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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第一章 帝都神律大学・入学編

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第五話 落ち続ける者

 能力が切れる。


 俺の身体が落下を始めた。


 いや。


 落下と呼んでいいのかさえ分からない。


 神代教授の研究室は、獅堂の命題(テーゼ)によって上下を何度も書き換えられている。


 さっきまで床だった場所が壁になり。


 壁だった場所が天井になり。


 今は宇宙を映していた窓が、俺の真下にある。


 身体が窓へ向かって引かれていく。


「黒瀬!」


 天城先輩の声が聞こえた。


 けれど、俺は返事をする余裕もなく、窓へ向かって落ち続ける。


 掴めるものはない。


 いや、違う。


 目の前には金属の輪がある。


 獅堂が俺へ差し出した、逃げ道。


 これを掴めば落下は止まる。


 だが、輪が俺の身体を支えた瞬間、それは獅堂にとっての地面になる。


 彼の万象は我が礎(グランド・レガリア)は、自分や他者を支えるものを礎として定義し、その位置と上下関係を支配する。


 掴めば、支配される。


 掴まなければ、落ちる。


「選べよ」


 壁に立つ獅堂が笑う。


「地面にすがるか、何にも支えられずに落ちるか!」


 窓が迫る。


 透明な板の向こうには、底の見えない星空。


 窓そのものは開かないと聞いている。


 衝突しても宇宙へ放り出されるわけではない。


 けれど、この速度で叩きつけられれば無事では済まない。


 俺は右手を握りしめた。


未証明(アンプローヴン)!」


 世界から音が消える。


 身体が止まる。


 窓までの距離、およそ三メートル。


 残り時間は二・四秒。


 また同じだ。


 この間に別の《結論》へたどり着かなければ、能力が切れた瞬間に再び落下する。


 輪を掴む。


 それ以外の可能性を探す。


 けれど、何もない空中で人間が進路を変えることはできない。


 空気を蹴っても、移動できる距離はわずか。


 支えがなければ、落ちる。


 それが物理法則だ。


 俺の命題(テーゼ)は、願えば奇跡を起こしてくれる能力ではない。


 存在しない可能性を新しく作ることはできない。


 なら。


 俺に残された別の可能性は、本当にないのか。


「一・六秒」


 澄玲の声が聞こえる。


 時間を数えている。


「一・二」


 窓。


 金属の輪。


 壁に立つ獅堂。


 横倒しになった机や椅子。


 床へ固定されたまま、こちらから見れば壁に張りついている神代教授。


 あらゆる物が、同じ方向へ落ちている。


 いや。


 一つだけ、おかしい。


 研究室の中央に浮かぶ映像装置。


 あれは獅堂が上下を変えても、その場から動いていない。


 空間へ固定されているからだろう。


 けれど俺は違う。


 獅堂が重力の向きを変える前、俺は別の方向へ落ちていた。


 その後、未証明(アンプローヴン)を発動した。


 俺の身体は、落下という《結論》を保留したまま空中に止まった。


 では。


 今、能力が切れたとき。


 俺はどちらへ落ちる。


 獅堂が新しく決めた下か。


 それとも、能力を発動する直前まで落ちていた方向か。


「〇・五秒」


 二つの《結論》がある。


 ならば。


「獅堂!」


「あ?」


「もう一度、上下を変えろ!」


 獅堂の眉が動いた。


「何を言って――」


「早くしろ!」


「俺に命令するな!」


 獅堂が壁を蹴りつける。


 研究室全体が震えた。


 俺の右側にあった壁が、今度は下になる。


 重力方向が九十度回転する。


 同時に、未証明(アンプローヴン)の効果が切れた。


 身体へ力が戻る。


 本来なら、新しく下と定められた方向へ落ちるはずだった。


 だが。


 俺の身体は、斜めに飛んだ。


「なに?」


 獅堂の声が響く。


 能力を発動する前までの落下速度。


 新しく指定された重力方向。


 二つが重なり、俺の身体は窓を避けて斜め下へ投げ出された。


 飛んでいるのではない。


 落ちている。


 ただし、世界が想定した方向とは違う。


「九条!」


「前方、四・三メートルに机があります!」


 澄玲の声。


 机は俺と同じように、新しい下へ向かって落ち始めている。


 俺の方が速い。


 このままでは衝突する。


 だが、机を掴めば支えられてしまう。


「掴む必要はない!」


 俺は身体を丸める。


 机の側面を、右手で殴った。


 衝撃で机の軌道が変わる。


 反作用で俺の身体も反対側へ押し返された。


「それは支えではない……」


 澄玲が呟く。


「瞬間的な衝突です。黒瀬零の重量を継続的に保持していない」


「屁理屈だ!」


 獅堂が叫ぶ。


「物理学です」


 澄玲は真顔で返した。


 俺は回転しながら、獅堂のいる壁へ向かう。


「来るな!」


 獅堂が足元を踏む。


 壁から無数の岩槍が突き出した。


 研究室の壁は本来、岩ではない。


 それでも獅堂にとって、自分の立つ面と接続しているものは、すべて支配領域だ。


 白い壁が砕け、内部から黒い岩が生まれる。


 三本。


 五本。


 十本。


 岩槍が俺の身体を貫こうと迫る。


未証明(アンプローヴン)!」


 命中という《結論》を止める。


 岩槍が目の前で静止した。


 俺自身の速度も、ほとんど失われる。


 発動中に別の《結論》へ移らなければならない。


 岩槍は掴めない。


 掴めば、俺を支える礎になる。


 なら。


 俺は最も近い岩槍の側面を蹴った。


 足は一瞬だけ触れる。


 だが、その上に立ってはいない。


 体重を預けてもいない。


 ただ衝突し、押し返す。


 その反動で、身体を別方向へ飛ばす。


 直後に能力が切れた。


 岩槍が一斉に動き出す。


 俺がいた空間を、複数の岩が貫いた。


「足が触れたぞ!」


「立ってはいない」


 緋月が答える。


「学生証の条件は、『地面へ足を触れず』と書かれていたはずだ!」


 俺も一瞬、動きを止めかけた。


 確かにそうだ。


 地面へ足を触れずに勝利せよ。


 俺は獅堂が作った岩槍を蹴った。


 あれが地面と判定されるなら、既に失敗している。


 慌てて灯の学生証を見る。


 空中に投影された赤い文章は、消えていない。


 失敗の表示も出ていない。


「どういうことだ」


 澄玲が学生証を観測する。


「岩槍は、条件上の地面として認識されていません」


「獅堂の命題(テーゼ)では礎になっているはずだ」


「彼の能力上の地面と、試験が定義する地面は同一ではない」


 緋月が言った。


「試験が問題としているのは、単純な接触ではないのかもしれない」


 何にも支えられずに勝利する。


 そう解釈していた。


 だが岩槍を蹴った瞬間、俺は確かに岩から反作用を受けた。


 力を借りた。


 それでも条件違反にはならない。


「継続的に、自分の立場を何かへ預けること」


 天城先輩が目を細める。


「それが、ここでいう『地面へ足を触れる』って意味か」


「地面は物質じゃない」


 俺は獅堂を見る。


「あいつの命題(テーゼ)と同じだ」


 獅堂にとって、地面とは土や岩ではない。


 自分を支えるもの。


 自分の立場を保証するもの。


 試験条件もまた、言葉どおりの地面だけを指していない。


「何かの上へ立ち、自分の位置を確定させること」


 澄玲が言う。


「試験は、それを禁じている」


「つまり、落ち続けろっていうのか」


 俺は思わず笑った。


 正気とは思えない。


 それでも。


 最初から、空中へ止まろうとしたことが間違いだったのかもしれない。


 落下を敗北だと考えた。


 地面へ着かなければならないと思った。


 どこかへ立たなければ、人間は戦えないと思い込んでいた。


 けれど。


 落ちている間も、俺は動ける。


 殴れる。


 考えられる。


 別の物体へ衝突し、そのたびに方向を変えられる。


 地面へ立たなければならない理由などない。


「俺は、飛ばなくていい」


 獅堂へ向かって落ちながら、俺は言う。


「何?」


「飛ぶには翼が要る。浮かぶには支えが要る」


 右手の紋様が白く輝く。


「でも、落ちるだけなら何も要らない」


 獅堂が舌打ちした。


 右足を踏む。


「なら、好きな方向へ落としてやる!」


 上下が反転する。


 今度は、俺の背後が下になる。


 身体が急激に減速し、逆方向へ引かれる。


 だが、完全に進行方向が変わるまでには時間がかかる。


 慣性がある。


 獅堂が指定した下と。


 俺が既に進んでいる方向。


 二つは一致しない。


未証明(アンプローヴン)!」


 どちらへ落ちるのか。


 その《結論》を保留する。


 身体が一瞬だけ空中へ静止する。


 俺は身体を捻る。


 腕を振り、脚を畳み、次に動き出したときの姿勢を整える。


「今だ、獅堂!」


「調子に乗るな!」


 獅堂が再び上下を変更した。


 能力が切れる。


 二つの重力方向と、それまでの速度。


 複数の力が合成され、俺の身体は弧を描いた。


 獅堂の真正面へ。


「なっ――」


 拳を振り抜く。


 獅堂は腕で受け止めた。


 鈍い衝撃。


 俺の拳は防がれた。


 しかし、空中から飛び込んだ俺の全体重と速度を受け、獅堂の身体がわずかに後退する。


 右足が壁から離れた。


 左足だけになる。


「教授!」


 澄玲が叫ぶ。


「獅堂剛毅、命題(テーゼ)の《前提》が一部解除!」


 支配領域が揺らぐ。


 研究室の重力方向が不安定になる。


 机や椅子が複数の方向へ引かれ、小刻みに震えた。


「たかが一発で!」


 獅堂が俺の胸ぐらを掴もうとする。


 俺はその腕を取った。


 掴まれれば、獅堂が俺を支えることになる。


 あいつ自身が地面になる可能性がある。


 それは危険だ。


 だから組み合わない。


 伸ばされた腕を叩き、身体を回転させるためだけに使う。


「こいつ……!」


 俺は獅堂の肩を押す。


 反作用で、自分の身体を壁から離す。


 再び落下する。


 ただし今度は、獅堂の背後へ回り込む軌道。


「獅堂、後ろです!」


「九条! どっちの味方だ!」


「観測結果を伝えただけです」


「それが敵への助言だろうが!」


 獅堂が振り返る。


 両足を再び壁へつけた。


 万象は我が礎(グランド・レガリア)が安定する。


 俺の身体が、突然壁へ向かって引かれた。


「地面へ叩きつけて終わりだ!」


 壁が巨大な拳へ変形する。


 俺の全身を正面から押し潰そうと迫った。


 逃げ道はない。


 左右にも岩壁が生まれ、上下も塞がれている。


 巨大な掌の中へ閉じ込められた。


「黒瀬!」


 天城先輩の声。


 このままでは圧殺される。


 未証明(アンプローヴン)を使えば、衝突を二・四秒だけ止められる。


 けれど、その間に逃げ道を作れなければ同じだ。


 周囲はすべて岩。


 隙間はない。


 別の《結論》が存在しない。


 いや。


 まだ一つだけある。


 俺は獅堂を見る。


「お前の能力は、自分の立つ面と接続した領域を支配する」


「今さら気づいても遅い!」


「なら、この岩も全部、お前とつながってる」


「だから何だ!」


 俺は迫る岩壁へ右手を向けた。


未証明(アンプローヴン)!」


 岩が俺を押し潰した。


 その《結論》が停止する。


 岩壁が身体の寸前で止まる。


 二・四秒。


 俺は岩を破壊できない。


 外へ逃げることもできない。


 だが。


 この岩が獅堂の支配下にあるなら。


 岩を動かしている原因は、獅堂自身だ。


「九条!」


「はい!」


「俺と獅堂の位置関係を教えろ!」


 澄玲の瞳に数式が走る。


「直線距離、六・二メートル! 岩壁の厚さ、一・七メートル! 獅堂剛毅は、あなたの正面から右へ十八度!」


「聞こえてんぞ!」


 獅堂がさらに力を込める。


 停止した岩壁が軋む。


 俺は両足を岩へつけた。


「条件違反だ!」


「違う」


 俺は岩の上へ立っていない。


 体重を預けているわけでもない。


 両側から迫る岩の間で、身体を縮めているだけだ。


 そして。


 思い切り岩を蹴った。


 もちろん、岩壁は動かない。


 俺の脚力では、一・七メートルもの岩を壊せない。


 だが衝撃は伝わる。


 岩全体を通って。


 支配領域の中心へ。


「ぐっ?」


 獅堂の身体がわずかに揺れた。


「何だ、今のは」


 俺はもう一度蹴る。


 拳で殴る。


 肘を打ちつける。


 岩を破壊するためではない。


 岩を通じて、獅堂の足元へ振動を送る。


「お前の地面なら――」


 何度も。


 何度も。


「俺の攻撃も、お前まで届く!」


「こんな振動で俺を倒せるか!」


「倒す必要はない!」


 能力の残り時間が減る。


 一秒。


 〇・五秒。


 最後に、両足を揃えて岩を蹴った。


 衝撃が支配領域全体へ伝わる。


 獅堂の足元に、小さな亀裂が走った。


「しまっ――」


 右足が滑る。


 両足が同一面へ接触するという、命題(テーゼ)の《前提》が崩れる。


 支配が一瞬だけ弱まった。


 俺の未証明(アンプローヴン)が切れる。


 本来なら岩壁が俺を押し潰すはずだった。


 しかし、獅堂の支配が乱れたことで、岩を動かす力そのものが消える。


 圧殺という《結論》は成立しなかった。


 岩の隙間が開く。


「今です!」


 澄玲の声。


 俺は隙間から身体を投げ出した。


 再び落ちる。


 地面はない。


 何かへ立つ必要もない。


 獅堂が重力方向を立て直そうとする。


 だが、遅い。


 俺は落下の勢いを利用して、あいつの腹へ肩から突っ込んだ。


「がっ!」


 獅堂の背中が壁へ叩きつけられる。


 今度こそ両足が完全に離れた。


 万象は我が礎(グランド・レガリア)が解除される。


 研究室の上下が、本来の方向へ戻った。


「うわっ!」


 俺も獅堂も、今度は本当の床へ向かって落ちる。


 床が迫る。


 試験条件は、一度も地面へ足を触れずに勝利すること。


 このまま着地すれば失敗だ。


未証明(アンプローヴン)!」


 俺の落下が止まる。


 だが獅堂は止まらない。


「待っ――」


 床へ叩きつけられた。


 激しい衝撃。


 獅堂は背中から落ち、肺の空気を吐き出した。


 俺はその一メートル上で、空中に静止している。


 二・四秒。


 この間に、別の《結論》へ移らなければならない。


 天井から落ちてきた金属の輪が見えた。


 掴めば、また支えられる。


 それでは駄目だ。


 ならば。


「天城先輩!」


「おう!」


「俺に向かって何か投げろ!」


「は?」


「早く!」


 天城先輩は一瞬迷い、手に持っていた菓子パンの袋を俺へ投げた。


「なんでそれだ!」


「他になかった!」


 軽すぎる。


 だが、ゼロではない。


 俺は飛んできた袋を空中で殴った。


 袋は反対方向へ飛ぶ。


 俺の身体も、ほんのわずかに押し返される。


 数センチ。


 それだけ。


 だが、最初の位置とは違う。


 別の《結論》へ到達した。


 能力が切れる。


 再び落下が始まる。


「もう一回!」


「次はこれを使え!」


 天城先輩が端末を投げる。


「壊れたら弁償しろよ!」


「投げたのは先輩だろ!」


 俺は端末を掌で横へ弾く。


 反作用で、自分の身体を逆方向へ移動させる。


未証明(アンプローヴン)!」


 再び落下を保留。


 今度は澄玲が、紙のカップを投げた。


「熱っ!」


「中身が残っていました」


「先に言え!」


 カップを弾く。


 身体が移動する。


 落下。


 保留。


 衝突。


 移動。


 わずかな反作用を繰り返し、俺は地面へ触れないまま演習場の端に設置された金属柱へ近づく。


 柱を掴むことはしない。


 側面を拳で殴り、その反作用で再び離れる。


 地面へ立たない。


 どこにも居場所を定めない。


 ただ落下と衝突を繰り返しながら、空中を移動する。


「空中滞在、二十秒」


 澄玲が記録する。


「二十五秒」


 頭の奥が熱い。


 視界が揺れる。


「三十秒」


 連続発動の限界が近い。


 それでも、以前のように無意味に落下を止めているわけではない。


 一度ごとに、別の場所へ移動している。


 一度ごとに、新しい《結論》を作っている。


「三十八秒」


 足元では、獅堂が起き上がろうとしていた。


「まだ……終わってねえぞ」


 俺は空中から、あいつを見る。


「今日の目的は、お前を倒すことじゃない」


「何?」


「俺が地面なしで動けるか、確かめることだ」


 獅堂の顔が歪む。


「俺を実験台にしたのか!」


「先に仕掛けたのはお前だろ」


「被験者は黒瀬零です」


 澄玲が訂正する。


「獅堂剛毅は、実験装置に相当します」


「誰が装置だ!」


 獅堂が立ち上がる。


 再び命題(テーゼ)を発動しようと両足を床へつけた。


「そこまで」


 神代教授の声が響く。


 赤い線が研究室を横切った。


「研究室内における無許可の命題(テーゼ)行使を誤りと判定――万象校正(エメンダティオ)


 獅堂の足元から、岩が消える。


 同時に、俺を空中へ引き留めていた未証明(アンプローヴン)も強制的に解除された。


「え?」


 床へ落ちる。


 このままでは条件違反。


 だが着地する直前、天城先輩が俺の身体を受け止めた。


「おっと」


「先輩……」


「足はついてない。条件上はセーフか?」


 灯の学生証を見る。


 失敗表示は出ていない。


「どうやら、訓練中の接触は査問の判定に含まれないようね」


 緋月が言った。


「なら、最初から条件違反を気にする必要はなかったんじゃないか?」


「本番と同じ緊張感は必要でしょう」


「先に言ってくれ!」


「聞かれなかったもの」


 この教授は、それで何でも済ませる気らしい。


 天城先輩に下ろされ、俺は床へ座り込んだ。


 全身から汗が噴き出している。


 脚も腕も震えていた。


 獅堂も壁へ背を預け、荒い呼吸を繰り返している。


「今のは査問じゃない」


 獅堂が言った。


「分かってる」


「本番では、俺も最初から本気で潰す」


「それも分かってる」


「お前の妙な動きも、一度見た。次は通用しない」


 獅堂は俺を睨む。


 だが、その目からは、最初に会ったときの露骨な侮りが少しだけ消えていた。


「それでも」


 俺は立ち上がる。


「昨日よりは、勝てる可能性がある」


「可能性?」


 獅堂が鼻で笑う。


「そんな曖昧なものにしがみつくから、お前は第五種なんだ」


「確定した勝利しか信じられないから、お前は地面から離れられないんじゃないか」


 空気が張りつめる。


「言ったな」


「ああ」


「三日後、その言葉を後悔させる」


 獅堂は研究室の出口へ向かう。


 扉の前で、緋月が呼び止めた。


「獅堂」


「まだ何か?」


「今日の器物損壊については、後ほど請求書を送る」


 獅堂の顔が固まった。


「教授が直せばいいでしょう」


「私の命題(テーゼ)は、研究費の不足までは校正できない」


「いくらですか」


「壁面修復、観測装置の再調整、机六台、椅子十一脚、天城の端末一台」


「端末は黒瀬が壊した!」


「投げたのは天城よ」


「なら天城先輩に!」


「研究室の業務中に発生した損害だから、原因となる命題(テーゼ)行使者へ請求する」


「そんな……」


 第四種能力者が、世界の終わりを見たような顔をしている。


 やはりこの大学では、能力より事務処理の方が強い。


 獅堂が肩を落として退出した後。


 緋月は俺の観測記録を円形机へ表示した。


「空中滞在、最長四十一・八秒。連続発動回数、十七回」


「まだ一分にも届いてない」


「朝の段階では、二・四秒しか留まれなかった」


 澄玲が言う。


「十七倍以上です」


「査問を四十秒で終わらせられると思うか?」


「終わらせるしかないわね」


 緋月が淡々と答える。


「今の方法は精神負荷が大きすぎる。十七回目の発動時点で、自己境界の乱れが危険域へ入っている」


 俺の脳周辺の映像に、白い亀裂が広がっていた。


「自分では、まだ動けると思っていた」


「それが一番危険なのよ」


「どう改善する」


「一回ごとの発動時間を短縮する」


「短く?」


「今までのあなたは、毎回二・四秒を使い切っていた。けれど、別の《結論》へ到達した時点で保留を続ける必要はない」


 緋月が先ほどの映像を再生する。


 俺が机を殴った瞬間。


 岩槍を蹴った瞬間。


 獅堂へ突進した瞬間。


「別の結果が成立したなら、そこで命題(テーゼ)を解除すればいい」


「自分で解除できるのか?」


「試したことがないでしょう」


 確かに。


 俺は発動時間が過ぎるまで、能力は解除されないと思い込んでいた。


 結果を二・四秒止める能力。


 そう評価されていたから。


「能力の持続時間も、入学時の観測結果にすぎない」


 澄玲が言う。


「黒瀬零自身が、二・四秒間使わなければならないと認識していた可能性があります」


「能力を途中で終わらせれば、連続使用の負担も減る」


「その仮説を次に検証する」


 緋月が新しい実験項目を追加した。


 ――任意解除。


 ――短時間連続行使。


 ――重力方向変更下における慣性保存。


「最後のは?」


 俺が尋ねる。


「先ほど、獅堂が上下を変えた瞬間に斜めへ移動したでしょう」


「ああ」


「あなたの未証明(アンプローヴン)は、発動直前の運動状態と、発動後に与えられた新しい運動法則。そのどちらを採用するか保留できる可能性がある」


「つまり、獅堂が下を変えるほど、俺の進行方向が増える」


「制御できればね」


 澄玲が空中へ複数の軌道を表示する。


 直線。


 曲線。


 鋭角に折れ曲がる線。


「落下方向を連続的に組み合わせれば、飛行に近い三次元移動が可能です」


「でも俺は飛んでない」


「ええ」


 澄玲はわずかに微笑んだ。


「世界が、あなたをどこへ落とすべきか決められないだけです」


 天城先輩が笑い声を上げる。


「いいな、それ」


「何がですか」


「技の名前だよ」


「まだ技ではありません。現象の仮称が必要な段階です」


「だから仮称をつける」


 天城先輩は俺の映像を拡大した。


 獅堂が上下を変更するたび、俺の身体が異なる方向へ落ちていく。


「空を飛ばず、地にも立たず。複数の落下を渡り歩く」


 映像の中の俺は、見えない軌道を描いて宙を駆けていた。


 実際には必死で、優雅さなど欠片もなかったが。


不定墜道(パラドクス・フォール)


「勝手に名前をつけるな」


「格好いいでしょう」


 澄玲が言った。


「君も気に入ってるのか」


「現象の特徴を簡潔に表しています」


「学術的な理由かよ」


 緋月が表示された技名を見る。


「正式名称として採用するかは、再現実験後に決める」


「教授まで乗るのか」


「研究成果には名称が必要よ」


 俺は溜息をついた。


 だが、嫌いではなかった。


 不定墜道(パラドクス・フォール)


 飛行ではない。


 浮遊でもない。


 一つの下へ従うことを拒み、落下し続ける移動法。


 獅堂の万象は我が礎(グランド・レガリア)と戦うための、俺だけの答え。


「もう一度、実験する」


 俺は言った。


「休憩後です」


 澄玲が即答する。


「時間がない」


「精神負荷が危険域です」


「でも――」


「黒瀬零」


 緋月の声が低くなる。


「あなたが自分を壊せば、黒瀬灯を記憶する者はいなくなる」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。


 俺が倒れれば、灯を探す者がいなくなる。


 俺の記憶が消えれば、彼女が存在したという最後の証拠まで失われる。


「休むことも研究の一部よ」


「……分かった」


 俺は椅子へ座った。


 身体を休めながら、灯の学生証を取り出す。


 残り時間は、百四十七時間を下回っている。


 しかし裏面には、これまでなかった新しい文字が増えていた。


 ――第二証明、進行度。


 ――一七パーセント。


「進んだ……」


 全員が学生証を見る。


 赤い数字は、確かに一七と表示されている。


「今日の実験が、証明の一部として認識された」


 澄玲が言う。


「でも、獅堂には勝っていない」


「勝利だけが証明条件ではないということね」


 緋月が表示を解析する。


「あなたが地面へ依存しない方法を発見したこと。それ自体が評価されている」


 続いて、学生証に新しい文章が浮かんだ。


 ――地に立つ者は、世界に位置を与えられる。


 ――地を持たぬ者は、自らの位置を証明しなければならない。


「自らの位置……」


 俺は読み上げる。


 地面に立てば、自分がどこにいるのかは自動的に決まる。


 床の上。


 誰かの下。


 何かの隣。


 世界の座標に従えば、俺の位置は世界が決めてくれる。


 だが何にも立たないなら。


 俺がどこにいるのか。


 どこへ向かうのか。


 自分で決めなければならない。


「俺の命題(テーゼ)の《前提》と関係しているのか?」


「可能性は高い」


 緋月が答える。


「別の《結論》を想定するだけでは不十分。あなた自身が、その《結論》における自分の位置を定める必要がある」


「自分がどうなりたいのかを、具体的に決める」


「ええ」


 世界の答えへ反対するだけでは駄目だ。


 落ちたくない。


 負けたくない。


 灯を失いたくない。


 否定だけでは、次の《結論》を作れない。


 どこへ行くのか。


 どう生きるのか。


 何を証明するのか。


 自分で答えを選ばなければならない。


 そのとき。


 学生証の表面に映る灯の写真が、わずかに動いた。


「今……」


 写真の中の灯が、こちらを見た。


 唇が動く。


 声は聞こえない。


 けれど、何を言ったのか分かった。


 ――お兄ちゃんは、どこにいるの?


 写真が元へ戻る。


 緋月たちには見えていなかったらしい。


「どうしました?」


 澄玲が尋ねる。


「灯が……」


 言いかけて、止まる。


 お兄ちゃんは、どこにいるの。


 住所を聞いているわけではない。


 この大学のどこにいるかでもない。


 俺は今、何の上に立っている。


 何を根拠に、自分を黒瀬零だと定めている。


 灯を救う兄だからか。


 世界に否定された記憶を守る者だからか。


 それとも。


 妹がいなければ、俺には何も残らないのか。


 もし灯を取り戻した後。


 俺は、何者になる。


「黒瀬零?」


 澄玲がもう一度呼ぶ。


「何でもない」


 俺は学生証を握りしめた。


 まだ、答えられない。


 だからこそ。


 証明しなければならない。


 ◇


 同じ頃。


 帝都神律大学の最上部。


 一般の学生は存在さえ知らない、《第一宇宙観測環》中央管制室。


 薄暗い空間に、無数の観測画面が浮かんでいた。


 そのすべてに、黒瀬零の訓練映像が映されている。


 地面へ立たず。


 何かへ支えられることを拒み。


 落下方向を変えながら、空中を進む姿。


 一人の老人が、その映像を静かに見つめていた。


 白い長髪。


 深い皺。


 帝都神律大学の学長を示す、十二翼の徽章。


「始まったか」


 老人の背後で、黒衣の人物が問いかける。


「予定より早いのでは?」


「いや」


 老人は首を横へ振る。


「遅すぎたくらいだ」


 画面の一つに、黒瀬灯の学生証が拡大される。


 十三枚の翼。


 七日間の証明。


「黒瀬灯は、三年間待った」


「彼女が本当に待っている保証はありません」


「そうだな」


 老人は目を細める。


「あれが今も、人間として黒瀬灯である保証はない」


 管制室中央に、《第一宇宙観測環》の立体模型が浮かぶ。


 その外側。


 通常なら何も表示されないはずの領域に、一つの黒い点が灯った。


 点の周囲で、空間がゆっくりと歪んでいる。


「外部観測圧が上昇しています」


 黒衣の人物が報告する。


「対象は?」


「《第一観測圏》全域」


「到達予測は」


「六日後」


 老人は目を閉じる。


 黒瀬零へ与えられた期限と、ほぼ一致している。


「やはり、あの試験は選抜ではない」


 老人が呟く。


「では、何だと?」


「警告だ」


 黒い点が脈打つ。


 その一瞬。


 観測画面すべてに、巨大な瞳が映った。


未証明(アンプローヴン)の成長を確認』


 感情のない声が、管制室へ響く。


『世界終了手順を第二段階へ移行』


 映像が消える。


 老人は長い沈黙の後、低く告げた。


「神代緋月へ連絡しろ」


「何と伝えますか」


「《公開査問》を予定どおり実施させる」


 黒衣の人物がわずかに顔を上げた。


「中止ではなく?」


「止めれば、黒瀬零は証明できない」


「実施すれば、観測者へ彼の成長を見せることになります」


「どちらを選んでも危険だ」


 老人は黒い点を見つめる。


「ならば、人間の可能性へ賭けるしかあるまい」


 《第一宇宙観測環》が、静かに回転を始める。


「六日後」


 その中心に、一瞬だけ黒い月が浮かんだ。


「この世界は、試験される」

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