第五話 落ち続ける者
能力が切れる。
俺の身体が落下を始めた。
いや。
落下と呼んでいいのかさえ分からない。
神代教授の研究室は、獅堂の命題によって上下を何度も書き換えられている。
さっきまで床だった場所が壁になり。
壁だった場所が天井になり。
今は宇宙を映していた窓が、俺の真下にある。
身体が窓へ向かって引かれていく。
「黒瀬!」
天城先輩の声が聞こえた。
けれど、俺は返事をする余裕もなく、窓へ向かって落ち続ける。
掴めるものはない。
いや、違う。
目の前には金属の輪がある。
獅堂が俺へ差し出した、逃げ道。
これを掴めば落下は止まる。
だが、輪が俺の身体を支えた瞬間、それは獅堂にとっての地面になる。
彼の万象は我が礎は、自分や他者を支えるものを礎として定義し、その位置と上下関係を支配する。
掴めば、支配される。
掴まなければ、落ちる。
「選べよ」
壁に立つ獅堂が笑う。
「地面にすがるか、何にも支えられずに落ちるか!」
窓が迫る。
透明な板の向こうには、底の見えない星空。
窓そのものは開かないと聞いている。
衝突しても宇宙へ放り出されるわけではない。
けれど、この速度で叩きつけられれば無事では済まない。
俺は右手を握りしめた。
「未証明!」
世界から音が消える。
身体が止まる。
窓までの距離、およそ三メートル。
残り時間は二・四秒。
また同じだ。
この間に別の《結論》へたどり着かなければ、能力が切れた瞬間に再び落下する。
輪を掴む。
それ以外の可能性を探す。
けれど、何もない空中で人間が進路を変えることはできない。
空気を蹴っても、移動できる距離はわずか。
支えがなければ、落ちる。
それが物理法則だ。
俺の命題は、願えば奇跡を起こしてくれる能力ではない。
存在しない可能性を新しく作ることはできない。
なら。
俺に残された別の可能性は、本当にないのか。
「一・六秒」
澄玲の声が聞こえる。
時間を数えている。
「一・二」
窓。
金属の輪。
壁に立つ獅堂。
横倒しになった机や椅子。
床へ固定されたまま、こちらから見れば壁に張りついている神代教授。
あらゆる物が、同じ方向へ落ちている。
いや。
一つだけ、おかしい。
研究室の中央に浮かぶ映像装置。
あれは獅堂が上下を変えても、その場から動いていない。
空間へ固定されているからだろう。
けれど俺は違う。
獅堂が重力の向きを変える前、俺は別の方向へ落ちていた。
その後、未証明を発動した。
俺の身体は、落下という《結論》を保留したまま空中に止まった。
では。
今、能力が切れたとき。
俺はどちらへ落ちる。
獅堂が新しく決めた下か。
それとも、能力を発動する直前まで落ちていた方向か。
「〇・五秒」
二つの《結論》がある。
ならば。
「獅堂!」
「あ?」
「もう一度、上下を変えろ!」
獅堂の眉が動いた。
「何を言って――」
「早くしろ!」
「俺に命令するな!」
獅堂が壁を蹴りつける。
研究室全体が震えた。
俺の右側にあった壁が、今度は下になる。
重力方向が九十度回転する。
同時に、未証明の効果が切れた。
身体へ力が戻る。
本来なら、新しく下と定められた方向へ落ちるはずだった。
だが。
俺の身体は、斜めに飛んだ。
「なに?」
獅堂の声が響く。
能力を発動する前までの落下速度。
新しく指定された重力方向。
二つが重なり、俺の身体は窓を避けて斜め下へ投げ出された。
飛んでいるのではない。
落ちている。
ただし、世界が想定した方向とは違う。
「九条!」
「前方、四・三メートルに机があります!」
澄玲の声。
机は俺と同じように、新しい下へ向かって落ち始めている。
俺の方が速い。
このままでは衝突する。
だが、机を掴めば支えられてしまう。
「掴む必要はない!」
俺は身体を丸める。
机の側面を、右手で殴った。
衝撃で机の軌道が変わる。
反作用で俺の身体も反対側へ押し返された。
「それは支えではない……」
澄玲が呟く。
「瞬間的な衝突です。黒瀬零の重量を継続的に保持していない」
「屁理屈だ!」
獅堂が叫ぶ。
「物理学です」
澄玲は真顔で返した。
俺は回転しながら、獅堂のいる壁へ向かう。
「来るな!」
獅堂が足元を踏む。
壁から無数の岩槍が突き出した。
研究室の壁は本来、岩ではない。
それでも獅堂にとって、自分の立つ面と接続しているものは、すべて支配領域だ。
白い壁が砕け、内部から黒い岩が生まれる。
三本。
五本。
十本。
岩槍が俺の身体を貫こうと迫る。
「未証明!」
命中という《結論》を止める。
岩槍が目の前で静止した。
俺自身の速度も、ほとんど失われる。
発動中に別の《結論》へ移らなければならない。
岩槍は掴めない。
掴めば、俺を支える礎になる。
なら。
俺は最も近い岩槍の側面を蹴った。
足は一瞬だけ触れる。
だが、その上に立ってはいない。
体重を預けてもいない。
ただ衝突し、押し返す。
その反動で、身体を別方向へ飛ばす。
直後に能力が切れた。
岩槍が一斉に動き出す。
俺がいた空間を、複数の岩が貫いた。
「足が触れたぞ!」
「立ってはいない」
緋月が答える。
「学生証の条件は、『地面へ足を触れず』と書かれていたはずだ!」
俺も一瞬、動きを止めかけた。
確かにそうだ。
地面へ足を触れずに勝利せよ。
俺は獅堂が作った岩槍を蹴った。
あれが地面と判定されるなら、既に失敗している。
慌てて灯の学生証を見る。
空中に投影された赤い文章は、消えていない。
失敗の表示も出ていない。
「どういうことだ」
澄玲が学生証を観測する。
「岩槍は、条件上の地面として認識されていません」
「獅堂の命題では礎になっているはずだ」
「彼の能力上の地面と、試験が定義する地面は同一ではない」
緋月が言った。
「試験が問題としているのは、単純な接触ではないのかもしれない」
何にも支えられずに勝利する。
そう解釈していた。
だが岩槍を蹴った瞬間、俺は確かに岩から反作用を受けた。
力を借りた。
それでも条件違反にはならない。
「継続的に、自分の立場を何かへ預けること」
天城先輩が目を細める。
「それが、ここでいう『地面へ足を触れる』って意味か」
「地面は物質じゃない」
俺は獅堂を見る。
「あいつの命題と同じだ」
獅堂にとって、地面とは土や岩ではない。
自分を支えるもの。
自分の立場を保証するもの。
試験条件もまた、言葉どおりの地面だけを指していない。
「何かの上へ立ち、自分の位置を確定させること」
澄玲が言う。
「試験は、それを禁じている」
「つまり、落ち続けろっていうのか」
俺は思わず笑った。
正気とは思えない。
それでも。
最初から、空中へ止まろうとしたことが間違いだったのかもしれない。
落下を敗北だと考えた。
地面へ着かなければならないと思った。
どこかへ立たなければ、人間は戦えないと思い込んでいた。
けれど。
落ちている間も、俺は動ける。
殴れる。
考えられる。
別の物体へ衝突し、そのたびに方向を変えられる。
地面へ立たなければならない理由などない。
「俺は、飛ばなくていい」
獅堂へ向かって落ちながら、俺は言う。
「何?」
「飛ぶには翼が要る。浮かぶには支えが要る」
右手の紋様が白く輝く。
「でも、落ちるだけなら何も要らない」
獅堂が舌打ちした。
右足を踏む。
「なら、好きな方向へ落としてやる!」
上下が反転する。
今度は、俺の背後が下になる。
身体が急激に減速し、逆方向へ引かれる。
だが、完全に進行方向が変わるまでには時間がかかる。
慣性がある。
獅堂が指定した下と。
俺が既に進んでいる方向。
二つは一致しない。
「未証明!」
どちらへ落ちるのか。
その《結論》を保留する。
身体が一瞬だけ空中へ静止する。
俺は身体を捻る。
腕を振り、脚を畳み、次に動き出したときの姿勢を整える。
「今だ、獅堂!」
「調子に乗るな!」
獅堂が再び上下を変更した。
能力が切れる。
二つの重力方向と、それまでの速度。
複数の力が合成され、俺の身体は弧を描いた。
獅堂の真正面へ。
「なっ――」
拳を振り抜く。
獅堂は腕で受け止めた。
鈍い衝撃。
俺の拳は防がれた。
しかし、空中から飛び込んだ俺の全体重と速度を受け、獅堂の身体がわずかに後退する。
右足が壁から離れた。
左足だけになる。
「教授!」
澄玲が叫ぶ。
「獅堂剛毅、命題の《前提》が一部解除!」
支配領域が揺らぐ。
研究室の重力方向が不安定になる。
机や椅子が複数の方向へ引かれ、小刻みに震えた。
「たかが一発で!」
獅堂が俺の胸ぐらを掴もうとする。
俺はその腕を取った。
掴まれれば、獅堂が俺を支えることになる。
あいつ自身が地面になる可能性がある。
それは危険だ。
だから組み合わない。
伸ばされた腕を叩き、身体を回転させるためだけに使う。
「こいつ……!」
俺は獅堂の肩を押す。
反作用で、自分の身体を壁から離す。
再び落下する。
ただし今度は、獅堂の背後へ回り込む軌道。
「獅堂、後ろです!」
「九条! どっちの味方だ!」
「観測結果を伝えただけです」
「それが敵への助言だろうが!」
獅堂が振り返る。
両足を再び壁へつけた。
万象は我が礎が安定する。
俺の身体が、突然壁へ向かって引かれた。
「地面へ叩きつけて終わりだ!」
壁が巨大な拳へ変形する。
俺の全身を正面から押し潰そうと迫った。
逃げ道はない。
左右にも岩壁が生まれ、上下も塞がれている。
巨大な掌の中へ閉じ込められた。
「黒瀬!」
天城先輩の声。
このままでは圧殺される。
未証明を使えば、衝突を二・四秒だけ止められる。
けれど、その間に逃げ道を作れなければ同じだ。
周囲はすべて岩。
隙間はない。
別の《結論》が存在しない。
いや。
まだ一つだけある。
俺は獅堂を見る。
「お前の能力は、自分の立つ面と接続した領域を支配する」
「今さら気づいても遅い!」
「なら、この岩も全部、お前とつながってる」
「だから何だ!」
俺は迫る岩壁へ右手を向けた。
「未証明!」
岩が俺を押し潰した。
その《結論》が停止する。
岩壁が身体の寸前で止まる。
二・四秒。
俺は岩を破壊できない。
外へ逃げることもできない。
だが。
この岩が獅堂の支配下にあるなら。
岩を動かしている原因は、獅堂自身だ。
「九条!」
「はい!」
「俺と獅堂の位置関係を教えろ!」
澄玲の瞳に数式が走る。
「直線距離、六・二メートル! 岩壁の厚さ、一・七メートル! 獅堂剛毅は、あなたの正面から右へ十八度!」
「聞こえてんぞ!」
獅堂がさらに力を込める。
停止した岩壁が軋む。
俺は両足を岩へつけた。
「条件違反だ!」
「違う」
俺は岩の上へ立っていない。
体重を預けているわけでもない。
両側から迫る岩の間で、身体を縮めているだけだ。
そして。
思い切り岩を蹴った。
もちろん、岩壁は動かない。
俺の脚力では、一・七メートルもの岩を壊せない。
だが衝撃は伝わる。
岩全体を通って。
支配領域の中心へ。
「ぐっ?」
獅堂の身体がわずかに揺れた。
「何だ、今のは」
俺はもう一度蹴る。
拳で殴る。
肘を打ちつける。
岩を破壊するためではない。
岩を通じて、獅堂の足元へ振動を送る。
「お前の地面なら――」
何度も。
何度も。
「俺の攻撃も、お前まで届く!」
「こんな振動で俺を倒せるか!」
「倒す必要はない!」
能力の残り時間が減る。
一秒。
〇・五秒。
最後に、両足を揃えて岩を蹴った。
衝撃が支配領域全体へ伝わる。
獅堂の足元に、小さな亀裂が走った。
「しまっ――」
右足が滑る。
両足が同一面へ接触するという、命題の《前提》が崩れる。
支配が一瞬だけ弱まった。
俺の未証明が切れる。
本来なら岩壁が俺を押し潰すはずだった。
しかし、獅堂の支配が乱れたことで、岩を動かす力そのものが消える。
圧殺という《結論》は成立しなかった。
岩の隙間が開く。
「今です!」
澄玲の声。
俺は隙間から身体を投げ出した。
再び落ちる。
地面はない。
何かへ立つ必要もない。
獅堂が重力方向を立て直そうとする。
だが、遅い。
俺は落下の勢いを利用して、あいつの腹へ肩から突っ込んだ。
「がっ!」
獅堂の背中が壁へ叩きつけられる。
今度こそ両足が完全に離れた。
万象は我が礎が解除される。
研究室の上下が、本来の方向へ戻った。
「うわっ!」
俺も獅堂も、今度は本当の床へ向かって落ちる。
床が迫る。
試験条件は、一度も地面へ足を触れずに勝利すること。
このまま着地すれば失敗だ。
「未証明!」
俺の落下が止まる。
だが獅堂は止まらない。
「待っ――」
床へ叩きつけられた。
激しい衝撃。
獅堂は背中から落ち、肺の空気を吐き出した。
俺はその一メートル上で、空中に静止している。
二・四秒。
この間に、別の《結論》へ移らなければならない。
天井から落ちてきた金属の輪が見えた。
掴めば、また支えられる。
それでは駄目だ。
ならば。
「天城先輩!」
「おう!」
「俺に向かって何か投げろ!」
「は?」
「早く!」
天城先輩は一瞬迷い、手に持っていた菓子パンの袋を俺へ投げた。
「なんでそれだ!」
「他になかった!」
軽すぎる。
だが、ゼロではない。
俺は飛んできた袋を空中で殴った。
袋は反対方向へ飛ぶ。
俺の身体も、ほんのわずかに押し返される。
数センチ。
それだけ。
だが、最初の位置とは違う。
別の《結論》へ到達した。
能力が切れる。
再び落下が始まる。
「もう一回!」
「次はこれを使え!」
天城先輩が端末を投げる。
「壊れたら弁償しろよ!」
「投げたのは先輩だろ!」
俺は端末を掌で横へ弾く。
反作用で、自分の身体を逆方向へ移動させる。
「未証明!」
再び落下を保留。
今度は澄玲が、紙のカップを投げた。
「熱っ!」
「中身が残っていました」
「先に言え!」
カップを弾く。
身体が移動する。
落下。
保留。
衝突。
移動。
わずかな反作用を繰り返し、俺は地面へ触れないまま演習場の端に設置された金属柱へ近づく。
柱を掴むことはしない。
側面を拳で殴り、その反作用で再び離れる。
地面へ立たない。
どこにも居場所を定めない。
ただ落下と衝突を繰り返しながら、空中を移動する。
「空中滞在、二十秒」
澄玲が記録する。
「二十五秒」
頭の奥が熱い。
視界が揺れる。
「三十秒」
連続発動の限界が近い。
それでも、以前のように無意味に落下を止めているわけではない。
一度ごとに、別の場所へ移動している。
一度ごとに、新しい《結論》を作っている。
「三十八秒」
足元では、獅堂が起き上がろうとしていた。
「まだ……終わってねえぞ」
俺は空中から、あいつを見る。
「今日の目的は、お前を倒すことじゃない」
「何?」
「俺が地面なしで動けるか、確かめることだ」
獅堂の顔が歪む。
「俺を実験台にしたのか!」
「先に仕掛けたのはお前だろ」
「被験者は黒瀬零です」
澄玲が訂正する。
「獅堂剛毅は、実験装置に相当します」
「誰が装置だ!」
獅堂が立ち上がる。
再び命題を発動しようと両足を床へつけた。
「そこまで」
神代教授の声が響く。
赤い線が研究室を横切った。
「研究室内における無許可の命題行使を誤りと判定――万象校正」
獅堂の足元から、岩が消える。
同時に、俺を空中へ引き留めていた未証明も強制的に解除された。
「え?」
床へ落ちる。
このままでは条件違反。
だが着地する直前、天城先輩が俺の身体を受け止めた。
「おっと」
「先輩……」
「足はついてない。条件上はセーフか?」
灯の学生証を見る。
失敗表示は出ていない。
「どうやら、訓練中の接触は査問の判定に含まれないようね」
緋月が言った。
「なら、最初から条件違反を気にする必要はなかったんじゃないか?」
「本番と同じ緊張感は必要でしょう」
「先に言ってくれ!」
「聞かれなかったもの」
この教授は、それで何でも済ませる気らしい。
天城先輩に下ろされ、俺は床へ座り込んだ。
全身から汗が噴き出している。
脚も腕も震えていた。
獅堂も壁へ背を預け、荒い呼吸を繰り返している。
「今のは査問じゃない」
獅堂が言った。
「分かってる」
「本番では、俺も最初から本気で潰す」
「それも分かってる」
「お前の妙な動きも、一度見た。次は通用しない」
獅堂は俺を睨む。
だが、その目からは、最初に会ったときの露骨な侮りが少しだけ消えていた。
「それでも」
俺は立ち上がる。
「昨日よりは、勝てる可能性がある」
「可能性?」
獅堂が鼻で笑う。
「そんな曖昧なものにしがみつくから、お前は第五種なんだ」
「確定した勝利しか信じられないから、お前は地面から離れられないんじゃないか」
空気が張りつめる。
「言ったな」
「ああ」
「三日後、その言葉を後悔させる」
獅堂は研究室の出口へ向かう。
扉の前で、緋月が呼び止めた。
「獅堂」
「まだ何か?」
「今日の器物損壊については、後ほど請求書を送る」
獅堂の顔が固まった。
「教授が直せばいいでしょう」
「私の命題は、研究費の不足までは校正できない」
「いくらですか」
「壁面修復、観測装置の再調整、机六台、椅子十一脚、天城の端末一台」
「端末は黒瀬が壊した!」
「投げたのは天城よ」
「なら天城先輩に!」
「研究室の業務中に発生した損害だから、原因となる命題行使者へ請求する」
「そんな……」
第四種能力者が、世界の終わりを見たような顔をしている。
やはりこの大学では、能力より事務処理の方が強い。
獅堂が肩を落として退出した後。
緋月は俺の観測記録を円形机へ表示した。
「空中滞在、最長四十一・八秒。連続発動回数、十七回」
「まだ一分にも届いてない」
「朝の段階では、二・四秒しか留まれなかった」
澄玲が言う。
「十七倍以上です」
「査問を四十秒で終わらせられると思うか?」
「終わらせるしかないわね」
緋月が淡々と答える。
「今の方法は精神負荷が大きすぎる。十七回目の発動時点で、自己境界の乱れが危険域へ入っている」
俺の脳周辺の映像に、白い亀裂が広がっていた。
「自分では、まだ動けると思っていた」
「それが一番危険なのよ」
「どう改善する」
「一回ごとの発動時間を短縮する」
「短く?」
「今までのあなたは、毎回二・四秒を使い切っていた。けれど、別の《結論》へ到達した時点で保留を続ける必要はない」
緋月が先ほどの映像を再生する。
俺が机を殴った瞬間。
岩槍を蹴った瞬間。
獅堂へ突進した瞬間。
「別の結果が成立したなら、そこで命題を解除すればいい」
「自分で解除できるのか?」
「試したことがないでしょう」
確かに。
俺は発動時間が過ぎるまで、能力は解除されないと思い込んでいた。
結果を二・四秒止める能力。
そう評価されていたから。
「能力の持続時間も、入学時の観測結果にすぎない」
澄玲が言う。
「黒瀬零自身が、二・四秒間使わなければならないと認識していた可能性があります」
「能力を途中で終わらせれば、連続使用の負担も減る」
「その仮説を次に検証する」
緋月が新しい実験項目を追加した。
――任意解除。
――短時間連続行使。
――重力方向変更下における慣性保存。
「最後のは?」
俺が尋ねる。
「先ほど、獅堂が上下を変えた瞬間に斜めへ移動したでしょう」
「ああ」
「あなたの未証明は、発動直前の運動状態と、発動後に与えられた新しい運動法則。そのどちらを採用するか保留できる可能性がある」
「つまり、獅堂が下を変えるほど、俺の進行方向が増える」
「制御できればね」
澄玲が空中へ複数の軌道を表示する。
直線。
曲線。
鋭角に折れ曲がる線。
「落下方向を連続的に組み合わせれば、飛行に近い三次元移動が可能です」
「でも俺は飛んでない」
「ええ」
澄玲はわずかに微笑んだ。
「世界が、あなたをどこへ落とすべきか決められないだけです」
天城先輩が笑い声を上げる。
「いいな、それ」
「何がですか」
「技の名前だよ」
「まだ技ではありません。現象の仮称が必要な段階です」
「だから仮称をつける」
天城先輩は俺の映像を拡大した。
獅堂が上下を変更するたび、俺の身体が異なる方向へ落ちていく。
「空を飛ばず、地にも立たず。複数の落下を渡り歩く」
映像の中の俺は、見えない軌道を描いて宙を駆けていた。
実際には必死で、優雅さなど欠片もなかったが。
「不定墜道」
「勝手に名前をつけるな」
「格好いいでしょう」
澄玲が言った。
「君も気に入ってるのか」
「現象の特徴を簡潔に表しています」
「学術的な理由かよ」
緋月が表示された技名を見る。
「正式名称として採用するかは、再現実験後に決める」
「教授まで乗るのか」
「研究成果には名称が必要よ」
俺は溜息をついた。
だが、嫌いではなかった。
不定墜道。
飛行ではない。
浮遊でもない。
一つの下へ従うことを拒み、落下し続ける移動法。
獅堂の万象は我が礎と戦うための、俺だけの答え。
「もう一度、実験する」
俺は言った。
「休憩後です」
澄玲が即答する。
「時間がない」
「精神負荷が危険域です」
「でも――」
「黒瀬零」
緋月の声が低くなる。
「あなたが自分を壊せば、黒瀬灯を記憶する者はいなくなる」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
俺が倒れれば、灯を探す者がいなくなる。
俺の記憶が消えれば、彼女が存在したという最後の証拠まで失われる。
「休むことも研究の一部よ」
「……分かった」
俺は椅子へ座った。
身体を休めながら、灯の学生証を取り出す。
残り時間は、百四十七時間を下回っている。
しかし裏面には、これまでなかった新しい文字が増えていた。
――第二証明、進行度。
――一七パーセント。
「進んだ……」
全員が学生証を見る。
赤い数字は、確かに一七と表示されている。
「今日の実験が、証明の一部として認識された」
澄玲が言う。
「でも、獅堂には勝っていない」
「勝利だけが証明条件ではないということね」
緋月が表示を解析する。
「あなたが地面へ依存しない方法を発見したこと。それ自体が評価されている」
続いて、学生証に新しい文章が浮かんだ。
――地に立つ者は、世界に位置を与えられる。
――地を持たぬ者は、自らの位置を証明しなければならない。
「自らの位置……」
俺は読み上げる。
地面に立てば、自分がどこにいるのかは自動的に決まる。
床の上。
誰かの下。
何かの隣。
世界の座標に従えば、俺の位置は世界が決めてくれる。
だが何にも立たないなら。
俺がどこにいるのか。
どこへ向かうのか。
自分で決めなければならない。
「俺の命題の《前提》と関係しているのか?」
「可能性は高い」
緋月が答える。
「別の《結論》を想定するだけでは不十分。あなた自身が、その《結論》における自分の位置を定める必要がある」
「自分がどうなりたいのかを、具体的に決める」
「ええ」
世界の答えへ反対するだけでは駄目だ。
落ちたくない。
負けたくない。
灯を失いたくない。
否定だけでは、次の《結論》を作れない。
どこへ行くのか。
どう生きるのか。
何を証明するのか。
自分で答えを選ばなければならない。
そのとき。
学生証の表面に映る灯の写真が、わずかに動いた。
「今……」
写真の中の灯が、こちらを見た。
唇が動く。
声は聞こえない。
けれど、何を言ったのか分かった。
――お兄ちゃんは、どこにいるの?
写真が元へ戻る。
緋月たちには見えていなかったらしい。
「どうしました?」
澄玲が尋ねる。
「灯が……」
言いかけて、止まる。
お兄ちゃんは、どこにいるの。
住所を聞いているわけではない。
この大学のどこにいるかでもない。
俺は今、何の上に立っている。
何を根拠に、自分を黒瀬零だと定めている。
灯を救う兄だからか。
世界に否定された記憶を守る者だからか。
それとも。
妹がいなければ、俺には何も残らないのか。
もし灯を取り戻した後。
俺は、何者になる。
「黒瀬零?」
澄玲がもう一度呼ぶ。
「何でもない」
俺は学生証を握りしめた。
まだ、答えられない。
だからこそ。
証明しなければならない。
◇
同じ頃。
帝都神律大学の最上部。
一般の学生は存在さえ知らない、《第一宇宙観測環》中央管制室。
薄暗い空間に、無数の観測画面が浮かんでいた。
そのすべてに、黒瀬零の訓練映像が映されている。
地面へ立たず。
何かへ支えられることを拒み。
落下方向を変えながら、空中を進む姿。
一人の老人が、その映像を静かに見つめていた。
白い長髪。
深い皺。
帝都神律大学の学長を示す、十二翼の徽章。
「始まったか」
老人の背後で、黒衣の人物が問いかける。
「予定より早いのでは?」
「いや」
老人は首を横へ振る。
「遅すぎたくらいだ」
画面の一つに、黒瀬灯の学生証が拡大される。
十三枚の翼。
七日間の証明。
「黒瀬灯は、三年間待った」
「彼女が本当に待っている保証はありません」
「そうだな」
老人は目を細める。
「あれが今も、人間として黒瀬灯である保証はない」
管制室中央に、《第一宇宙観測環》の立体模型が浮かぶ。
その外側。
通常なら何も表示されないはずの領域に、一つの黒い点が灯った。
点の周囲で、空間がゆっくりと歪んでいる。
「外部観測圧が上昇しています」
黒衣の人物が報告する。
「対象は?」
「《第一観測圏》全域」
「到達予測は」
「六日後」
老人は目を閉じる。
黒瀬零へ与えられた期限と、ほぼ一致している。
「やはり、あの試験は選抜ではない」
老人が呟く。
「では、何だと?」
「警告だ」
黒い点が脈打つ。
その一瞬。
観測画面すべてに、巨大な瞳が映った。
『未証明の成長を確認』
感情のない声が、管制室へ響く。
『世界終了手順を第二段階へ移行』
映像が消える。
老人は長い沈黙の後、低く告げた。
「神代緋月へ連絡しろ」
「何と伝えますか」
「《公開査問》を予定どおり実施させる」
黒衣の人物がわずかに顔を上げた。
「中止ではなく?」
「止めれば、黒瀬零は証明できない」
「実施すれば、観測者へ彼の成長を見せることになります」
「どちらを選んでも危険だ」
老人は黒い点を見つめる。
「ならば、人間の可能性へ賭けるしかあるまい」
《第一宇宙観測環》が、静かに回転を始める。
「六日後」
その中心に、一瞬だけ黒い月が浮かんだ。
「この世界は、試験される」




