつける能力」
別の学生。
「六十五点」
「精神によって発生する超常現象」
「三十点。入学案内を読み直しなさい」
容赦がない。
教授は教壇へ両手をつき、講義室全体を見渡した。
「命題とは、個人の思想が世界法則として発現したものだ。ここまでは中等教育でも習う」
空中に一人の能力者が表示される。
男が腕を振るうと、炎が出現した。
「火を生み出すだけなら現象操作にすぎない。だが、彼が『私の怒りに触れたものは燃える』という思想を世界へ適用するなら、それは命題となる」
映像の男へ、一枚の紙が投げられた。
男は紙を見ていない。
触れてもいない。
それでも紙は空中で燃え上がった。
「重要なのは、炎ではない」
教授が黒板に線を引く。
怒り。
接触。
燃焼。
「なぜ燃えるのか。何を燃やせるのか。燃焼を成立させる条件は何か。その能力者にとって、怒りとは何を意味するのか」
《前提》。
《論証》。
《結論》。
三つの言葉が黒板の中央へ並ぶ。
「諸君の命題は、便利な道具ではない」
教授の声が低くなった。
「諸君が、どのような人間であるか。その答えだ」
俺は自分の右手を見る。
途切れた円環の紋様は、今は消えている。
俺の未証明。
世界が一つの《結論》へ確定することを保留する能力。
《前提》候補。
確定しようとする《結論》を認識していること。
実現可能な別の《結論》を想定していること。
《論証》候補。
能力を発動している間に、自分の行動によって別の《結論》へ到達すること。
俺は昨日まで、落下という結果を二・四秒間止めるだけの能力だと思っていた。
だが実際には、結果そのものではなく、どの《結論》が真実になるかという判定へ干渉していた。
それでも、まだ分からないことは多い。
なぜ俺がこの命題を持っているのか。
何を否定し。
何を証明したいのか。
「黒瀬零」
隣に座る澄玲が、小声で俺を呼んだ。
「何だ」
「前を見てください」
顔を上げる。
講義室にいるほとんどの学生が、俺を見ていた。
教壇の教授もだ。
「聞いていなかったのかね」
「すみません」
「君のことを話していた」
嫌な予感がした。
教授が指を動かす。
黒板に、《公開査問》の予定表が表示された。
最上部に俺と獅堂の名前が並んでいる。
――黒瀬零。
――第五種命題能力者。
――対戦者、獅堂剛毅。
――第四種命題能力者。
「入学から三日で《公開査問》を申請した新入生は、大学史上でも珍しい」
「俺が申請したわけではありません」
「対戦を拒否していないなら、同じことだ」
講義室がざわつく。
「第五種が第四種と?」
「入試最下位の奴だろ」
「何を賭けるんだ?」
「法則災害学部の特別研究室に入ったって噂、本当なのか?」
あちこちから声が聞こえる。
俺は可能な限り無視した。
「ちょうどよい機会だ」
教授が言う。
「黒瀬君。《公開査問》とは何か説明してみなさい」
「学生同士が命題を使って戦う制度です」
「二十点」
「低すぎませんか?」
「それでは課外の喧嘩と変わらない」
教授は黒板に新しい文字を書く。
公開。
査問。
証明。
「《公開査問》は、学説や研究成果の正当性を審査する制度だ。戦闘は、その手段の一つにすぎない」
「手段?」
「通常の研究者は、論文を書き、学会で発表し、他の研究者から質問を受ける」
教授の周囲に、研究発表を行う学生たちの映像が浮かぶ。
「その仮説に根拠はあるのか。実験条件は適切か。他の解釈は考えられないか。研究者は批判を受け、自らの学説を守らなければならない」
映像が変わる。
二人の能力者が競技場で向かい合う。
「命題は、使い手の思想そのものだ。ならば、その正当性を確かめる最も直接的な方法は何か」
「別の命題と衝突させること」
澄玲が答えた。
「正解だ、九条君」
教授は満足そうに頷く。
「自分の能力を説明する。相手はその理論を理解した上で、弱点や矛盾を突く。それでも能力が再現され、自らの《結論》を成立させられるなら、その命題は学術的に証明されたと判断される」
「単純に勝った方が正しいとは限らない?」
前方の学生が質問する。
「当然だ」
教授が答える。
「優れた学説を持つ者が、必ずしも戦闘に強いとは限らない。反対に、強大な出力で相手を殴り倒しても、能力理論が間違っていれば査問評価は低くなる」
「勝敗と審査結果が異なることもあるのですか」
「珍しくない。試合で勝利し、学術審査で敗北することもある」
教授の視線が俺へ戻る。
「黒瀬君。君が獅堂君を殴り倒しても、自らの命題を再現できなければ、証明にはならない」
「分かっています」
「本当に?」
教授は俺の能力情報を黒板へ表示した。
――未証明。
――第五種。
――最大持続時間、二・四秒。
「君の提出資料には、発動時間が二・四秒と書かれている」
「入学試験で測定された数値です」
「その二・四秒に、どのような意味がある?」
答えられない。
「能力の限界なのか。精神力による制限か。発動条件に関係する時間か。それとも単なる測定結果か」
教授が指を鳴らす。
数字が赤く染まる。
「説明できない数値を、能力の設定として受け入れるな」
その言葉は、今から行う実験を見透かしているようだった。
「世界が君へ与えた二・四秒なのか」
教授が問いかける。
「それとも、君自身が世界へ許した二・四秒なのか」
◇
講義終了後。
俺と澄玲は、すぐに《未定義現象研究室》へ向かった。
「聞いていたかのような講義だったな」
俺が言う。
「私たちの実験計画が、担当教授へ共有されていた可能性があります」
「神代教授が伝えた?」
「または、あの教授が独自に黒瀬零を調査している」
「どっちにしても、気分は良くないな」
「大学では、研究対象になれば多くの人間から観察されます」
「俺は学生として入学したんだけど」
「現在は学生兼被験者です」
「勝手に兼任させるな」
第十二講義棟の業務用エレベーターへ入る。
灯の学生証を操作盤へ近づけると、存在しないはずの黒いボタンが浮かび上がった。
ボタンを押す。
エレベーターが下降を始める。
表示された数字は、地下三階を越え、再び意味のない記号へ変わった。
「そういえば」
俺は隣の澄玲を見る。
「昨日、どうして最後にカップを投げた」
「あなたが投げる物を要求したからです」
「コーヒーが入っていた」
「少量です」
「熱かったぞ」
「覚醒作用が必要だと判断しました」
「物理的に目を覚まさせるな」
エレベーターの扉が開く。
「遅い」
神代緋月が、腕を組んで待っていた。
「講義が終わってから直行しました」
「二分四十七秒、想定より遅れている」
「教室から走ってきたんですが」
「黒瀬零が途中で飲み物を購入しました」
澄玲が報告する。
「言わなくていいだろ」
「観測事実です」
緋月は俺が持っている飲料の容器を見る。
「実験前に糖分を取る判断自体は正しいわ。連続した命題行使では、脳が大量のエネルギーを消費する」
「じゃあ遅刻扱いはなしで」
「それとこれとは別」
大学とは理不尽な場所だ。
「天城先輩は?」
「《第一宇宙観測環》へ出ている」
「昨日も観測環に張りついていたと言っていましたね」
澄玲が尋ねる。
「何か異常があるのですか」
「小規模な測定誤差よ」
緋月は短く答えた。
「今のあなたたちが気にする必要はない」
「そう言われると、余計に気になります」
「気にしなさい。ただし、調べるのは目の前の問題を終えてから」
緋月が《法則検証室》の扉を開く。
室内には、昨日までなかった巨大な装置が設置されていた。
高さは十メートルほど。
二本の柱の間に、巨大な振り子が吊り下げられている。
振り子の先端には、鉄球ではなく幅三メートルほどの黒い刃が取りつけられていた。
「処刑器具か?」
「命題持続時間測定装置よ」
「刃が必要なのか?」
「視覚的な危機感を与えるため」
「つまり処刑器具じゃないか」
部屋の中央には、透明な箱が置かれている。
箱の中には、卵が一つ入っていた。
「今日の実験内容を説明する」
緋月が刃を指す。
「振り子を作動させると、刃が箱へ向かって落下する」
「俺が能力で止める」
「ええ。ただし、目的は刃を二・四秒間停止させることではない」
箱の隣に、小さなレバーがある。
「刃を止めている間にレバーを引けば、箱が床下へ収納される」
「卵を助けた時点で、能力を解除する」
「そういうこと」
澄玲が観測装置を確認する。
「レバーまでの距離は二・一メートル。通常の移動でも、一秒以内に到達可能です」
「今回測るのは、任意解除までの時間よ」
緋月が空中に項目を表示する。
――発動。
――代替《結論》の成立。
――任意解除。
「あなたはこれまで、代替《結論》が成立した後も二・四秒間、命題を維持し続けていた」
「途中で解除できるか試す」
「単に解除しようと考えるだけでは駄目よ」
「なぜだ」
「命題は、照明や機械ではない。使用者の都合で電源を切るものではないから」
緋月は卵を指した。
「元の《結論》は、刃が箱を破壊すること」
「別の《結論》は、箱が床下へ逃げること」
「その別の《結論》が成立したと、あなた自身が認識した瞬間。未証明は役割を終える」
「その瞬間に解除する」
「違う」
緋月が否定した。
「解除するのではなく、終わらせるのよ」
似ているようで、意味は違う。
「自分の能力を使うことだけを考えない。なぜ使う必要があり、いつ必要がなくなったのかを理解しなさい」
緋月が装置の起動盤へ手を置く。
「準備は?」
「いつでも」
「実験開始」
固定具が外れる。
巨大な刃が振り子となり、透明な箱へ向かって加速した。
風を切る音。
刃が迫る。
「未証明!」
音が消える。
刃が箱の直前で停止した。
俺はレバーへ走る。
掴む。
引く。
箱が床下へ沈んでいく。
「解除!」
俺は右手へ意識を集中させた。
何も起こらない。
箱は既に床下へ消えている。
刃が進んでも卵には当たらない。
それでも世界は静止したままだ。
二・四秒後。
能力が切れる。
刃が動き出し、箱のあった空間を通過した。
「任意解除、失敗」
澄玲が記録する。
「箱は避難していた」
「ええ」
「なら、別の《結論》は成立していたはずだ」
「あなたは、能力を解除しようとした」
緋月が言う。
「それが何か違うのか」
「卵を守ることより、能力を制御することへ意識が向いていた」
「実験なんだから当然だろ」
「だから失敗したのよ」
緋月が箱を元の位置へ戻す。
「もう一度」
◇
二回目。
失敗。
三回目。
失敗。
五回目。
失敗。
箱を床下へ収納することはできる。
それでも未証明は、必ず二・四秒間続いた。
「何が悪い」
俺は荒い呼吸を整えながら尋ねた。
短時間とはいえ、能力を繰り返せば頭の奥に熱が蓄積する。
「おそらく、黒瀬零の中で《結論》が切り替わっていません」
澄玲が過去の映像を並べる。
「刃が卵を破壊する」
最初の《結論》。
「刃が卵を破壊しない」
俺が望んだ《結論》。
「箱は避難した。実際には既に卵へ命中する可能性が消えている。それでも、あなたは刃へ意識を向け続けている」
「危険が完全に消えたと信じていない?」
緋月が尋ねる。
「機械が故障するかもしれない。箱の収納が止まるかもしれない。刃の軌道が変わるかもしれない」
「実際に可能性はあるだろ」
「あるわ」
「なら、《結論》が確定したとは言えない」
「そこよ」
緋月が俺を指さした。
「あなたは、すべての可能性を疑い続けている」
俺は言葉を失う。
「それがあなたの長所であり、未証明を生み出した根でもある」
灯は存在しない。
世界中から、そう言われた。
それでも俺は疑った。
写真が消えても。
記録が消えても。
家族が忘れても。
世界の方が間違っている可能性を捨てなかった。
「だが、疑い続けるだけでは《結論》を終えられない」
緋月が言う。
「あなたは別の結果を作っても、それが正しいと確信できない」
「疑うことが、能力を終わらせる邪魔になっている?」
「ええ」
「でも、俺が簡単に確信できるなら、こんな能力は持っていない」
「だから難しいのよ」
緋月は冷たく聞こえるほど静かだった。
「疑うことを捨てろとは言わない」
「なら、どうすればいい」
「選びなさい」
「何を」
「疑いが残っていても、自分はこの《結論》を採用すると決める」
真実だと確信するのではない。
間違っている可能性を消すのでもない。
それでも。
自分が選ぶ。
「世界が正しい答えを与えるまで待ってはいけない」
緋月が言う。
「待ち続ければ、あなたは永遠に未証明を終えられない」
灯の存在も同じだった。
俺には、灯が生きているという完全な証拠はない。
声が偽物である可能性。
学生証が罠である可能性。
俺の記憶そのものが作られた可能性。
いくらでも疑える。
それでも俺は、灯が存在すると決めた。
証拠が揃ったからではない。
俺が兄として、そう選んだからだ。
「もう一度やる」
俺は装置の前へ立った。
「休憩は?」
「今、分かりかけてる」
緋月は数秒、俺の状態を観察した。
「次で一度休む。条件よ」
「分かった」
箱が元の位置へ戻る。
卵が入っている。
振り子が持ち上がる。
「実験開始」
刃が落ちる。
「未証明!」
静止。
俺はレバーへ走る。
引く。
箱が床下へ収納される。
まだ疑いはある。
収納装置が止まるかもしれない。
箱が壊れるかもしれない。
卵が別の原因で割れるかもしれない。
可能性は消えない。
それでも。
「卵は助かった」
俺は言った。
願望ではない。
確認でもない。
俺自身が採用する《結論》。
「俺が、そう決めた」
右手の紋様が消える。
世界へ音が戻った。
刃が動き出し、何もない空間を通過する。
その間。
〇・七秒。
「任意終了、成功」
澄玲が記録を読み上げる。
「命題持続時間、〇・七三秒」
「できた……」
頭の奥に残る熱は、これまでよりも明らかに少ない。
「二・四秒は、最大持続時間ではなかった」
澄玲が数値を比較する。
「黒瀬零が、《結論》を選べずに保持し続けていた時間です」
「二・四秒後に切れていた理由は?」
「精神が、それ以上の判定停止へ耐えられなかったからでしょう」
緋月が答える。
「言い換えれば、二・四秒とは能力の持続時間ではない」
彼女は赤い数字を消す。
「あなたが《結論》を選ばなかった場合に、世界が強制的に議論を打ち切るまでの時間よ」
能力の限界ではなかった。
世界が俺の異議を許す猶予。
その間に別の《結論》を作り。
自分で選ばなければならない。
「続けるぞ」
「休憩です」
澄玲が言う。
「今の感覚を忘れる前に――」
「短期記憶の定着には休息が必要です」
「五分だけでも」
「十五分です」
「十」
「十五」
「十二」
「交渉ではありません」
融通が利かない。
◇
休憩後。
実験内容は、単純な刃の停止から複数の危機への対応へ変わった。
床から飛び出す杭。
横から発射される弾丸。
上から落ちる鉄板。
俺は、それぞれが命中するという《結論》を未証明で止める。
避けた瞬間。
掴んだ瞬間。
軌道を変えた瞬間。
別の《結論》を選び、能力を終わらせる。
「〇・五一秒」
弾丸を避ける。
「〇・三八秒」
鉄板から逃れる。
「〇・二二秒」
飛来する球体を弾く。
持続時間が短くなるほど、精神負荷も減少する。
これまで一度の発動に使っていた負荷で、何度も連続使用できる。
「次は空中移動へ移行する」
緋月が演習場の床を消した。
俺の足元から支えがなくなる。
落下。
「未証明!」
身体が止まる。
前方から金属球が飛んでくる。
拳で弾く。
反作用によって身体が移動した瞬間。
「終われ!」
能力が解除される。
持続時間、〇・一九秒。
新しい方向へ落下する。
別の金属球が接近する。
「未証明!」
停止。
接触。
方向転換。
終了。
再び落下。
停止。
選択。
終了。
昨日は、発動するたびに二・四秒間止まっていた。
動きは遅く。
一回ごとに大きな隙があった。
今は違う。
瞬間的な停止と方向転換を連続させる。
空中に、折れ曲がった軌道が刻まれていく。
「連続発動、十回」
澄玲が記録する。
「精神負荷、昨日の三回分以下です」
「もっと速くする!」
「焦らないでください」
今度は上方から金属板が落ちてくる。
板に潰される。
その《結論》を止める。
側面を殴る。
身体が下方へ押し返される。
《結論》を選ぶ。
終わらせる。
「未証明!」
一瞬。
また一瞬。
外から見れば、俺の身体が空中で何度も位置を飛ばしているように見えるはずだ。
飛んではいない。
俺は落ち続けている。
ただし。
落下先を、一度ごとに選び直している。
「不定墜道」
澄玲が現象名を読み上げた。
昨日、天城先輩が勝手につけた名前。
今では、その名称が俺の動きを正確に表しているように思えた。
地上へ落ちる。
壁へ落ちる。
天井へ落ちる。
飛来物へ落ちる。
一つの下へ従うのではなく、複数の落下を連結する。
「右上、二・四メートル!」
澄玲の指示。
俺は迫る金属球を肘で弾いた。
方向転換。
「前方、壁面まで三メートル!」
壁へ衝突する直前に未証明を発動。
壁を蹴る。
身体が反転。
即座に終了。
「空中滞在、一分を突破」
昨日の限界を超えた。
まだ頭は動く。
視界も明瞭だ。
「一分二十秒」
別の《結論》を選ぶたび。
俺がどこへ行くのか、自分で決めるたび。
未証明はすぐに終わる。
「一分四十秒」
これなら、獅堂と戦える。
あいつが上下を変更するほど、俺には新しい落下方向が生まれる。
地面を作るほど、衝突に使える物が増える。
「二分!」
澄玲の声が、わずかに弾んだ。
俺は最後の金属球を殴り、演習場中央へ身体を向ける。
前方には、緋月が用意した人型標的。
「未証明!」
落下を停止。
姿勢を整える。
このまま直進する。
標的へ拳を叩き込む。
その《結論》を選ぶ。
「終われ!」
能力が解除される。
蓄積していた速度が戻る。
拳が標的の胸部へ直撃した。
金属製の人形が吹き飛び、演習場の壁へ激突する。
俺自身も反作用で後方へ飛ばされた。
緋月が床を元へ戻す。
落下する。
足が床へ触れる直前、膝を曲げて衝撃を逃がした。
「空中滞在、二分十三秒」
澄玲が最終結果を告げる。
「連続命題行使、八十二回」
「精神負荷は?」
「昨日の十七回行使時とほぼ同等です」
八十二回。
単純計算でも、以前の五倍近い回数を使えている。
「これなら……」
「獅堂の攻撃がなければ、ね」
緋月は冷静だった。
「本番では、移動物の軌道も、落下方向も、すべて彼が変更する」
「分かってる」
「あなたが選ぼうとした《結論》を、途中で潰される可能性もある」
「なら、また別の《結論》を選ぶ」
「それを繰り返せば、いずれあなたの方が先に限界へ達する」
「三日後までに、さらに負担を減らす」
「それだけでは足りないわ」
緋月は人型標的を見た。
胸部はへこんでいる。
だが戦闘不能と判断されるほどの損傷ではない。
「動けるようになっても、獅堂を倒す手段がない」
俺の攻撃力は、普通の人間より多少高い程度。
未証明は直接的な破壊力を持たない。
一方で獅堂は、自分の周囲に岩壁を作れる。
近づけたとしても、守りを突破できない。
「昨日は、あいつの足元へ振動を伝えた」
「奇襲だったから成功した」
澄玲が言う。
「次は対策されるでしょう」
「獅堂の《前提》を崩さなければならない」
両足が同じ連続面へ接触していること。
それが万象は我が礎の発動条件。
だが獅堂は、空中でも足場を持ち運べる。
水や空気さえ地面に変える。
外部から足場を破壊するだけでは、すぐに作り直される。
「獅堂本人に、地面から離れてもらうしかない」
俺が言うと、緋月はわずかに眉を動かした。
「どうやって?」
「まだ分からない」
「では、仮説とは呼べない」
「だから考える」
俺は灯の学生証を取り出した。
裏面には、《第二証明》の進行度が表示されている。
昨日は一七パーセント。
今は。
――第二証明、進行度。
――三一パーセント。
「上がってる」
「任意終了の成功と、不定墜道の再現性が認められたのでしょう」
澄玲が学生証を観測する。
赤い文字が新しく浮かび上がった。
――異議の継続は、証明ではない。
――反対する者は、別の《結論》を選択せよ。
「今の実験と同じだ」
俺が言う。
「否定し続けるだけでは駄目。自分の答えを選ばなければならない」
続いて、もう一行。
――対立命題を理解せずして、反証は成立しない。
「対立命題」
澄玲が読む。
「獅堂剛毅の万象は我が礎を指している可能性が高いですね」
「能力の構造は資料で確認した」
「構造だけでは不十分という意味かもしれない」
緋月が言う。
「命題は、使い手の思想が世界法則として現れたもの」
「つまり、獅堂本人を理解しろと?」
「なぜ彼が地面を求めるのか。なぜ自分の下へ他者を置こうとするのか。なぜ『支えるもの』を『支配するもの』として捉えているのか」
「本人に聞いて答えると思うか?」
「聞き方次第ね」
そのとき。
俺の構内端末が震えた。
新着メッセージ。
送信者は、獅堂剛毅。
――明日の午後六時。
――地殻演習区第五層へ来い。
――俺の命題を見せてやる。
「本人から招待が来た」
「偶然にしては、出来すぎています」
澄玲がメッセージを見る。
「学生証の指示を、獅堂も知っているのでしょうか」
「分からない」
「罠の可能性は?」
「高いでしょうね」
緋月が言う。
「それでも行く」
「止めないわ」
「意外だな」
「《公開査問》では、対戦相手の命題を理解することも審査の一部。獅堂が自分から説明するなら、断る理由はない」
「教授も来るのか?」
「行かない」
「罠かもしれないって言っただろ」
「だから、九条澄玲を同行させる」
「私ですか」
「あなたの世界は解を持つは、脱出経路の確保に向いている」
「黒瀬零を守る役割ですか」
「記録係よ」
「俺の安全は?」
「自分で証明しなさい」
どこまでも厳しい。
俺はもう一度、獅堂からのメッセージを見る。
地殻演習区第五層。
名称からして、まともな場所とは思えない。
返信欄へ短く入力する。
――分かった。
送信。
すぐに既読がついた。
さらに一通。
――遅れるな。
俺は端末を閉じる。
「随分と律儀な奴だな」
「獅堂剛毅は、力による上下関係を重視しています」
澄玲が言う。
「しかし、規則を破って勝利するより、正面から自分の優位を証明することを好むのでしょう」
「悪い奴ではないと言いたいのか?」
「現時点では、性格に問題のある危険人物です」
「評価が厳しいな」
「あなたを崖から落としていますから」
澄玲は、そう言って端末へ何かを入力した。
「何を記録した?」
「獅堂剛毅の問題行動一覧です」
「まだ続けてたのか」
「研究資料です」
◇
その日の訓練が終わり。
俺と澄玲が研究室を出た後。
神代緋月は、一人で《法則検証室》へ残っていた。
空中に、俺の訓練記録が映し出されている。
〇・七三秒。
〇・三八秒。
〇・一九秒。
未証明の持続時間が、急速に短くなっていく。
「異議を唱え、別の《結論》を選び、自ら議論を終了する」
緋月は記録を見ながら呟く。
「やはり、単純な判定停止ではない」
彼女が指を動かす。
俺の発動時に観測された法則反応が拡大された。
通常、命題を行使すると、能力者の思想が世界法則へ干渉する。
世界と人間。
二つの法則が衝突し、より強い方が現実として採用される。
だが俺の未証明は違う。
世界を押し返していない。
自分の《結論》を押しつけてもいない。
世界と能力者。
その両者の外側から、判定そのものへ触れている。
「第五種であるはずがない」
緋月が呟く。
出力だけを見れば弱い。
影響範囲も、自分の周囲に限られている。
持続時間も短い。
だから第五種と判定された。
しかし原理だけを見れば。
「この命題は、等級制度の外にある」
研究室に警告音が響いた。
《第一宇宙観測環》からの通信。
空中に、天城朔夜の姿が表示される。
『教授。少し問題が出ました』
「少しという言葉を使うときのあなたは、たいてい重大な問題を持ってくるわね」
『今回は、本当に少しです』
天城は笑っていない。
『《第一宇宙観測環》が、観測対象を見失いました』
「何を?」
『宇宙をです』
緋月の表情が変わった。
「詳しく説明して」
『観測環は正常に動作しています。光速度、空間次元数、因果連結率。すべて測定可能です』
「なら、何を見失ったの」
『それらが、同じ宇宙に属しているという根拠です』
空中へ、複数の観測結果が表示される。
光速度は正常。
重力定数も正常。
時間方向も正常。
一つずつ見れば、異常はない。
だが。
昨日測定した光速度と。
今日測定した重力定数と。
現在測定している空間次元数。
それらが同一の世界から得られた数値であるという接続情報だけが消え始めている。
『観測するたびに、別の宇宙を測定している可能性があります』
「局所整合性は?」
『九九・九九パーセント。異常なし』
「全体整合性」
天城が一瞬、黙った。
『測定不能です』
緋月は右目の眼帯へ触れる。
「いつから?」
『黒瀬零が命題の任意終了に成功した時刻と、ほぼ一致します』
偶然。
そう切り捨てるには、出来すぎている。
『教授』
天城の背後にある観測画面が、一斉に暗転した。
『何か来ます』
黒い画面の中央に、一行の文字が浮かび上がる。
――第二証明の進行を確認。
続いて。
――反証者は、自らが否定される可能性を受容せよ。
緋月が文字を読み終えた瞬間。
《法則検証室》の中央に、黒瀬零の姿が現れた。
先ほど帰ったはずの零。
ただし。
左胸には、大きな穴が開いていた。
その身体が床へ崩れ落ちる。
「黒瀬零!」
緋月が駆け寄る。
脈はない。
呼吸もない。
完全に死亡している。
だが、次の瞬間。
遺体は映像が乱れるように消えた。
床には血痕一つ残っていない。
『教授、今のは?』
「未来予測ではない」
緋月は立ち上がる。
「可能性の提示よ」
黒い画面に最後の文章が表示された。
――証明に失敗した黒瀬零は、二日後に死亡する。
天城の表情が凍る。
『本人へ伝えますか』
緋月は答えなかった。
二日後。
《公開査問》の前日。
まだ決定された未来ではない。
だからこそ。
黒瀬零の命題は、その結末へ異議を唱えられる。
だが。
もし、この表示そのものが未証明へ与えられた試験だとしたら。
「自分の死を知った上で、別の《結論》を選べるか」
緋月は黒い文字を見つめる。
「それを試すつもりなのね」




